昨日、3月9日、水曜日は、武蔵小山の薬草酒バー「月光密造舎」での朗読会「佐藤春夫を読む」に参加した。
「TARUHO」は、武蔵小山のDIYビルとして有名になった「コレクションハウスビル」の2階で、芸術家のマンタムさんがプロデュースしたバーである。日替わりで店主とコンセプトが違い、月火水(不定休)は虚飾集団◉廻天百眼の紅日毬子さんと、舞台芸術創造機関SAIの倉垣吉宏さんがやっている「月光密造舎」だ。で、紅日さんがやっている朗読ユニット「天球儀の会」が、ここ「TARUHO」=「月光密造舎」において、朗読会を催されて、それを観て来た。ここまで分かりましたか。そういうことらしいよ。
◉月光密造舎◉ @gekkoumitsuzou
実はその前の日の、3月8日火曜日も「月光密造舎」に行っていた。気に入りすぎだ。8日はその日限定の、イノシシのベーコンというのがあった。
これを、樽熟成されていないウィスキー「Devil's Share」というのと一緒に飲むと、口の中でスモーキーなウィスキーが完成しておいしかった。
で、次の日朗読会があって、まだ席があるということで、参加することにした。火曜日は超暖かかったのだが、水曜日は雨が降って超寒かった。天候変わりすぎだ。もともと「TARUHO」は稲垣足穂をトリビュートしたバーで、紅日毬子さんは少年装をしている。しかし、この日は足穂と因縁浅からぬと言うか、恩讐関係にあった佐藤春夫の朗読会である。
最初に倉垣さんが、有名な「さんまの歌」を読んだ。有名なと書いたが、ぼくは「さんま、さんま」というフレーズしか知らなくて、全文とその背後にある人間関係のことは寡聞にしてこの日初めて知った。
へぇー。
あらためて佐藤春夫のWikipedia読むとめちゃくちゃ面白い。昔の文人はムチャクチャであったのだ。ベッキーさんゲスの人とかこれ読んで元気だしてほしい。大きなお世話だが。
次に紅日毬子さんが、小説「田園の憂鬱」の序の部分を読んだ。うだるような夏の話で、それを寒い日に聞くのも面白かった。
まとまった量の小説の朗読を聞く機会というのはあまりない。それで、聞いていると面白いことに気づいた。
朗読を聞くとき、人は、最初は真っ白な脳に、入ってくる言葉を順々に解釈して像を結ばせる。「向こうから家が見えてきて…」という文があると、ああ、家が見えてきたなあと思う。「2匹の犬がまとわりついてきて…」という文があると、ああ、2匹の犬がまつわりついてきたなあと思う。小説の言葉は線的なものだから、順々に入ってきて、順々に像を結ぶ。主人公の小説家が妻を連れていることさえ、すぐには分からない。
これが、小説を映画化したものであれば、いきなり二人の男女が、犬を2匹連れているのが映しだされ、家がドンと描かれる。だから、いっぺんに、イメージが面で入ってくる。
それに対して、朗読の、言葉が読まれたスピードで脳に入ってきて、順々に像を結ぶのを感じていると、これが本来の小説の姿かもしれないなあと思えてくる。もちろん普段から小説ぐらい字で読むけど、目で読むときは飛ばし読みをしたり、戻り読みをしたりしているし、字の「音」に気を配らないから、実は小説の味わいを相当そこなっているんじゃないだろうか。詩人でもある佐藤の、情景描写たっぷりの文章を耳で聞いて、余計そんなことを考えた。紅日さんの朗読は、地の文とセリフと、それぞれ工夫されていて、以前「朗読は芝居口調になっちゃいけないらしいですよ」とおっしゃっていたのが、あらためて納得できて良かった。
次に倉垣さんと紅日さんの2人で「オカアサン」という童話(?)を読んだ。倉垣さんが地の文を読んで、紅日さんがセリフと鳥の鳴き声を読む。途中この2つが掛け合い的にパッパッと交錯する場面もあって面白かった。
これが童話というにはかなり不思議というか、夢幻的というか、猟奇的一歩手前みたいな話で面白かった。悪いクセで、途中ドンドンもっと怖い結末を想像していたが、そこまで行かずに終わるのも、かえって余情があって良かった。この話は読んだほうがいいですよ。青空文庫に入っている。
図書カード:オカアサン
おいしいパンを食べて、「ドランブイのお湯割り」をおかわりしながら聞く朗読の夜は楽しかった。
このあともイプセン「人形の家」の演劇喫茶とか、澁澤龍彦の朗読会とか、次々に企画されているそうだ。
◉月光密造舎◉ @gekkoumitsuzou
実はその前の日の、3月8日火曜日も「月光密造舎」に行っていた。気に入りすぎだ。8日はその日限定の、イノシシのベーコンというのがあった。
これを、樽熟成されていないウィスキー「Devil's Share」というのと一緒に飲むと、口の中でスモーキーなウィスキーが完成しておいしかった。
で、次の日朗読会があって、まだ席があるということで、参加することにした。火曜日は超暖かかったのだが、水曜日は雨が降って超寒かった。天候変わりすぎだ。もともと「TARUHO」は稲垣足穂をトリビュートしたバーで、紅日毬子さんは少年装をしている。しかし、この日は足穂と因縁浅からぬと言うか、恩讐関係にあった佐藤春夫の朗読会である。
最初に倉垣さんが、有名な「さんまの歌」を読んだ。有名なと書いたが、ぼくは「さんま、さんま」というフレーズしか知らなくて、全文とその背後にある人間関係のことは寡聞にしてこの日初めて知った。
へぇー。
あらためて佐藤春夫のWikipedia読むとめちゃくちゃ面白い。昔の文人はムチャクチャであったのだ。ベッキーさんゲスの人とかこれ読んで元気だしてほしい。大きなお世話だが。
次に紅日毬子さんが、小説「田園の憂鬱」の序の部分を読んだ。うだるような夏の話で、それを寒い日に聞くのも面白かった。
まとまった量の小説の朗読を聞く機会というのはあまりない。それで、聞いていると面白いことに気づいた。
朗読を聞くとき、人は、最初は真っ白な脳に、入ってくる言葉を順々に解釈して像を結ばせる。「向こうから家が見えてきて…」という文があると、ああ、家が見えてきたなあと思う。「2匹の犬がまとわりついてきて…」という文があると、ああ、2匹の犬がまつわりついてきたなあと思う。小説の言葉は線的なものだから、順々に入ってきて、順々に像を結ぶ。主人公の小説家が妻を連れていることさえ、すぐには分からない。
これが、小説を映画化したものであれば、いきなり二人の男女が、犬を2匹連れているのが映しだされ、家がドンと描かれる。だから、いっぺんに、イメージが面で入ってくる。
それに対して、朗読の、言葉が読まれたスピードで脳に入ってきて、順々に像を結ぶのを感じていると、これが本来の小説の姿かもしれないなあと思えてくる。もちろん普段から小説ぐらい字で読むけど、目で読むときは飛ばし読みをしたり、戻り読みをしたりしているし、字の「音」に気を配らないから、実は小説の味わいを相当そこなっているんじゃないだろうか。詩人でもある佐藤の、情景描写たっぷりの文章を耳で聞いて、余計そんなことを考えた。紅日さんの朗読は、地の文とセリフと、それぞれ工夫されていて、以前「朗読は芝居口調になっちゃいけないらしいですよ」とおっしゃっていたのが、あらためて納得できて良かった。
次に倉垣さんと紅日さんの2人で「オカアサン」という童話(?)を読んだ。倉垣さんが地の文を読んで、紅日さんがセリフと鳥の鳴き声を読む。途中この2つが掛け合い的にパッパッと交錯する場面もあって面白かった。
これが童話というにはかなり不思議というか、夢幻的というか、猟奇的一歩手前みたいな話で面白かった。悪いクセで、途中ドンドンもっと怖い結末を想像していたが、そこまで行かずに終わるのも、かえって余情があって良かった。この話は読んだほうがいいですよ。青空文庫に入っている。
図書カード:オカアサン
おいしいパンを食べて、「ドランブイのお湯割り」をおかわりしながら聞く朗読の夜は楽しかった。
このあともイプセン「人形の家」の演劇喫茶とか、澁澤龍彦の朗読会とか、次々に企画されているそうだ。