去年は大変だった。
なにしろ大地震が起こって、原発事故が起こって、親父が死んだ。
(父は前から患っていた普通の病気で逝去したのだが)
と同時に自分の体調が悪くなった。
これも前から普通に悪かったものが一気に顕在化した。
背中の痛み、全身のかゆみ、だるさ、疲れ、うつ症状という不定愁訴が一気に押し寄せてきた。
こうなると、さすがに人生いろいろ考えるものである。
なにしろ大地震が起こって、原発事故が起こって、親父が死んだ。
(父は前から患っていた普通の病気で逝去したのだが)
と同時に自分の体調が悪くなった。
これも前から普通に悪かったものが一気に顕在化した。
背中の痛み、全身のかゆみ、だるさ、疲れ、うつ症状という不定愁訴が一気に押し寄せてきた。
こうなると、さすがに人生いろいろ考えるものである。
もっとも、周りの人もいろいろ思い悩むことがあったらしくて、去年から今年に掛けてすごく沢山の人と長時間話をした。
それで分かったのは、傍目八目というやつで、人の悩みは非常に解決法がよく分かるということである。
たいてい、悩んでもしょうがないことを悩んでいる。
人の悩みを沢山聞いて、それに対する対策を考えて(当人に教えることもあるが、あえて黙って聞いていることも多い。この件はそのうち書く)いるうちに、自分の悩みもある程度解決法が分かってきた。
人間というのは、本当に、悩んでもしょうがないことを悩んでいるのである。
以下に列挙する。
(1)もうどうしようもない過去をクヨクヨ後悔する
(2)今から考えてもどうしようもない未来をクヨクヨ思い悩む
(3)人と比べて自分がいかに劣っているかをクヨクヨ嫉妬する
(4)自分が他人にどう思われているかクヨクヨ心配する
(5)嫌いな人のことをクヨクヨ考える
みんなクヨクヨしている。
(そういう風に書いたのだが!)
ということで、まとめると、クヨクヨするのが良くない。
(1)もうどうしようもない過去をクヨクヨ後悔する
よくあるのが、恥ずかしい言動をしたことを思い出して恥ずかしがる、というやつである。
面白いのが、仕事をしていてうまくいかないことがあると、決まってこれが顕在化する。
失敗して、納期に間に合わないことがあった場合、間違ったファイルを送ってしまって、叱責されたような場合に「そういえば俺はこんな失敗を過去にもした」「そういえば・・・」「そういえば・・・」と変な思い出しがブワッと起こるのである。
ぼくだけだろうか。
他人に大昔言われたイヤなことも同様に思い出す。
自分の頭の中に、自分をイヤな気持ちにさせるためのエピソードの格納庫があって、そこから、自分がダメージを受けているタイミングでプレイバックされるような感じなのである。
逆に、うまくいっていて、楽しい時間を過ごしていて、幸せいっぱい夢いっぱいというときは、これが起きない。
なぜだろう。
興味深いテーマであるが、まあ、はっきりしていることは、昔のことをクヨクヨ思ってもぜんぜん何の足しにもならないということである。
これは、他の人のクヨクヨ話を聞いているとよく分かる。
今、なかなか楽しそうにやっている人が、昔のことで悩んでいるのを見ると、滑稽な感じがする。
そんなことをしている暇に、歌の1曲でも覚えて、楽しい時間を過ごせばいいと思うのである。
でも自分ごとになるとそうはいかない。
嫌なことを思い出すと、体の芯にブワッと変な毒が回るような気がして、急に何もかもがイヤになる。
これが、仕事で失敗したりして、急遽手当てが必要なときに限って起こる。
たぶん、動物としての何らかの逃避行動なのだろうが、実際にはもちろん、逃避しないで冷静に対処した方がいい。
仏教の教えでは「昔のことを思い出していやな気持ちになるのは、しょうがない。肝心なのは、その気持ちになった自分を見つめなおして、クヨクヨした考えを『切る』ことだ」と言っているそうだ。
(出典も、正しい文章も分からなくなってしまった。スミマセン)
ぼくは、人がクヨクヨしているのを見て思うことを、自分にも当てはめることにした。
「そんな、昔のことをクヨクヨしてもしょうがないよ~」
「結構いまは楽しくやってるんだから、もう関係ないじゃん~」
「いま大事なこと、楽しいことをどんどんやった方がいいよ~」
そう言い聞かせることで、クヨクヨの毒が中和される。
ぜひやってみてください。
(2)今から考えてもどうしようもない未来をクヨクヨ思い悩む
昔、ふざけ半分で聖書をパラパラ読むのが流行っていたが、特に次のフレーズが好きだった。
もちろんイエスさんは随分極論を言っているわけだが、ぼくたちはしょっちゅう将来のことを心配している。
でも、心配して多少でも有効な対策が講じられるならいいが、たいていは取り越し苦労しているわけである。
取り越し苦労はストレスであり、体に良くない。
つまり、将来のことを不安に思うことによって、かえって今の自分を痛めつけて、将来を暗くしているのである。
だったらその暇に英単語のひとつも覚えた方がいい。
これも、気がかりなことがある自分は、視野が狭窄しているので「そんなことクヨクヨ考えても仕方ないよ」という気分には、なかなかならないものである。
でも、そういう心のクセが分かっていれば、意識的に生産的な方向に自分を持っていくことは出来るはずだ。
(ここまで考えていてふと思ったが、気の置けない仲間、友人、恋人が、お互いの考えをチェックすれば有効かもしれない。)
あと、あることをやるか、やらないか、迷うことがある。
やればいい。
ちばてつや氏のゴルフ漫画『あした天気になあれ』でよく「Never Up, Never In」(届かなければ入らない)という言葉が引かれている。
オーバーしてしまったらどうしよう、と思ってチョボチョボ打つ人は、絶対にいいスコアで上がれないそうである。
もちろん、うまくいくかどうか分からないことをやってしまって、失敗して後悔することもあるだろう。
余計なことをやってしまって、失敗してリカバーするのも時間がもったいない。
だったら決然とやらないことにすればいい。
「決然とやらないことを決定した」というのもひとつの達成である。
問題は、やろうかやるまいか「どうしよう~」と悩んでいる時間はまったくのムダということである。
その間にも、寿命は刻々と減り、ストレスは体を蝕んでいる。
だったら、決然と、やるか、あきらめるか、決めればいい。
(3)人と比べて自分がいかに劣っているかをクヨクヨ嫉妬する
ぼくという人間はあまり恥がないので、この感情にはあまり捕らわれないが、人と、まあ言ってしまえば女性と会話すると、まあこの考えに捕らわれている人が多くてビックリビックリである。
大金持ちでも、大金持ちだからこそ連続殺人に巻き込まれることはあるし、美人に生まれても、美人だからこそ変な男にストーキングされることもあるのである。
自分の人生、自分が主人公なのに、なぜ他人のことなんか気になるのだろうか。
(4)自分が他人にどう思われているかクヨクヨ心配する
これは意外とぼくも捕らわれる。
ある大学の学長が卒業式の式辞で(出典は不明。スミマセン)「ある人を映画に誘おうと思ったら、誘うしかない。相手が『誘われてどう思うか』なんてクヨクヨ思っていてもしょうがない。誘わなければ、映画に一緒に行けることはない」とおっしゃったそうだ。
ぼくはメールを出したり、何かを提案するときに、意外と「相手の気持ち」をクヨクヨ考える方だ。
でも、最近は、この手間を大幅に削減することにしている。
というのは、人の気持ちなんて、考えても絶対に分からないのである。
だったら、ダメモトで働きかけてしまった方がいい。
文句を言われたら「スミマセン~」と言って修正すればいいことだ。
悪気でやっているわけじゃないのだから、臆する必要はない。
ブログを書いていても、こんなことダラダラ書いていて、アホと思われたらどうしようと思う。
でも「アホと思われるかどうか分からないから自分の考えを述べない」というのはそれこそアホである。
アホだと思われればいいのだ。
アホなことを書いたのだから、アホと思われて当然だ。
アホだと分かって良かったな!
次からはそれを踏まえてもっといいことを書けばいいのである。
(5)嫌いな人のことをクヨクヨ考える
Aさんと言う人がいて、結構仲良くしていたのだが、Bさんと言う人の悪口をずーっと言っていた。
それはもう、四六時中言っていたのである。
それで、ある日、ぼくはAさんにこう言ってみた。
「ぼくは“蚊”が大嫌いで、夏が来るたびに“蚊”に刺されていやだなーと思う。AさんがBさんを嫌う気持ちよりも、ぼくが“蚊”を嫌う気持ちの方がはるかに大きいと思う。でも、ぼくは“蚊”のことを一日中考えていることはない」
「AさんがそれだけBさんのことが気になるのは、Bさんを一人前の人間としてすごく尊重しているからではないか。でも、人生は急ぎ旅だし、自分の人生は自分が主人公なのだから、イヤな人のことなんか、考えている暇はないのではないか」
ただしこれも、わかっちゃいるけどやめられないの類である。
ぼくもイヤな人に言われたイヤな言葉のことがどこまでも自分を悩ませる。
上にも書いたが、ピンチの時ほどプレイバックされるのである。
でも、本当の敵は自分の心を制御できないことであると、意識するようになってだいぶラクにはなった。
★
こういう、やってもしょうがないことばかり思いつくのは、それだけ心が、そういういやな考えに、スキあらば陥りたいと思っているということだろう。
「心のクセ」である。
でも、それに気づくことが、それから脱却する第一歩であろう。
いつも自分の心に好き放題にやられる必要はない。
自分の心のことだから、屈服できるはずである。
それで分かったのは、傍目八目というやつで、人の悩みは非常に解決法がよく分かるということである。
たいてい、悩んでもしょうがないことを悩んでいる。
人の悩みを沢山聞いて、それに対する対策を考えて(当人に教えることもあるが、あえて黙って聞いていることも多い。この件はそのうち書く)いるうちに、自分の悩みもある程度解決法が分かってきた。
人間というのは、本当に、悩んでもしょうがないことを悩んでいるのである。
以下に列挙する。
(1)もうどうしようもない過去をクヨクヨ後悔する
(2)今から考えてもどうしようもない未来をクヨクヨ思い悩む
(3)人と比べて自分がいかに劣っているかをクヨクヨ嫉妬する
(4)自分が他人にどう思われているかクヨクヨ心配する
(5)嫌いな人のことをクヨクヨ考える
みんなクヨクヨしている。
(そういう風に書いたのだが!)
ということで、まとめると、クヨクヨするのが良くない。
(1)もうどうしようもない過去をクヨクヨ後悔する
よくあるのが、恥ずかしい言動をしたことを思い出して恥ずかしがる、というやつである。
面白いのが、仕事をしていてうまくいかないことがあると、決まってこれが顕在化する。
失敗して、納期に間に合わないことがあった場合、間違ったファイルを送ってしまって、叱責されたような場合に「そういえば俺はこんな失敗を過去にもした」「そういえば・・・」「そういえば・・・」と変な思い出しがブワッと起こるのである。
ぼくだけだろうか。
他人に大昔言われたイヤなことも同様に思い出す。
自分の頭の中に、自分をイヤな気持ちにさせるためのエピソードの格納庫があって、そこから、自分がダメージを受けているタイミングでプレイバックされるような感じなのである。
逆に、うまくいっていて、楽しい時間を過ごしていて、幸せいっぱい夢いっぱいというときは、これが起きない。
なぜだろう。
興味深いテーマであるが、まあ、はっきりしていることは、昔のことをクヨクヨ思ってもぜんぜん何の足しにもならないということである。
これは、他の人のクヨクヨ話を聞いているとよく分かる。
今、なかなか楽しそうにやっている人が、昔のことで悩んでいるのを見ると、滑稽な感じがする。
そんなことをしている暇に、歌の1曲でも覚えて、楽しい時間を過ごせばいいと思うのである。
でも自分ごとになるとそうはいかない。
嫌なことを思い出すと、体の芯にブワッと変な毒が回るような気がして、急に何もかもがイヤになる。
これが、仕事で失敗したりして、急遽手当てが必要なときに限って起こる。
たぶん、動物としての何らかの逃避行動なのだろうが、実際にはもちろん、逃避しないで冷静に対処した方がいい。
仏教の教えでは「昔のことを思い出していやな気持ちになるのは、しょうがない。肝心なのは、その気持ちになった自分を見つめなおして、クヨクヨした考えを『切る』ことだ」と言っているそうだ。
(出典も、正しい文章も分からなくなってしまった。スミマセン)
ぼくは、人がクヨクヨしているのを見て思うことを、自分にも当てはめることにした。
「そんな、昔のことをクヨクヨしてもしょうがないよ~」
「結構いまは楽しくやってるんだから、もう関係ないじゃん~」
「いま大事なこと、楽しいことをどんどんやった方がいいよ~」
そう言い聞かせることで、クヨクヨの毒が中和される。
ぜひやってみてください。
(2)今から考えてもどうしようもない未来をクヨクヨ思い悩む
昔、ふざけ半分で聖書をパラパラ読むのが流行っていたが、特に次のフレーズが好きだった。
だから、わたしはあなたがたに言います。
自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。
いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。
けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。
あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
なぜ着物のことで心配するのですか。
野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。
働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。
栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。
(マタイの福音書6章25~34節)
※よく知られている聖書のことばより。適宜改行しました
もちろんイエスさんは随分極論を言っているわけだが、ぼくたちはしょっちゅう将来のことを心配している。
でも、心配して多少でも有効な対策が講じられるならいいが、たいていは取り越し苦労しているわけである。
取り越し苦労はストレスであり、体に良くない。
つまり、将来のことを不安に思うことによって、かえって今の自分を痛めつけて、将来を暗くしているのである。
だったらその暇に英単語のひとつも覚えた方がいい。
これも、気がかりなことがある自分は、視野が狭窄しているので「そんなことクヨクヨ考えても仕方ないよ」という気分には、なかなかならないものである。
でも、そういう心のクセが分かっていれば、意識的に生産的な方向に自分を持っていくことは出来るはずだ。
(ここまで考えていてふと思ったが、気の置けない仲間、友人、恋人が、お互いの考えをチェックすれば有効かもしれない。)
あと、あることをやるか、やらないか、迷うことがある。
やればいい。
ちばてつや氏のゴルフ漫画『あした天気になあれ』でよく「Never Up, Never In」(届かなければ入らない)という言葉が引かれている。
オーバーしてしまったらどうしよう、と思ってチョボチョボ打つ人は、絶対にいいスコアで上がれないそうである。
もちろん、うまくいくかどうか分からないことをやってしまって、失敗して後悔することもあるだろう。
余計なことをやってしまって、失敗してリカバーするのも時間がもったいない。
だったら決然とやらないことにすればいい。
「決然とやらないことを決定した」というのもひとつの達成である。
問題は、やろうかやるまいか「どうしよう~」と悩んでいる時間はまったくのムダということである。
その間にも、寿命は刻々と減り、ストレスは体を蝕んでいる。
だったら、決然と、やるか、あきらめるか、決めればいい。
(3)人と比べて自分がいかに劣っているかをクヨクヨ嫉妬する
ぼくという人間はあまり恥がないので、この感情にはあまり捕らわれないが、人と、まあ言ってしまえば女性と会話すると、まあこの考えに捕らわれている人が多くてビックリビックリである。
大金持ちでも、大金持ちだからこそ連続殺人に巻き込まれることはあるし、美人に生まれても、美人だからこそ変な男にストーキングされることもあるのである。
自分の人生、自分が主人公なのに、なぜ他人のことなんか気になるのだろうか。
(4)自分が他人にどう思われているかクヨクヨ心配する
これは意外とぼくも捕らわれる。
ある大学の学長が卒業式の式辞で(出典は不明。スミマセン)「ある人を映画に誘おうと思ったら、誘うしかない。相手が『誘われてどう思うか』なんてクヨクヨ思っていてもしょうがない。誘わなければ、映画に一緒に行けることはない」とおっしゃったそうだ。
ぼくはメールを出したり、何かを提案するときに、意外と「相手の気持ち」をクヨクヨ考える方だ。
でも、最近は、この手間を大幅に削減することにしている。
というのは、人の気持ちなんて、考えても絶対に分からないのである。
だったら、ダメモトで働きかけてしまった方がいい。
文句を言われたら「スミマセン~」と言って修正すればいいことだ。
悪気でやっているわけじゃないのだから、臆する必要はない。
ブログを書いていても、こんなことダラダラ書いていて、アホと思われたらどうしようと思う。
でも「アホと思われるかどうか分からないから自分の考えを述べない」というのはそれこそアホである。
アホだと思われればいいのだ。
アホなことを書いたのだから、アホと思われて当然だ。
アホだと分かって良かったな!
次からはそれを踏まえてもっといいことを書けばいいのである。
(5)嫌いな人のことをクヨクヨ考える
Aさんと言う人がいて、結構仲良くしていたのだが、Bさんと言う人の悪口をずーっと言っていた。
それはもう、四六時中言っていたのである。
それで、ある日、ぼくはAさんにこう言ってみた。
「ぼくは“蚊”が大嫌いで、夏が来るたびに“蚊”に刺されていやだなーと思う。AさんがBさんを嫌う気持ちよりも、ぼくが“蚊”を嫌う気持ちの方がはるかに大きいと思う。でも、ぼくは“蚊”のことを一日中考えていることはない」
「AさんがそれだけBさんのことが気になるのは、Bさんを一人前の人間としてすごく尊重しているからではないか。でも、人生は急ぎ旅だし、自分の人生は自分が主人公なのだから、イヤな人のことなんか、考えている暇はないのではないか」
ただしこれも、わかっちゃいるけどやめられないの類である。
ぼくもイヤな人に言われたイヤな言葉のことがどこまでも自分を悩ませる。
上にも書いたが、ピンチの時ほどプレイバックされるのである。
でも、本当の敵は自分の心を制御できないことであると、意識するようになってだいぶラクにはなった。
★
こういう、やってもしょうがないことばかり思いつくのは、それだけ心が、そういういやな考えに、スキあらば陥りたいと思っているということだろう。
「心のクセ」である。
でも、それに気づくことが、それから脱却する第一歩であろう。
いつも自分の心に好き放題にやられる必要はない。
自分の心のことだから、屈服できるはずである。