さいきんまたぞろポツポツ原発が再稼働し始めた。

Takahama Nuclear Power Plant
 原発を、反対にもかかわらず稼働しなければならない理由としては、日本は資源小国で石油が取れないからだという。ぼくが子供の頃は、石油は30年ほどで枯渇すると言われていた。それから30年がゆうに過ぎたが、なかなか枯渇しそうにない。それどころか、アメリカにおけるシェール革命の影響で、いま原油は最安値を付けている。

 また、日本は震災後、原発を稼働せずに4年持ちこたえた。この影には電力関係者の血のにじむような努力があったこと、想像に難くないが、国民もがんばった。日本人の節電能力が恐ろしく高かったことは、最近流行りの日本人のエライところとして素直に世界に誇っていいのではないか。この4年の間も、特に世の中が暗いとか、電気が使えなくて不便だとかいうこともなかった。クリスマスのイルミネーションなんて、ぼくが子供の頃はあんなに盛んではなかった。うちは大家さんがエアコンを変えてくれたので、夏の電気代は大幅に節減された。今後もスマートグリッドなどの活用によって、より節電社会になって欲しい。太陽電池も普及し、自宅の電気はすべてそれでまかない、余った電気を売っている「黒字」の家も多い。ただ拙速に設置された太陽電池は台風で飛んだりいろいろな事故が起こった。過渡期の現象であるにしても、素直に反省し、より安全な設置方法を開発すべきだろう。
 ということで、よく原発を批判する奴は電気を使うな、ロックを歌うな、パソコンを使うなと言い出す人がいるが、これは日本人に多い「極端から極端に走る議論」である。高度成長時代、日本に原発はなかった。原発がなくても電気は作れる。

 資源不足以外の原発の稼働理由としては、火力発電は温室効果ガスを出して地球の温暖化に寄与するというものである。震災前の中部電力のCMで、男性歌手が「ぼくは父親として、子供の未来の為に、クリーンなエネルギー、原子力を望みます」という趣旨のことを言っていた。
 地球の温暖化はどうやら事実である。しかし日本は本当に温室効果ガス対策に真剣に取り組んでいるだろうか。安倍内閣になって大きく推進されているものがあって、それが石炭火力発電である。インドなど外国にも輸出されていて、現地で環境問題になっている。この石炭火発は石油よりもはるかにCO2を排出するものだ。
 火発をやめれば、ただちに原発にしないといけないか。そんなことはなくて、太陽エネルギーの利活用や節電に加えて、風力発電や、燃料電池による蓄電などももっと推し進めるべきだろう。これは科学技術が大きくモノを言う技術であって、日本のお家芸だ。
 また温室効果ガスは牛のゲップから出るメタンガスも大きい。原発から出ている水蒸気も立派な温室効果ガスだ。原発か、温暖化かという二者択一の議論も単純化のし過ぎである。

 日本は石油を産出できないし、その石油も枯渇するから原発を作らないといけない。石油を燃やすとCO2が出て、温室効果で地球が温暖化するから原発を作らなければならない。これは原発を開発する「表の意図」であって、どれも傾聴に値するが、議論の余地もあることは上に見た通りである。

 一方、原発の開発には「裏の意図」もあるのではないかと言われている。核兵器の開発である。もっとも、実際には通常のウラン型原発を作っても原爆の開発は出来ない。(核燃料や死の灰を通常の爆弾で撒き散らす汚い原爆であれば出来る。)純度の高い戦略級の核物質を作るのは、現在止まっている「もんじゅ」をはじめとする高速増殖炉である。この開発は、西側先進国はすべて断念している。(他の国ではまだ開発している国もあって、ロシアではついに実用化に成功した。)これは冷却材に金属ナトリウムを使うなど非常に危険な技術であり、日本はたびかさなる事故や不祥事を起こしたがまだ開発を断念していない。

 日本国は核兵器を開発するために核を持っているのか。これは日本人の左翼の人だけでなく、世界中の関心事である。反核を志向するアメリカのオバマ大統領は、冷戦時代に日本に貸していた研究用のプルトニウムを返せと言ってきた。日本が核兵器開発すべきであるという持論はたびたび保守政治家ももらしているし、2011年の読売新聞では「原発の平和利用は一種の核抑止力である」と堂々と書かれた。

 この「裏の意図」は、表では議論されない。「電力が足りない」「いや余っている」「温室効果が心配だ」「石炭や原発の方が心配だ」という「表の意図」は公然と議論されるが、「裏の意図」は、影ではささやかれ、保守政治家が放言したり、革新側が保守を叩くために持ち出すことはあっても、「原発を作っても核兵器は作らないことを法制化しましょう」という議論にはならない。「非核三原則」は政府決議ではあっても法律ではないのである。

 反対に、革新側の政策も「裏の意図」が囁かれることがある。たとえば選択制夫婦別姓の議論があって、これは「日本の古き好き家族文化を破壊し、日本を分断するための反日勢力の陰謀である」と言われる。
 実際には、日本以外の西側国家も夫婦別姓が認められているし、日本も夫婦別姓が法制化されたのは最終的に1948年(戦後)のことである。それ以前は夫婦別姓も認められていたし、それどころか明治時代には「結婚で妻の姓を変えることは日本古来の家父長制度に反する」という議論さえあった。また江戸時代には武士以外には苗字がなかった。夫婦別姓にしても、それが日本の文化を破壊されることはないから、当然このような「裏の意図」は荒唐無稽と思える。
 にも関わらず、このような「裏の意図」はネット言論では喧伝されているし、どうかすると保守政治家も放言している。

 Aという政策が提案されるときに、表の理由としてXが言われる。で、X是か非かが議論の焦点になる。ところが一方で、裏の理由としてYがあるのではないかと言われる。このYは表立っては議論されない。本来ならば、そのような疑念、懸念があるのならば、Yも堂々と議論し、否定なり肯定なりすればいいのである。しかしそうはならず、政策本位の議論がなされないで「実は、あいつはこう思っているんだ」という暗い憶測をみんなが持っている。しかし、Yが真実かどうか、突き詰めた議論にはならないのである。これは「物事が正々堂々と言えない社会」であり、不健康ではないだろうか。