以前書いた「考えてもしょうがないことは考えない(取り越し苦労をしない、後悔をしない、恵まれた人を嫉妬しない、世間の目を気にしない、嫌な人のことを考えない)」と並んで、ぼくがここしばらく役立てている言葉が「愛は愛を呼び、憎しみは憎しみを呼ぶ」というものだ。
「パタリロ!」というマンガにこういうエピソードがあった。
★★★ネタバレ注意!★★★
ある青年が、業突く張りの老婆と一緒に住んでいる。
老婆はいつも憎まれ口を利いていて、青年は老婆に一刻も早く死んで欲しくてしょうがない。
しかし、老婆の遺産が欲しいので、殺人の事実がばれるようなことがあっては困るし、最後まで青年は老婆を愛していたと思われたい。
そこで青年はパタリロに相談すると、パタリロは青年に、半年かけて少しずつ飲ませ、背中や腰をさすってやると、まったく痕跡が残らずに死ぬという毒薬を渡す。
半年間、毎日、毎晩青年は老婆に薬を飲ませ、背中や腰をさすってやる。
ある日、老婆は急に泣き崩れ「これまで自分の財産目当てだと思っていたが、こんなに良くしてくれるとは思わなかった。今まで憎まれ口を利いてすまなかった」と青年に言うのであった。
それを聞いて青年は心打たれ、なんとか老婆が死なずに済むような解毒剤はないかパタリロに頼む。
「解毒剤はない」
パタリロは言った。
「あれはただの整腸剤だからな」
パタリロはこうなることを見越して、半年前にただの整腸剤を渡したのであった。
愛は愛を呼び、憎しみは憎しみを呼ぶ。
青年の偽りの愛が、老婆の真実の愛を呼び覚まし、老婆の愛はさらに、青年の真実の愛を呼び覚ましたのであった。
★★★
世間で生きていると、イヤな人と交わらなければならないことが、どうしようもなくある。
イヤなお客さんに仕事を頼まれたり、イヤな人を接待したりする。
で、イヤな人は憎まれ口を利いて来る。
こういう人にどう対処すべきか。
ぼくは、イヤな人のイヤな部分を、人一倍気にする方であって、何か憎まれ口を言われると、目の前が真っ暗になるほどストレスを感じていた。
そして、必死でより効果的な憎まれ口で言い返すことを考えたり、いかにして言い負かすかを必死で考えたりしていた。
これは「心のクセ」になる。
イヤな人と会わなければならなくなると、もうイヤな気持ちに火が付いていて、その人が言いそうな憎まれ口を前もってシミュレーションしてあらかじめ腹が立ったり、その(まだ言われてもいない)憎まれ口に言い返す方法を考えたりしているのである。
思い出し怒りというのがよくあるが、その逆の、予知怒りである。
こうなると完全にビョーキだ。
精神の、知性の無駄遣いである。
こうやって考えると、イヤな人がイヤなのは、その人がイヤなだけでなく、自分の中のイヤな部分を呼び覚ましているのである。
で、こういうときどうするか。
せいぜい笑顔で接するようにする。
政治的な作り笑顔、営業スマイルであって、尾崎豊的な青春時代はたまらなく欺瞞的でイヤな感じがするだろうが、やってみると、会社員ゴッコ、大人ゴッコをしているようで、楽しい。
とりあえず廊下ですれ違ったら「こんにちは!」と明るく言う。
ことさらに世間話をする必要はない。
挨拶、笑顔が基本である。
そしてイヤな人に頼まれた仕事は全力でやる。
好きな人に頼まれた仕事はしぜんと全力でやるだろうが、イヤな人に頼まれた仕事も意識的に全力でやってみる。
結局仕事は、常に全力でやるのが効率がいいのである。
出来栄えに文句を言われたりして、ストレスを得たり、細かいアラ探しをされていちいちやり取りしたりすることを思えば、最初から全力で当たったほうが結局は時間の節約になる。
で、こういう方針で対応していると、相手の態度も変わってくる。
まず「ありがとう」と言われる。
これは本当に魔法の言葉であって、言い合っているとお互いの人生がどんどん向上する。
ぼくは超自然的なことは本当にまったく信じない方であるが、「ありがとう」という言葉には確かにマジカルなパワーがあると思っている。
用事を頼まれても「ご依頼ありがとうございます」と、いろいろ余計なことを思う前にしれっと言ってしまう。
頼まれたら感謝する、と言うことをルーチンにしてしまうのだ。
これで、一つの喜ばしい人間関係が始まるので、多少行き違いや瑕疵、遅れがあっても良好に復旧できる。
好意は保険になるのだ。
なんだか必死にキレイごとを書いているようだが、これは全部本当の話だ。
感謝し合い、尊敬し合って生きるのは、余計なストレスがなく、効率がいいのである。
好意ベースで接していると、イヤな人がどんどんイイ人になってくる。
とりあえず表面上は、憎まれ口を利くわけには行かなくなってくるのでこちらに対する態度がどんどん改善される。
表面上だけでも変わってくれるとグンと助かるのだ。
表面上ではなく、イヤだと思っていた人と、肝胆相照らす人間関係が生まれることさえある。
と言うのは、自分がイヤな人だと思っていた人は、実は向こうも自分のことを、必要以上に憎んでいたことが多いからだ。
そのために、同じ言葉であっても悪意に解釈されたりして、悪循環になっていたのだ。
こちらが意識的に(たとえ表面上でも)敬意を払うことによって、とりあえず必要以上に憎まれることはなくなる。
そうすれば、人間関係は急速に変わる。
この「人は、嫌いな人のことを、必要以上に憎んでいる」というのが大きなキーワードだと思う。
ぼくは過剰に香水くさい女の人が嫌いだ。
一時期会社に香水くさい人、Aさんがいて、Aさんの香水のにおいが気になる、何とかして欲しい、と他の人に陰ぐちを言っていた。すると、その他の人から、でも深沢さんはBさんとすごく仲がいいね、Bさんも相当香水くさいと思うけど、と言われた。
ハッとした。
同じ香水のにおいであっても、普段から良好な人間関係をはぐくんでいるかどうかで、受け取り方が全然違うのだ。
こういうことはオトナ社会ではよくあることであって、リフォーム工事の前に近所に挨拶回りをして、菓子折りの一つも配っているかどうかで、騒音の聞こえ方が全然違う。
それが分かっているから、如才ない人は工事の前に菓子折りを配って歩くのだ。
これは、お菓子をもらったから引き換えに騒音をガマンしてやるか、というのとは違う。
菓子折りなんかもらってもそれほどうれしくはない。
挨拶があると、相手も人間らしい心を持った仲間だ、同じ社会の協力関係だと認知する。
それによって、お互い様という気持ちになるのである。
こんな気の遣い方は、政治的な欺瞞と思われるかもしれないが、「必要以上に憎み合う」ことを事前に避けるという意味で、実はお互いのために必要な思いやりである。
意識的に他人に敬意を払う、表面上でいいから愛想良くする、とりあえず笑顔、挨拶、頼まれた仕事は全力でやる、ということを可能な限り勤めれば、人間関係は改善し、結果的に自分自身のストレスレベルは低下する。
特にイヤな人には、高地トレーニングだと思って、ことさらに笑顔で挨拶すれば、効く。
これに気づいたのは、30台半ばになってからだ。
(遅い!)
これをやってみて気づくのは、人の態度は急速に変化するということだ。
ものすごく反りが合わなかった人と、ものすごくラブラブになるのに、ものの1週間も掛からないことがある。
これはビックリする。
愛は愛を呼ぶ。
そう思って生きることは、非常に効率的であって、是非すべての人におすすめしたい。
ある青年が、業突く張りの老婆と一緒に住んでいる。
老婆はいつも憎まれ口を利いていて、青年は老婆に一刻も早く死んで欲しくてしょうがない。
しかし、老婆の遺産が欲しいので、殺人の事実がばれるようなことがあっては困るし、最後まで青年は老婆を愛していたと思われたい。
そこで青年はパタリロに相談すると、パタリロは青年に、半年かけて少しずつ飲ませ、背中や腰をさすってやると、まったく痕跡が残らずに死ぬという毒薬を渡す。
半年間、毎日、毎晩青年は老婆に薬を飲ませ、背中や腰をさすってやる。
ある日、老婆は急に泣き崩れ「これまで自分の財産目当てだと思っていたが、こんなに良くしてくれるとは思わなかった。今まで憎まれ口を利いてすまなかった」と青年に言うのであった。
それを聞いて青年は心打たれ、なんとか老婆が死なずに済むような解毒剤はないかパタリロに頼む。
「解毒剤はない」
パタリロは言った。
「あれはただの整腸剤だからな」
パタリロはこうなることを見越して、半年前にただの整腸剤を渡したのであった。
愛は愛を呼び、憎しみは憎しみを呼ぶ。
青年の偽りの愛が、老婆の真実の愛を呼び覚まし、老婆の愛はさらに、青年の真実の愛を呼び覚ましたのであった。
★★★
世間で生きていると、イヤな人と交わらなければならないことが、どうしようもなくある。
イヤなお客さんに仕事を頼まれたり、イヤな人を接待したりする。
で、イヤな人は憎まれ口を利いて来る。
こういう人にどう対処すべきか。
ぼくは、イヤな人のイヤな部分を、人一倍気にする方であって、何か憎まれ口を言われると、目の前が真っ暗になるほどストレスを感じていた。
そして、必死でより効果的な憎まれ口で言い返すことを考えたり、いかにして言い負かすかを必死で考えたりしていた。
これは「心のクセ」になる。
イヤな人と会わなければならなくなると、もうイヤな気持ちに火が付いていて、その人が言いそうな憎まれ口を前もってシミュレーションしてあらかじめ腹が立ったり、その(まだ言われてもいない)憎まれ口に言い返す方法を考えたりしているのである。
思い出し怒りというのがよくあるが、その逆の、予知怒りである。
こうなると完全にビョーキだ。
精神の、知性の無駄遣いである。
こうやって考えると、イヤな人がイヤなのは、その人がイヤなだけでなく、自分の中のイヤな部分を呼び覚ましているのである。
で、こういうときどうするか。
せいぜい笑顔で接するようにする。
政治的な作り笑顔、営業スマイルであって、尾崎豊的な青春時代はたまらなく欺瞞的でイヤな感じがするだろうが、やってみると、会社員ゴッコ、大人ゴッコをしているようで、楽しい。
とりあえず廊下ですれ違ったら「こんにちは!」と明るく言う。
ことさらに世間話をする必要はない。
挨拶、笑顔が基本である。
そしてイヤな人に頼まれた仕事は全力でやる。
好きな人に頼まれた仕事はしぜんと全力でやるだろうが、イヤな人に頼まれた仕事も意識的に全力でやってみる。
結局仕事は、常に全力でやるのが効率がいいのである。
出来栄えに文句を言われたりして、ストレスを得たり、細かいアラ探しをされていちいちやり取りしたりすることを思えば、最初から全力で当たったほうが結局は時間の節約になる。
で、こういう方針で対応していると、相手の態度も変わってくる。
まず「ありがとう」と言われる。
これは本当に魔法の言葉であって、言い合っているとお互いの人生がどんどん向上する。
ぼくは超自然的なことは本当にまったく信じない方であるが、「ありがとう」という言葉には確かにマジカルなパワーがあると思っている。
用事を頼まれても「ご依頼ありがとうございます」と、いろいろ余計なことを思う前にしれっと言ってしまう。
頼まれたら感謝する、と言うことをルーチンにしてしまうのだ。
これで、一つの喜ばしい人間関係が始まるので、多少行き違いや瑕疵、遅れがあっても良好に復旧できる。
好意は保険になるのだ。
なんだか必死にキレイごとを書いているようだが、これは全部本当の話だ。
感謝し合い、尊敬し合って生きるのは、余計なストレスがなく、効率がいいのである。
好意ベースで接していると、イヤな人がどんどんイイ人になってくる。
とりあえず表面上は、憎まれ口を利くわけには行かなくなってくるのでこちらに対する態度がどんどん改善される。
表面上だけでも変わってくれるとグンと助かるのだ。
表面上ではなく、イヤだと思っていた人と、肝胆相照らす人間関係が生まれることさえある。
と言うのは、自分がイヤな人だと思っていた人は、実は向こうも自分のことを、必要以上に憎んでいたことが多いからだ。
そのために、同じ言葉であっても悪意に解釈されたりして、悪循環になっていたのだ。
こちらが意識的に(たとえ表面上でも)敬意を払うことによって、とりあえず必要以上に憎まれることはなくなる。
そうすれば、人間関係は急速に変わる。
この「人は、嫌いな人のことを、必要以上に憎んでいる」というのが大きなキーワードだと思う。
ぼくは過剰に香水くさい女の人が嫌いだ。
一時期会社に香水くさい人、Aさんがいて、Aさんの香水のにおいが気になる、何とかして欲しい、と他の人に陰ぐちを言っていた。すると、その他の人から、でも深沢さんはBさんとすごく仲がいいね、Bさんも相当香水くさいと思うけど、と言われた。
ハッとした。
同じ香水のにおいであっても、普段から良好な人間関係をはぐくんでいるかどうかで、受け取り方が全然違うのだ。
こういうことはオトナ社会ではよくあることであって、リフォーム工事の前に近所に挨拶回りをして、菓子折りの一つも配っているかどうかで、騒音の聞こえ方が全然違う。
それが分かっているから、如才ない人は工事の前に菓子折りを配って歩くのだ。
これは、お菓子をもらったから引き換えに騒音をガマンしてやるか、というのとは違う。
菓子折りなんかもらってもそれほどうれしくはない。
挨拶があると、相手も人間らしい心を持った仲間だ、同じ社会の協力関係だと認知する。
それによって、お互い様という気持ちになるのである。
こんな気の遣い方は、政治的な欺瞞と思われるかもしれないが、「必要以上に憎み合う」ことを事前に避けるという意味で、実はお互いのために必要な思いやりである。
意識的に他人に敬意を払う、表面上でいいから愛想良くする、とりあえず笑顔、挨拶、頼まれた仕事は全力でやる、ということを可能な限り勤めれば、人間関係は改善し、結果的に自分自身のストレスレベルは低下する。
特にイヤな人には、高地トレーニングだと思って、ことさらに笑顔で挨拶すれば、効く。
これに気づいたのは、30台半ばになってからだ。
(遅い!)
これをやってみて気づくのは、人の態度は急速に変化するということだ。
ものすごく反りが合わなかった人と、ものすごくラブラブになるのに、ものの1週間も掛からないことがある。
これはビックリする。
愛は愛を呼ぶ。
そう思って生きることは、非常に効率的であって、是非すべての人におすすめしたい。