先日、ナインティナイン岡村さんのラジオを聞いていたら「今日の収録現場にオトナがたくさんいた」と言っていた。

Egens Vig, lavvande, sandorm
 この言い方は最近のものである。
 岡村さんはもうオトナ、立派な中年である。この場合のオトナというのは年齢的なものではなく、単にスーツを来た人、スポンサー、広告代理店、テレビ局や芸能事務所のえらい人、という意味だろう。ぼくなんかも、年齢的には完全に中年、なんなら初老の域なのだが、若ぶってつい、会社の経営者や営業の人をさして「オトナの人は…」という言い方をしてしまう。あまり褒められたものではない。

 さて、オトナの人に特有の言い回しで「誤解を招く表現がありましたことをお詫びします」というのがある。
 何段階かグラデーションがあって「言葉足らずで誤解されても仕方ありませんでした。ここにお詫びします」とか、「誤解を招く表現があったのであればお詫びします」とか、色々ある。

 先日、競馬評論家の人がWeb雑誌に、女性の社会進出と育児に関する問題について書いていた。ぼくの責任で要約すると「現代の女性は才色兼備、良妻賢母という、職業人としての自己実現と、家庭人としての評価、女性としての美しさ、余暇の充実などをすべて同時に追い求めているが、それは無理だからどれかからは逃げるべきだ。逃げる女性は美しい」というものだ。競馬の逃げ馬に掛けている。

 ぼくはこの問題に詳しくないが、個人の意見として、筆者の意見に反対だ。とんでもなく古い認識だと思う。また、古い認識に基づく文章全体に点々と書かれた揶揄的な放言も不愉快だと思った。ぼくと同じ見方が圧倒的多数派であったらしく、SNSで炎上した。今は意見の発表、拡散がネット経由で行われて便利だが、それに対する反応、反論もダイレクトに返ってくる。結局そのメディアは炎上を受けてブログの掲載を取り消した。記事ごと取り消すというのはなかなか見られないのでビックリだ。

 そのおわび記事には以下のように書かれていた。

著者了承の上で当ページ「(記事名)」の記事は掲載をとりやめました。記事の意図が十分に伝わらず、読者の皆様に誤解を与えかねない表現になっておりました。いただきましたご意見を真摯に受け止め、今後の編集に生かしてまいります。


 これだよ。

 もとの文章を、ぼくは電車の中でiPhoneで読んだが、非常に分かりやすく、スイスイ読めた。さすが評論家であって、文章はうまいと思った。
 スイスイ読んで、明瞭に理解した上で、ぼくはこの意見に反対だと思い、憤慨したのである。

 意見がさまざまに違う人がいるのは当然のことである。当該の記事に言及したSNSの記事でも、「たとえホンネであってもこれは言ってはいけないだろう」などのトーンのものも含め、賛成する人が相当数いたのである。

 しかし、編集部の意見としてはこちらの受け止めは誤解だと言う。

 誤解というのは、発信者の表現能力が低い、かつ・または、受信者の受容能力が低いために、文章の真意が伝わらず、間違った意見として捉えてしまうことを言う。上の文章の場合は、ぼくはちゃんと原発言者の意見を汲み取りつつ、汲みとった上で批判的感想を持ったつもりだ。

 もしそれが誤解というのであれば、正解を教えてほしい。原発言者の競馬評論家の方か、Webメディアの編集者の方が、あんたらはこう誤解してるけど我々としてはこう言いたかったんですよ、と言って欲しいし、言えるはずだ。

 「誤解を招いてスミマセン」という言い方は傲慢である。
 読者の受容能力の低さを暗示しているからだ。「それぐらい、察してくれていいと思うけど、読み取ってくれない人がガーガーうるさいから取り下げますよ」、「じゃあ何が言いたかったかって? どうせそれも読み取れないんでしょ。だったら言わないんだよ」、「読解力がない人は読まなくて結構」と、まあそこまでは思ってないかもしれないが、思えば思える書き方である。

 ていうか、ぼくなりにオトナ読解力を発揮すると、「記事の意図が十分に伝わらず、読者の皆様に誤解を与えかねない表現になっておりました」というのはウソであって、真意は最初からばっちり明瞭にコラムの中で発揮されているとおりであり、メディア編集部はその意見そのものが取り下げるべきであると思っているはずだ。でなければ本来表現すべき真意が書けるはずだからだ。
 しかし、「このコラムの意見を本メディアに掲載することは不適切であったから、取り消します」あるいは「最初はこのコラムの意見、アリだな! と思って掲載したんですだが、世間がガーガーうるさいから、取り消します」と言ってしまうと、「負け」になってしまうので(?)、みなさんの読解は誤解である、誤解じゃないけど誤解ということにしてください、と書いてあるのである。

 この「誤解」という言い方はオトナ言論の世界に蔓延している。政治家の放言も、企業のプレスリリースも、誤解を生んでスミマセンでした、真意を汲んでもらえればよかったんですけど言葉が足りませんでした、と、すべてを表現の問題、そしてこちらの受容能力の問題にすりかえて詫びられる。本当に誤解だったのなら正解はなんだったか教えて欲しいのだが、それも教えてもらえないことが多い。

 上に「誤解という言い方はウソである」と書いたが、このウソは「今日お腹痛くて学校を休みます」とか、「お釣りを持って帰ろうと思ったんだけど落っことしちゃいました」という、シンプルなウソとは趣きが違う。人を騙そうと思ってつくウソではないのである。
 上のお詫びを読む人は、コラム取り下げの理由が、「誤解を招く表現であったから(真意が伝わらなかったから)」ではなく、真意およびそれに基づく表現がまずかったからであることをなんとなく分かっている。そして、メディア編集部としてはそれを正面から詫びることは何らかの理由でできないらしいので、誤解ということにしている(すりかえている)ことも分かっている。
 つまり謝礼をお車代と言ったりするのと一緒で、オトナ同士の阿吽の呼吸に基づく、つく方もつかれる方も裏事情がわかりきったウソである。

 ここまで書いて思うことは、ぼくもせいぜいオトナではありたいけど、こういうお詫びは可能な限りしないですむような人生を歩みたいということだ。