先日、「政治を音楽(ロック、フェス)に持ち込むな」という意見が一部のツイッターユーザーから沸き起こった。
きっかけとなったのは、フジロック・フェスティバルにSEALDsの奥田代表と評論家の津田大介氏が参加することだそうだ。
「客は純粋に音楽を聞きたい、政治の話なんか聞きたくない」
「支持と不支持で二つに割れる問題、半分は気分が悪くなる」
「音楽家じゃないならロックフェスに出るな」
「プロでない人が下手なラップを聞かせるのは不愉快だ」
などなど。
(※本記事のカッコ内の発言は筆者の文責で要約しました)
これに古手のロックファンが猛然と噛み付いた。
「そもそもフジロックに津田氏は2012年から5年連続で参加して反核脱原発を訴えている」
「フジロック自体もともと自然との共生という思想から始まったイベントだ」
「来日組の大物、レッド・ホット・チリ・ペッパーズはゴリゴリの反体制的なバンドである」
「レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンもそうだ」
「日本のECDや加藤登紀子もそうだ。これまでもフジロックではさまざまな主張が繰り広げられてきた」
「そもそもロックは反体制的な音楽である」
「ロック・フェスの元祖ウッドストックも反体制的なイベントであった」
などなど。
ぼくも初老を迎えたジジイであって、政治と音楽を切り離せる、音楽を聞く人は政治を離れて純粋に音楽を聞きたい、という斬新なアイディアが信じられず、そんな考えを持った人が、まさか実のある論争を生むほどたくさんいるとは思わなかった。ここであらためて、自分がなぜ政治と音楽の分離が無理だと思うかを書いてみる。
きっかけとなったのは、フジロック・フェスティバルにSEALDsの奥田代表と評論家の津田大介氏が参加することだそうだ。
「客は純粋に音楽を聞きたい、政治の話なんか聞きたくない」
「支持と不支持で二つに割れる問題、半分は気分が悪くなる」
「音楽家じゃないならロックフェスに出るな」
「プロでない人が下手なラップを聞かせるのは不愉快だ」
などなど。
(※本記事のカッコ内の発言は筆者の文責で要約しました)
これに古手のロックファンが猛然と噛み付いた。
「そもそもフジロックに津田氏は2012年から5年連続で参加して反核脱原発を訴えている」
「フジロック自体もともと自然との共生という思想から始まったイベントだ」
「来日組の大物、レッド・ホット・チリ・ペッパーズはゴリゴリの反体制的なバンドである」
「レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンもそうだ」
「日本のECDや加藤登紀子もそうだ。これまでもフジロックではさまざまな主張が繰り広げられてきた」
「そもそもロックは反体制的な音楽である」
「ロック・フェスの元祖ウッドストックも反体制的なイベントであった」
などなど。
ぼくも初老を迎えたジジイであって、政治と音楽を切り離せる、音楽を聞く人は政治を離れて純粋に音楽を聞きたい、という斬新なアイディアが信じられず、そんな考えを持った人が、まさか実のある論争を生むほどたくさんいるとは思わなかった。ここであらためて、自分がなぜ政治と音楽の分離が無理だと思うかを書いてみる。
「ロックはもともと反体制」という意見に対して「チャック・ベリーやエルヴィス・プレスリーもそうなのか」という疑問があったそうだ。たしかにオリジナルなロックンロールは、恋をしようぜ踊ろうぜ、という歌が多く、今の耳で聞くとあまり政治性や反体制性を感じない。
しかし、もともと「ロックンロールを演奏すること」、「ラジオで放送すること」自体が、アメリカでは黒人解放を意味する大変な反体制的行為だった。
もともと50年代にチャック・ベリーやリトル・リチャードの曲が流行り始めた頃、ロックンロールという言葉はなく、「ジャンプ・ブルーズ」などと言っていた。しかし白人DJのアラン・フリードは、これをブルーズとは言わなかった。ブルーズといえば黒人音楽のことであり、黒人音楽を聴くことや、放送することが禁じられることが多かったからだ。昔は黒人のレコードであっても、ジャケット写真は白人女性の写真が載っていたのである。そのためフリードは自分の番組にロックンロールという名前をつけた。ちなみにrockはロッキング・チェアーのように縦方向に揺れること、rollはロール・ケーキのように円を描くことで、どちらも性的な意味である。そういう卑猥な歌詞が多かったのだ。白人のプレスリーがくねくねと腰を振って歌うアクションも、当初は大変批判された。
ロックンロールはその後もアメリカ社会から弾圧され続け、レコードを焼かれたり、ラジオでの放送を阻止されたりした。ポール・アンカやニール・セダカのような社会性を抜いたポップスが主流になる。プレスリーは陸軍に普通に徴兵され、満期除隊してからは映画スター、ラスベガスやハワイで「この胸のときめきを」とかを歌うバラード・シンガーになった。
いっぽうロックの反社会性、過激性を受け継いだのがビートルズ、ストーンズ、キンクス、フーのようなイギリス勢である。彼らの音楽はアメリカに逆輸入され、「ブリティッシュ・インベイジョン(イギリスの侵略)」と言われた。プレスリーの真っ黒な歌唱に影響されていたジョン・レノンだが、後にプレスリーに会見するチャンスを得ると「あなたはなぜロックンロールを忘れてバラード・シンガーに成り下がったんですか」と揶揄した。プレスリーはこれに腹を立て、これは嘘か本当か知らないが、FBIのフーバー長官に「あいつは要注意人物だからアメリカに入れるな」と進言したと言われている。じっさい「イマジン」、「民衆に力を」といったストレートな反体制歌を歌ったレノンは、FBIやニクソン政権に活動を妨害され続けた。
アメリカでも反体制的な音楽は普通に聞かれる。今はブラック・ミュージックといえば都会的でオシャレな音楽として親しまれているが、黒人ミュージシャンの代表格であるスティーヴィー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ、カーティス・メイフィールド、スライ・ストーンの音楽は、驚くほど反体制的な歌詞が多い。カーティスは「歌うジャーナリスト」と言われるほど社会的で、それがきっかけでアカデミー賞から外されたりした。
アメリカの黒人は頭でっかちな思想で反体制的なのではなく、実際に迫害された恨み、体制を打ち破らなければ自分たちの命が危ないという危惧、音楽で体制を打ち破れば世の中は良くなるという希望を、自らの問題として持っている。そしてベトナム反戦や、米中ソの核開発競争に反発するうねりの中で、ボブ・ディランやCSN&Yのような白人の反体制的なロックも勃興した。そして、反体制的であるから批判されたのである。政府や教会から迫害されるだけでなく、普通の市民にも批判された。だから今の日本の騒動も、驚くには当たらないかもしれない。ロック・フェスと言えばウッドストック・フェスティバルであるが、これも大変に反体制的なイベントであったことはすでに多くの人が指摘した通り。
でも、だからといって、今の音楽が古式ゆかしいロックの伝統に則って、無理に反体制である必要もないのではないか。「純粋に」音楽を楽しみたいから、そういう政治性を排除した音楽が、日本にロックの進化系としてあってもいいのではないか。これが一部の若者の主張であるようだ。
しかし、ぼくには、これも信じられない。
日本のロック、そしてフォークも過激な政治性を持っていた。レノン夫人であったオノ・ヨーコは世界を代表する反体制ミュージシャンであるし、日本のディランと言われた友部正人、フジロックにも出ている加藤登紀子、そして忌野清志郎が印象深い。清志郎は本当に過激で、レコードを何回も発禁になって、自ら海賊版のカセットテープをばらまいていた。君が代をロックにアレンジして歌った。そして最近は何といっても桑田佳祐だ。ちょび髭をつけた紅白のパフォーマンスは痛快だった。
でも、政治性のないミュージシャンは政治性のないミュージシャンでいていいのではないだろうか、と思われるかもしれない。
でも、政治性のないミュージシャンってなんだろうか。
普通に暮らしていれば、社会と関わるし、政治と関わる。それは自分の問題である。税金を払えば政府はアメリカの国債を買い、それは中東や東欧を空爆する爆弾の費用に変わる。そして今の自民党政権は自衛隊が侵略しない国であっても攻撃できるように憲法を変えようとしている。2016年に表現者としてパフォーマンスする人が、政治のことを歌わない、語らないことは、かえって不自然ではないだろうか。
たとえ話をする。会社の飲み会に出ていたら、不倫のすえ離婚した課長がやって来た。みんなは気を使って不倫の話、結婚の話が出来なくなる。恋愛の話もしにくい。なんとかその話を避けて、他の楽しい話で盛り上がろうと全員が気を遣う。
それって純粋な会話だろうか。
「触れてはいけない話題」があるから、みんな心の中では「触れてはいけない話題」のことを考えている。その話題だけは、避けて通るように会話する。
それは、高度に政治的な会話ではないか。
いま、防衛法案のことも、原発のことも、格差のことも、移民のことも、子育てのことも話題にせず、「夢を信じて!」、「明日を信じて!」、「友達を大切にして!」、「親に感謝して!」などとポジティブなことを笑顔いっぱいで歌っているミュージシャンがいたとしたら、そのミュージシャンは「超・政治的」である。
選挙に行かない人や、行っても白票を投じる人は、「誰も支持しない」、「政治に関心はない」ことを主張しているわけではない。その人は「結果的に政権を取る人」を、積極的に後押ししている。「いじめを見過ごす人は、いじめに積極的に加担している」というのと同じである。
「でも、音楽家のコンサートを、高いお金を出して見に行くのに、プロの音楽家じゃない素人が演説をするのを聞きたくないよ」と言う人。でもロックはそうじゃないと思う。
ロンドン・パンクの創始者であるセックス・ピストルズのジョニー・ロットンも、シド・ヴィシャスも、ほとんど楽器ができなかった。それが結果的に斬新な音楽で世界を席巻した。
ボブ・マーリーやジミー・クリフを輩出したジャマイカには、もともとポップスがなかった。システムDJと言って、カセットテープに入れたポップスを公園に流す流しの職業の人がいて、貧乏人はマリファナを決めながらその回りで踊っていたのである。その結果、間延びしたレゲエミュージックや、同じ音楽をミックスして聴くダブ・ミュージックが生まれ、世界的に大流行した。
ピストルズも、マーリーもクリフも驚くほど反体制的だ。
その怒りのパワーが音楽のパワーにつながっている、そういう音楽である。
もしそれが「純粋な」政治性のない、脱臭漂白された音楽であれば、あそこまでパワーは持ち得ない。
音楽家でない政治家、教祖を祭り上げるミュージシャンも多い。黒人解放運動の父、マーチン・ルーザー・キングの演説をブレイク・ビーツにしたラップもある。ビートルズと世界の人気を二分したアメリカ側の雄ビーチ・ボーイズも、瞑想の教祖に捧げる曲を作ったり、自然運動家にアルバムのプロデュースを任せて環境問題に傾倒したりしている。
「高い金を払っているのだから純粋に楽しませろ」、「関係ない話を聴かせるな」、「反対の意見を持っている人に 不愉快な思いをさせるな」という主張は、ロックの聴衆は有料のサービスを受ける消費者、演者は金を払った消費者に対価として奉仕するプロ、という感覚で来ているんだろうか。でもロックフェスは「参加」するものじゃないのか。気に入らないパフォーマンスがあれば背を向けるか、ブーイングすればいい。
もっとも、この話はフジロック、SEALDs、津田氏に始まった「特別な話」ではないらしい。
かねてからミュージシャンに対して「政治の話なんかするな、白ける」と言う人は多かった。ミュージシャンが政治的な発言をした結果、嫌いになる、という人がいたりする。こういう人ってビートルズやディランや清志郎やボブ・マーリーをどう聴いているんだろう。
演劇の劇団に対しても、文学者に対しても、「政治的な話をするな、純粋に我々を楽しませろ」という人がいるそうだ。アングラ劇団から政治性を排除するのは完全に無理な話だ!
こういう人が「純粋に」音楽を楽しんでいる時、ぼくはその人が「何を考えているのか」不思議に思う。
今の世の中を生きている以上、政治の問題、思想の問題は常に心のどこかにあるんじゃないだろうか。
こういう人は音楽を聴き終わったら「純粋に」政治の問題を沈思黙考する時間をちゃんと取ったり、次の選挙を誰に入れるか真面目に家族会議したりするんだろうか。
それとも「政治の話なんかいっさい考えたくない。どこか偉い人が適当にやってください」と思っているのだろうか。でもなかなかそうはいかないよ。
それは政権をとった人に白紙委任状を渡して「何をどう決めてもらってもかまいません」、「税金はいくらでも払いますし何でもします」と言っているのと一緒だ。
ものすごく熱烈に政権を支持している立場に、不本意ながらなってしまうのだ。
もっとも、こういう「政治の話=不純」、「政治に関係ないぼくたち=純粋」という考えは、受容者側だけの責任ではなくて、陰謀論めくが、80年代のフジテレビの「笑ってる場合ですよ」、「THE MANZAI」、「俺たちひょうきん族」ぐらいから始まっている壮大な白痴化計画の当然の結果のような気がする。
テレビを「一億総白痴化」と呼んだのは大宅壮一であるが、テレビや広告会社は、戦略的に国民から政治や知性を遠ざけ、政治のことをいう人=不純という風に洗脳してるんじゃないか。
であれば無理やり政治的になれというのもかわいそうな話かもしれない。
ただ、ぼくは、防衛法案(自民党に言わせれば新平和法案、野党に言わせれば戦争法案)が決まった去年の夏、何回か国会前に行った。
その時SEALDsの、特に紅子さんの音楽的なシュプレヒコールを聞いて「ああ、日本にもようやく、上っ面だけじゃないロック、ヒップホップが始まったんだなあ」と思ったし、そのライムが実に現代的でカッコイイのに感心した。
批判してる人はSEALDsのコールを聞いたことがありますか。
なければぜひ聴いてください。
まあいろいろ論争する機会があるのは、何も考えないよりマシである。
とりあえず「政治のない純粋なロック」という斬新なコンセプトに、ぼくはびっくりし、これはひとこと言わなければならないと思って書いた。
長々とスミマセン。
しかし、もともと「ロックンロールを演奏すること」、「ラジオで放送すること」自体が、アメリカでは黒人解放を意味する大変な反体制的行為だった。
もともと50年代にチャック・ベリーやリトル・リチャードの曲が流行り始めた頃、ロックンロールという言葉はなく、「ジャンプ・ブルーズ」などと言っていた。しかし白人DJのアラン・フリードは、これをブルーズとは言わなかった。ブルーズといえば黒人音楽のことであり、黒人音楽を聴くことや、放送することが禁じられることが多かったからだ。昔は黒人のレコードであっても、ジャケット写真は白人女性の写真が載っていたのである。そのためフリードは自分の番組にロックンロールという名前をつけた。ちなみにrockはロッキング・チェアーのように縦方向に揺れること、rollはロール・ケーキのように円を描くことで、どちらも性的な意味である。そういう卑猥な歌詞が多かったのだ。白人のプレスリーがくねくねと腰を振って歌うアクションも、当初は大変批判された。
ロックンロールはその後もアメリカ社会から弾圧され続け、レコードを焼かれたり、ラジオでの放送を阻止されたりした。ポール・アンカやニール・セダカのような社会性を抜いたポップスが主流になる。プレスリーは陸軍に普通に徴兵され、満期除隊してからは映画スター、ラスベガスやハワイで「この胸のときめきを」とかを歌うバラード・シンガーになった。
いっぽうロックの反社会性、過激性を受け継いだのがビートルズ、ストーンズ、キンクス、フーのようなイギリス勢である。彼らの音楽はアメリカに逆輸入され、「ブリティッシュ・インベイジョン(イギリスの侵略)」と言われた。プレスリーの真っ黒な歌唱に影響されていたジョン・レノンだが、後にプレスリーに会見するチャンスを得ると「あなたはなぜロックンロールを忘れてバラード・シンガーに成り下がったんですか」と揶揄した。プレスリーはこれに腹を立て、これは嘘か本当か知らないが、FBIのフーバー長官に「あいつは要注意人物だからアメリカに入れるな」と進言したと言われている。じっさい「イマジン」、「民衆に力を」といったストレートな反体制歌を歌ったレノンは、FBIやニクソン政権に活動を妨害され続けた。
アメリカでも反体制的な音楽は普通に聞かれる。今はブラック・ミュージックといえば都会的でオシャレな音楽として親しまれているが、黒人ミュージシャンの代表格であるスティーヴィー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ、カーティス・メイフィールド、スライ・ストーンの音楽は、驚くほど反体制的な歌詞が多い。カーティスは「歌うジャーナリスト」と言われるほど社会的で、それがきっかけでアカデミー賞から外されたりした。
アメリカの黒人は頭でっかちな思想で反体制的なのではなく、実際に迫害された恨み、体制を打ち破らなければ自分たちの命が危ないという危惧、音楽で体制を打ち破れば世の中は良くなるという希望を、自らの問題として持っている。そしてベトナム反戦や、米中ソの核開発競争に反発するうねりの中で、ボブ・ディランやCSN&Yのような白人の反体制的なロックも勃興した。そして、反体制的であるから批判されたのである。政府や教会から迫害されるだけでなく、普通の市民にも批判された。だから今の日本の騒動も、驚くには当たらないかもしれない。ロック・フェスと言えばウッドストック・フェスティバルであるが、これも大変に反体制的なイベントであったことはすでに多くの人が指摘した通り。
でも、だからといって、今の音楽が古式ゆかしいロックの伝統に則って、無理に反体制である必要もないのではないか。「純粋に」音楽を楽しみたいから、そういう政治性を排除した音楽が、日本にロックの進化系としてあってもいいのではないか。これが一部の若者の主張であるようだ。
しかし、ぼくには、これも信じられない。
日本のロック、そしてフォークも過激な政治性を持っていた。レノン夫人であったオノ・ヨーコは世界を代表する反体制ミュージシャンであるし、日本のディランと言われた友部正人、フジロックにも出ている加藤登紀子、そして忌野清志郎が印象深い。清志郎は本当に過激で、レコードを何回も発禁になって、自ら海賊版のカセットテープをばらまいていた。君が代をロックにアレンジして歌った。そして最近は何といっても桑田佳祐だ。ちょび髭をつけた紅白のパフォーマンスは痛快だった。
でも、政治性のないミュージシャンは政治性のないミュージシャンでいていいのではないだろうか、と思われるかもしれない。
でも、政治性のないミュージシャンってなんだろうか。
普通に暮らしていれば、社会と関わるし、政治と関わる。それは自分の問題である。税金を払えば政府はアメリカの国債を買い、それは中東や東欧を空爆する爆弾の費用に変わる。そして今の自民党政権は自衛隊が侵略しない国であっても攻撃できるように憲法を変えようとしている。2016年に表現者としてパフォーマンスする人が、政治のことを歌わない、語らないことは、かえって不自然ではないだろうか。
たとえ話をする。会社の飲み会に出ていたら、不倫のすえ離婚した課長がやって来た。みんなは気を使って不倫の話、結婚の話が出来なくなる。恋愛の話もしにくい。なんとかその話を避けて、他の楽しい話で盛り上がろうと全員が気を遣う。
それって純粋な会話だろうか。
「触れてはいけない話題」があるから、みんな心の中では「触れてはいけない話題」のことを考えている。その話題だけは、避けて通るように会話する。
それは、高度に政治的な会話ではないか。
いま、防衛法案のことも、原発のことも、格差のことも、移民のことも、子育てのことも話題にせず、「夢を信じて!」、「明日を信じて!」、「友達を大切にして!」、「親に感謝して!」などとポジティブなことを笑顔いっぱいで歌っているミュージシャンがいたとしたら、そのミュージシャンは「超・政治的」である。
選挙に行かない人や、行っても白票を投じる人は、「誰も支持しない」、「政治に関心はない」ことを主張しているわけではない。その人は「結果的に政権を取る人」を、積極的に後押ししている。「いじめを見過ごす人は、いじめに積極的に加担している」というのと同じである。
「でも、音楽家のコンサートを、高いお金を出して見に行くのに、プロの音楽家じゃない素人が演説をするのを聞きたくないよ」と言う人。でもロックはそうじゃないと思う。
ロンドン・パンクの創始者であるセックス・ピストルズのジョニー・ロットンも、シド・ヴィシャスも、ほとんど楽器ができなかった。それが結果的に斬新な音楽で世界を席巻した。
ボブ・マーリーやジミー・クリフを輩出したジャマイカには、もともとポップスがなかった。システムDJと言って、カセットテープに入れたポップスを公園に流す流しの職業の人がいて、貧乏人はマリファナを決めながらその回りで踊っていたのである。その結果、間延びしたレゲエミュージックや、同じ音楽をミックスして聴くダブ・ミュージックが生まれ、世界的に大流行した。
ピストルズも、マーリーもクリフも驚くほど反体制的だ。
その怒りのパワーが音楽のパワーにつながっている、そういう音楽である。
もしそれが「純粋な」政治性のない、脱臭漂白された音楽であれば、あそこまでパワーは持ち得ない。
音楽家でない政治家、教祖を祭り上げるミュージシャンも多い。黒人解放運動の父、マーチン・ルーザー・キングの演説をブレイク・ビーツにしたラップもある。ビートルズと世界の人気を二分したアメリカ側の雄ビーチ・ボーイズも、瞑想の教祖に捧げる曲を作ったり、自然運動家にアルバムのプロデュースを任せて環境問題に傾倒したりしている。
「高い金を払っているのだから純粋に楽しませろ」、「関係ない話を聴かせるな」、「反対の意見を持っている人に 不愉快な思いをさせるな」という主張は、ロックの聴衆は有料のサービスを受ける消費者、演者は金を払った消費者に対価として奉仕するプロ、という感覚で来ているんだろうか。でもロックフェスは「参加」するものじゃないのか。気に入らないパフォーマンスがあれば背を向けるか、ブーイングすればいい。
もっとも、この話はフジロック、SEALDs、津田氏に始まった「特別な話」ではないらしい。
かねてからミュージシャンに対して「政治の話なんかするな、白ける」と言う人は多かった。ミュージシャンが政治的な発言をした結果、嫌いになる、という人がいたりする。こういう人ってビートルズやディランや清志郎やボブ・マーリーをどう聴いているんだろう。
演劇の劇団に対しても、文学者に対しても、「政治的な話をするな、純粋に我々を楽しませろ」という人がいるそうだ。アングラ劇団から政治性を排除するのは完全に無理な話だ!
こういう人が「純粋に」音楽を楽しんでいる時、ぼくはその人が「何を考えているのか」不思議に思う。
今の世の中を生きている以上、政治の問題、思想の問題は常に心のどこかにあるんじゃないだろうか。
こういう人は音楽を聴き終わったら「純粋に」政治の問題を沈思黙考する時間をちゃんと取ったり、次の選挙を誰に入れるか真面目に家族会議したりするんだろうか。
それとも「政治の話なんかいっさい考えたくない。どこか偉い人が適当にやってください」と思っているのだろうか。でもなかなかそうはいかないよ。
それは政権をとった人に白紙委任状を渡して「何をどう決めてもらってもかまいません」、「税金はいくらでも払いますし何でもします」と言っているのと一緒だ。
ものすごく熱烈に政権を支持している立場に、不本意ながらなってしまうのだ。
もっとも、こういう「政治の話=不純」、「政治に関係ないぼくたち=純粋」という考えは、受容者側だけの責任ではなくて、陰謀論めくが、80年代のフジテレビの「笑ってる場合ですよ」、「THE MANZAI」、「俺たちひょうきん族」ぐらいから始まっている壮大な白痴化計画の当然の結果のような気がする。
テレビを「一億総白痴化」と呼んだのは大宅壮一であるが、テレビや広告会社は、戦略的に国民から政治や知性を遠ざけ、政治のことをいう人=不純という風に洗脳してるんじゃないか。
であれば無理やり政治的になれというのもかわいそうな話かもしれない。
ただ、ぼくは、防衛法案(自民党に言わせれば新平和法案、野党に言わせれば戦争法案)が決まった去年の夏、何回か国会前に行った。
その時SEALDsの、特に紅子さんの音楽的なシュプレヒコールを聞いて「ああ、日本にもようやく、上っ面だけじゃないロック、ヒップホップが始まったんだなあ」と思ったし、そのライムが実に現代的でカッコイイのに感心した。
批判してる人はSEALDsのコールを聞いたことがありますか。
なければぜひ聴いてください。
まあいろいろ論争する機会があるのは、何も考えないよりマシである。
とりあえず「政治のない純粋なロック」という斬新なコンセプトに、ぼくはびっくりし、これはひとこと言わなければならないと思って書いた。
長々とスミマセン。