NHKのニュースで「大宅文庫」が財政危機にあるという話があった。大宅文庫というのは評論家の故・大宅壮一氏が自分で集めた雑誌を集めた図書館で、ジャーナリストは必ず使用するという有名な大施設である。ぼく自身は行ったことがないが、非常に貴重な施設なのは明らかで、何らかの方策で生き延びて欲しい。
「大宅壮一文庫」が存続の危機に|NHK NEWS WEB
「大宅壮一文庫」が存続の危機に|NHK NEWS WEB
大宅氏は昭和時代に、テレビ時代のことを一億総白痴化、と喝破したと言われるが、それはぼくも本当だなあと思う。
特に最近のテレビは本当にひどい。
芸能人がラーメン屋にラーメンを食べに行ったりする。つまりラーメン屋の宣伝を「番組」として見せられているのである。
あとはトーク番組などで、出演者が何か面白いことを言うと字幕が出る。あれは視聴覚障害の人には便利なもので、欽ちゃんこと萩本欽一さんも(たぶん笑いのテンポが速くなる、わかりやすくなるという点で)テレビ史上に残る大発明だと言っていたそうだが、ぼくはあれで言葉を耳から聞く、口調から微妙なニュアンスを聞き取る能力が非常に減退したと思う。生の演劇を見ていて、セリフを聞き取る能力の減退を感じたからだ。ニュース番組の字幕が、巧妙に編集されて論調を変えられていることはご存知の通り。
テレビによる国民の白痴化、知性の積極的な排除はぼくは80年台のフジテレビおもしろ路線から加速したと思う。それが、今の若者の潔癖症なまでのノンポリ化、果ては「ロックに政治を持ち込むな」みたいな主張につながっているのではないか。
閑話休題、大宅文庫に戻るが、この施設の財政危機はネットの普及によるものだと言う。今はネットでサーチすればすぐに資料が得られるから、わざわざ電車に乗って、施設を訪れ、紙の資料を探し、コピーしたり書き写したり、そういう手間を最近の若い人はしなくなった。それで利用者が激減したとくだんの番組では言っていた。それはそうかもしれない。
ところが、このことについて、ニュースに出てきた柳田邦男氏は「ネット、スマホで何でも情報が得られると思っている、今の世代」を批判して「第2次 一億総白痴化」であると言っていて、これはとても首肯できないと思った。おっさんに顕著な、ティピカルな「昔は良かった」論で、ピラミッドの落書きのように感じた。
そもそも大宅文庫や図書館自体、情報検索の利便性を高め、研究者や市民の負担を軽減するために作られたものである。図書館誕生前夜は本を読むために、本屋を探しまわったり、本を持っている人を訪ねたり、自分でも本を所蔵して整理したり、多大な金、労力、時間を費やしていたはずだ。今でもそうやってしか読めない本はあり、またどうしても手元に置いておきたい本もあるけれど、図書館によって、大量の本を縦横に検索し、膨大な文章からエッセンスを抜き出すことが可能になって、ジャーナリストや評論家は大いに助かったはずだ。でも、「昔のように自分の足で本屋を訪ね歩くことも、本を自分で所有することもなく、図書館で必要なところだけつまみ食いするのは手抜きだ」と批判することも可能である。いわゆる苦労すれば苦労するだけエライ論だ。でも、図書館があるとないとで、どちらが同じ時間で多くの文献に当たれるか、同じ労力で質の高いアウトプットが得られるか、と言えば、これは論ずるまでもないだろう。
大宅文庫に所蔵されている「雑誌」というメディアも同じく、少ない時間でより多岐にわたる情報を面白おかしく伝えるメディアである。でも「雑誌なんかで情報を得た気になって、原典の本に当たらないのは邪道で軽薄だ」という苦労エライ論もたたかわせることは可能だ。ていうか、こっちはそんなこと言ってる人当然いたんじゃないか。
しかし、大宅壮一は雑誌を集め、図書館で公開した。これはCERNの核物理学者がWWWシステムを構築し、ネット上で情報を共有し、ハイパーリンクで相互参照可能にしたのと、志は同じであろう。短時間でより多くの情報に、一気に到達する企図である。「雑誌の図書館は人間の知性を増進するがネットの検索は白痴化する」という理屈は、どうにも承服できない。
むろん紙の本、雑誌にしかない利点はある。図書館のある雑誌のある号に面白い情報を見つけたとして、その中に「このことは去年の夏頃述べましたが・・・」と書いてあったとして、その関連記事を検索するのは比較的簡単だ。雑誌の厚さからその号が置いてある大体の場所がわかるし、だいたいどのへんのページにあるだろうという推測を働かせて本をめくる。この技能はわれわれ学生時代に図書館に出入りしていた世代には体に染み付いていると思われるが、これからの子供はこの技能が減退するとは言えるかもしれない。
でも逆に、ぼくはネットを検索していて、古い陳腐化した情報や宣伝、ウソ情報の氾濫にゲンナリすることが多いが、今のデジタル・ネイティブな世代は苦もせず正しい情報にラクラク到達するかもしれない。
紙の本でぼくが好きなのはセレンディピティ(僥倖)的に得られる情報が多いことだ。本の巻末の宣伝や、雑誌の広告、目当ての項目の横のコラムなどに、思わぬ面白いことが書いてあり、その本が刷られた時代を感じさせて、もともと見ていた項目への理解が増すような気がする。辞書や百科事典を見ていて全然関係ない項目に面白みを感じることもしばしばである。
ネットはというと、どんなに昔の記事であっても、最新の、健康食品であったり出合い系サイトであったり、「わっ! 私の年収低すぎ!」という広告が横並びで並んでいる。それにしてもなんでネットの広告ってあんなにゲスいんだろうね。僥倖どころか、興趣を殺がれることおびただしい。
紙の本のオブジェとしての魅力、マテリアルそのものの魅力はどうしようもなくある。古い本の匂いを嗅ぐのも楽しいし、洋書の接着剤の妙にいい匂いを嗅ぐのも楽しい。それは単なるノスタルジアやフェティシズムを超えて、知的なものへの憧れと一体になっていると思われる。
しかし、ネットの魅力はネットの魅力で強烈にある。
ぼくは昨日、イギリスのEU脱退のことを「ブレグジット」と言うとテレビで知った。でもなぜブレグジットなのか、くだんのニュースでは言っていなかった。ここでスマホの登場である。数秒で「Britain Exit」の略であると分かった。なるほどねー。
忘れないようにツイッターでつぶやいた。発信の手軽さもネットならではだ。他の人にも読ませるから、それなりに体裁の整った文で、できれば面白い書き方をしようと思う。すぐにそのツイートに「いいね!」を付けてくれる人がいて、ほっこりした。これでブレグジットという言葉を忘れることはしばらくないだろう。
先日水たまりを見ていて、ボウフラがいかにも湧きそうだ、と思って、そういえばボウフラってなんて漢字で書くんだろう、と思った。ここでWikipediaである。孑孒と書くそうだ。孑も孒も、普通は見ない漢字だが、孑はケツやひとりなどと読んで右腕を切り取った子供を、孒はカチやぼうふらなどと読んで左腕を切り取った子供を表す象形文字だそうだ。ゲゲゲ! なんでそんなグロな漢字が必要なのだろうか。「奴隷階級の子供を逃がさないために、腕を切り取ったものか。」と疑問形でWiktionaryに書いてある。
面白いのでFacebookに書くと、すぐにコメントがついて「兵庫県宝塚市に伊孑志と書いていそしと読む地名があります。なぜ孑の字を使うのか、なぜ「そ」と読ませるのか謎ですが」と書いている。ぼくはすぐに「孑と書いて強引にひらがなの「そ」と読ませる、いわば視覚的な当て字ではないでしょうか」などとコメントしてみた。超楽しい。
こういうことを日々経験する。スマホがあって、ネットがあって、つくづく良かったー! と思う。ぼくを第2次一億総白痴化の犠牲者とはあまり呼ばないんじゃないだろうか。呼ばないでください。ぼくはネットのある、スマホのある生活を楽しんでいるし、自分の知性もしょうしょう磨かれたと思いたい。
柳田邦男さんもこんなにネットを毛嫌いしていては、逆にネット世代の若者を大宅文庫から遠ざけ、破綻を助けてしまうことになりかねない。誰かネットの便利さを彼に教えてやった方がいいのではないか。
と、ここまで書いてしょうもないことを考えたが、紙の図書館をネットで活用するために、ロボットを図書館に歩かせ、家のインターフェイスからVR的にコントロールできるようにするというのはどうだろうか。これなら地方在住でも中央の図書館にアクセスできるし、すべての本をデジタイズする手間もない。貸出の必要もないし、24時間開館できる。効率悪いし、匂いや手触りはなかなか伝わらないだろうが、一考の価値はないか。
特に最近のテレビは本当にひどい。
芸能人がラーメン屋にラーメンを食べに行ったりする。つまりラーメン屋の宣伝を「番組」として見せられているのである。
あとはトーク番組などで、出演者が何か面白いことを言うと字幕が出る。あれは視聴覚障害の人には便利なもので、欽ちゃんこと萩本欽一さんも(たぶん笑いのテンポが速くなる、わかりやすくなるという点で)テレビ史上に残る大発明だと言っていたそうだが、ぼくはあれで言葉を耳から聞く、口調から微妙なニュアンスを聞き取る能力が非常に減退したと思う。生の演劇を見ていて、セリフを聞き取る能力の減退を感じたからだ。ニュース番組の字幕が、巧妙に編集されて論調を変えられていることはご存知の通り。
テレビによる国民の白痴化、知性の積極的な排除はぼくは80年台のフジテレビおもしろ路線から加速したと思う。それが、今の若者の潔癖症なまでのノンポリ化、果ては「ロックに政治を持ち込むな」みたいな主張につながっているのではないか。
閑話休題、大宅文庫に戻るが、この施設の財政危機はネットの普及によるものだと言う。今はネットでサーチすればすぐに資料が得られるから、わざわざ電車に乗って、施設を訪れ、紙の資料を探し、コピーしたり書き写したり、そういう手間を最近の若い人はしなくなった。それで利用者が激減したとくだんの番組では言っていた。それはそうかもしれない。
ところが、このことについて、ニュースに出てきた柳田邦男氏は「ネット、スマホで何でも情報が得られると思っている、今の世代」を批判して「第2次 一億総白痴化」であると言っていて、これはとても首肯できないと思った。おっさんに顕著な、ティピカルな「昔は良かった」論で、ピラミッドの落書きのように感じた。
そもそも大宅文庫や図書館自体、情報検索の利便性を高め、研究者や市民の負担を軽減するために作られたものである。図書館誕生前夜は本を読むために、本屋を探しまわったり、本を持っている人を訪ねたり、自分でも本を所蔵して整理したり、多大な金、労力、時間を費やしていたはずだ。今でもそうやってしか読めない本はあり、またどうしても手元に置いておきたい本もあるけれど、図書館によって、大量の本を縦横に検索し、膨大な文章からエッセンスを抜き出すことが可能になって、ジャーナリストや評論家は大いに助かったはずだ。でも、「昔のように自分の足で本屋を訪ね歩くことも、本を自分で所有することもなく、図書館で必要なところだけつまみ食いするのは手抜きだ」と批判することも可能である。いわゆる苦労すれば苦労するだけエライ論だ。でも、図書館があるとないとで、どちらが同じ時間で多くの文献に当たれるか、同じ労力で質の高いアウトプットが得られるか、と言えば、これは論ずるまでもないだろう。
大宅文庫に所蔵されている「雑誌」というメディアも同じく、少ない時間でより多岐にわたる情報を面白おかしく伝えるメディアである。でも「雑誌なんかで情報を得た気になって、原典の本に当たらないのは邪道で軽薄だ」という苦労エライ論もたたかわせることは可能だ。ていうか、こっちはそんなこと言ってる人当然いたんじゃないか。
しかし、大宅壮一は雑誌を集め、図書館で公開した。これはCERNの核物理学者がWWWシステムを構築し、ネット上で情報を共有し、ハイパーリンクで相互参照可能にしたのと、志は同じであろう。短時間でより多くの情報に、一気に到達する企図である。「雑誌の図書館は人間の知性を増進するがネットの検索は白痴化する」という理屈は、どうにも承服できない。
むろん紙の本、雑誌にしかない利点はある。図書館のある雑誌のある号に面白い情報を見つけたとして、その中に「このことは去年の夏頃述べましたが・・・」と書いてあったとして、その関連記事を検索するのは比較的簡単だ。雑誌の厚さからその号が置いてある大体の場所がわかるし、だいたいどのへんのページにあるだろうという推測を働かせて本をめくる。この技能はわれわれ学生時代に図書館に出入りしていた世代には体に染み付いていると思われるが、これからの子供はこの技能が減退するとは言えるかもしれない。
でも逆に、ぼくはネットを検索していて、古い陳腐化した情報や宣伝、ウソ情報の氾濫にゲンナリすることが多いが、今のデジタル・ネイティブな世代は苦もせず正しい情報にラクラク到達するかもしれない。
紙の本でぼくが好きなのはセレンディピティ(僥倖)的に得られる情報が多いことだ。本の巻末の宣伝や、雑誌の広告、目当ての項目の横のコラムなどに、思わぬ面白いことが書いてあり、その本が刷られた時代を感じさせて、もともと見ていた項目への理解が増すような気がする。辞書や百科事典を見ていて全然関係ない項目に面白みを感じることもしばしばである。
ネットはというと、どんなに昔の記事であっても、最新の、健康食品であったり出合い系サイトであったり、「わっ! 私の年収低すぎ!」という広告が横並びで並んでいる。それにしてもなんでネットの広告ってあんなにゲスいんだろうね。僥倖どころか、興趣を殺がれることおびただしい。
紙の本のオブジェとしての魅力、マテリアルそのものの魅力はどうしようもなくある。古い本の匂いを嗅ぐのも楽しいし、洋書の接着剤の妙にいい匂いを嗅ぐのも楽しい。それは単なるノスタルジアやフェティシズムを超えて、知的なものへの憧れと一体になっていると思われる。
しかし、ネットの魅力はネットの魅力で強烈にある。
ぼくは昨日、イギリスのEU脱退のことを「ブレグジット」と言うとテレビで知った。でもなぜブレグジットなのか、くだんのニュースでは言っていなかった。ここでスマホの登場である。数秒で「Britain Exit」の略であると分かった。なるほどねー。
忘れないようにツイッターでつぶやいた。発信の手軽さもネットならではだ。他の人にも読ませるから、それなりに体裁の整った文で、できれば面白い書き方をしようと思う。すぐにそのツイートに「いいね!」を付けてくれる人がいて、ほっこりした。これでブレグジットという言葉を忘れることはしばらくないだろう。
先日水たまりを見ていて、ボウフラがいかにも湧きそうだ、と思って、そういえばボウフラってなんて漢字で書くんだろう、と思った。ここでWikipediaである。孑孒と書くそうだ。孑も孒も、普通は見ない漢字だが、孑はケツやひとりなどと読んで右腕を切り取った子供を、孒はカチやぼうふらなどと読んで左腕を切り取った子供を表す象形文字だそうだ。ゲゲゲ! なんでそんなグロな漢字が必要なのだろうか。「奴隷階級の子供を逃がさないために、腕を切り取ったものか。」と疑問形でWiktionaryに書いてある。
面白いのでFacebookに書くと、すぐにコメントがついて「兵庫県宝塚市に伊孑志と書いていそしと読む地名があります。なぜ孑の字を使うのか、なぜ「そ」と読ませるのか謎ですが」と書いている。ぼくはすぐに「孑と書いて強引にひらがなの「そ」と読ませる、いわば視覚的な当て字ではないでしょうか」などとコメントしてみた。超楽しい。
こういうことを日々経験する。スマホがあって、ネットがあって、つくづく良かったー! と思う。ぼくを第2次一億総白痴化の犠牲者とはあまり呼ばないんじゃないだろうか。呼ばないでください。ぼくはネットのある、スマホのある生活を楽しんでいるし、自分の知性もしょうしょう磨かれたと思いたい。
柳田邦男さんもこんなにネットを毛嫌いしていては、逆にネット世代の若者を大宅文庫から遠ざけ、破綻を助けてしまうことになりかねない。誰かネットの便利さを彼に教えてやった方がいいのではないか。
と、ここまで書いてしょうもないことを考えたが、紙の図書館をネットで活用するために、ロボットを図書館に歩かせ、家のインターフェイスからVR的にコントロールできるようにするというのはどうだろうか。これなら地方在住でも中央の図書館にアクセスできるし、すべての本をデジタイズする手間もない。貸出の必要もないし、24時間開館できる。効率悪いし、匂いや手触りはなかなか伝わらないだろうが、一考の価値はないか。