連載の第9回である。
今日は「企画書」を作ることを考える。



そもそも「企画書」とは何だろうか。
それは一冊の本を出版社に提案し、こういう本を出したいんですけどどうでしょうか、と聞くための資料である。
 ・自分が書きたい本の概要を伝える
 ・どんな本が今求められているのか意見を聞く
 ・すり合わせて、どんな本を作るかを決める
ための、出版企画会議の最初の資料である。

「企画書」を持っていかずに、「原稿」をいきなり持っていくあり方もあるのではないだろうか。
マンガはたぶん、16ページとかの短編を持っていくと思う。
他にも、小説などの文芸作品はたぶんそうすると思う。

でも、技術書や実用書ではこれはあまりやらないと思う。
立場を逆にして考えてもらうと、いきなり何十万文字もの原稿を(それもプリントで)持っていって、さあ読んでくださいと言われても、困る。
コンパクトな資料を用意し、その場でポンポンと話が進む(あるいは、こんな本ダメだからもうちょっと考えてくださいよ、と気楽に言える)ようにするのが普通だと思う。

説教ばったハナシをするようだが、この辺の人とのやり取りは「相手がどう思うか」を考えた方がいい。
まったく見ず知らずの人が会社にやってきて、
 ・A4数枚にまとめられた分かりやすい資料を見せるのと
 ・数百ページの原稿をドンと見せるのと
では絶対前者だろうと思う。

では企画書というのはどういう要件を満たしている必要があるか。

ぼくはこの辺、よく知らない。
適当に作っていた。
実際、こういうフォームを満たさないといけないとか、こういうテンプレートを使うのが常識だとか言うのは、特にないと思う。

適当に考えると、次のようなものがあるといいと思われる。

 ・題名案
 ・目次案★最重要★
 ・本の仕様(版型、ページ数、図版の量)
 ・前書き案
 ・第1章、最初の4ページ

要はAmazonの、本の紹介のページのようなものを適当に作って持っていけばいいと思う。

「目次案」、「前書き案」、「第1章、最初の4ページ」は、ベタテキストで書くより、ワープロでそれっぽいものを作ってしまうのがいいと思う。
ものすごくカッコイイ、そのまま出版できるものを作れればそれはそれでいいけど、全然ダメダメな、突っ込みどころいっぱいのものを持っていくのも面白い。

要は「タタキ台」である。
ぼくたちには、一冊の本を書くために、足りないことがいっぱいある。
どこに足りないか、編集のプロに教えてもらう。
そういう気持ちで行けばいいんじゃないだろうか。

そう思えば、あまりカッコイイ、完璧なプレゼン資料を用意する必要もない。
どうもぼくはプレゼン資料というのが嫌いだ。
ウサンクサイ気がする。
これはこのコーナーの趣旨を越えるので、いずれじっくり書きたいと思っているが、スライドを用意するとか、アニメーションに凝るとか、そういう努力は無駄だと思う。

ぼくは何の提案でもそうだが、余白の多いA4のプリントを、片面印刷で8ページぐらい持っていくようにしている。
なぜ片面かというと、話しながらウラにいろいろ書けるからだ。
スライドを映しながらホワイトボードやノートに書くよりも、機動性があってぼくは好きだ。
少なくとも、書籍の企画は目の前で紙にいろいろ書くほうが話が盛り上がると思う。

まあ、こんなの人の好きずき、その人のスタイルが必要だと思う。

さて、編集の人に企画を持っていく、心構えに属する部分であるが、二つの矛盾する立場があると思う。

ひとつは、こっちは素人で、向こうはプロなのだから、こちらの不明をビシビシただしていただく、ご指導いただく、という考え方だ。
「本を書きたい病」「本を書けばいいと思うんだけど、何をしたらいいか分からない病」に罹った患者が、専門医に受診するような心掛けである。
編集者はそういう作家の卵の扱いのプロである。
私の卵を孵してください、と思っていき、プロのツッコミをありがたく聞く、という方針である。

これは合理的な考え方だが、これだけでは足りないと思う。

もうひとつは、私はみなさんが今まで発想出来なかったまったく新しい企画の本を持ってきました。
この企画を形にする手伝いをしてください。
意見があったら聞きますが、基本的には私が全部決めます、という、はっきり言えばエラソーな立場である。
(心構え、立場の問題であって、実際に偉そうにする必要はない。)

本を企画すると、編集者と衝突する。
衝突し始めのころは、最初はこっちが素人で向こうはプロだから仕方ないな、どんどん編集者の言うように企画も自分も変わっていって編集者好みの私になろう、と思うのだが、どうもそれでは話がうまく進まない。
自分も乗り気にならないし、不思議なことに相手も乗り気にならない。
ジャズで、演奏がノリノリの状態になることをスウィングするというが、どうも話がスウィングしないのである。

それで思ったのだが、著者と編集者は、工場長と総務経理というか、ミュージシャンとマネージャーというか、二つの異なる頭の働きを持っていると思う。
二律背反である。

編集者は「普通そういう本は売れないんですよ」、「プロの著者のみなさんは普通こう書きますよ」という言い方をすることがあるが、ぼくはこの言い方にどうしようもなく創造的な反発心が湧く。

これからぼくたちは、「今までまったくこの世に存在しなかった、画期的な本」を作ろうとしているのである。

べつに青臭いきれい事を書いているわけではない。
「これまであった本の決まりをすべてクリアーした行儀のいい本」、「これまで売れた本の平均をとった文句の付けようのない本」を書いても、誰も読まないと思う。
もしそれでいい本が書けるなら、機械でいくらでも生成できるはずだ。
なのになぜ、著者たる人間存在が必要なのか。
それは、これまでの本をすべて知悉した出版のプロでさえも思いつかない、変な本、変わった本、気が狂った本を思いつくためである。

これからぼくたちが書く本は、どんな本になるのか、誰も知らないのである。
強いて言えば、書こうと発想したぼくたちが一番詳しい。

もちろん、編集者の意見は納得できる部分はいくらでも吸収したほうがいいし、正直どうでもいいことはどんどん従った方がいい。
(時間の節約になる)
しかし、自分がこだわっていること、自分が本を書く意味に係わることは、徹底的に議論した方がいい。
これは執筆に限らないと思うが、新しい仕事を提案するのなら、自分はゴッホだ、ピカソだと思っているのがいいと思う。
多少変に見られてもかまわない。
変な人の扱いも、プロの編集者であれば慣れているのである。

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