ヴァイオリニストの高嶋ちさ子さんという人の子育て論が炎上している。

Sarah McLeod 2
 子供に不本意ながらゲーム機の「Nintendo DS」を渡していたが、夜7時を過ぎたら使わない(ちなみに高嶋家ではあらゆる家電品が夜7時過ぎは禁止、ということだが、これはパソコンやテレビのことで、いくらなんでも電灯とか冷蔵庫は許されるんじゃないだろうか)という約束を子供が破ったために、折りたたみのゲーム機を折り壊し、高嶋さんはそれを写真に撮って「我が家ではこんな厳しい子育てをしています」という新聞のコラムに載せた。

 インターネットでは「虐待だ」、「あんたストラディヴァリウスを壊されたらどうするんだ」と大勢の人が烈火のように怒って、炎上になっている。
 ぼくは子供はおろか家庭も持っていないので、高島さんの子育てを論評するつもりはないが、まあ親がゲーム機を壊して、写真を撮って新聞で自慢しだしたら心底恐ろしいと思う。ぼくはそんな家に生まれなくて良かったなあと思うけど、これは好みの問題で、雨露をしのげる家で三度三度ごはんを与えているだけ虐待とは言えないという考え方もあるだろう。

 この件で面白いのは、インターネット外では「こんな子育てもあるんですね〜」と感心する人もいるということだ。
 曽野綾子のドラマ化された小説「太郎物語」にも似たようなエピソードがあって(ぼくはなぜか読んでいるのだが)、息子の太郎が「テレビがないと死んじゃうよ」と言うと、父親が怒って「本当に死ぬか、試してみろ」という趣旨のことを言って、テレビを庭石に投げつける。「それ以来、太郎の家にはテレビはない」ということが、「好ましい父親の子育て」として描かれていた。

 これ、高嶋ちさ子さんや太郎物語の父親がいいとか、悪いとか言うより、テレビやゲームを子供から取り上げるのは古き好き親のすばらしい子育てぶりだと熱い賛同をする親が一定数いるのは事実である。昔からこういうコワイ親が怒り狂って子供を隷属させる子育てというのはあった。それを是認するかどうかは個人の価値観であって、国、地域、家、人によって民主主義の発展段階は違うから、単純に批判するのはなかなか難しい。

 ぼくの親はまあまあリベラルだったが、ぼくが大学に入って上京した時、集めていたスヌーピーのマンガを全部捨てようとした。ぼくはあわてて普通列車を乗り継いでマンガを取りに行った。当時はまだ大垣行きの最終があったし、他にも普通の夜行が走っていた。青春18きっぷで18時間ぐらい掛かったと思う。帰りは親が飛行機代を出してくれた。なんやそれ!

 このように、親というものは、マンガやおもちゃを捨てる。
 親本人には悪気がないのである。しょせん子供のおもちゃなんか遊び道具であり、大人になればいらなくなるもの、本来なくてもいいもの、本筋ではないものであるし、親が金を稼いで買ったものであり、勉強の妨げであり、家の中で親は目上であり子は目下であるから、不要であると思えば親は自由に子供のものを捨てて良い、という昭和時代のルールが、今も脈々と生きているだけだ。
 今の世の中は、いい大人がマンガを読んだり、おもちゃで遊んだりしていても、表立って変わった人とは言われない。昔の「マジンガー超合金」がテレビの「なんでも鑑定団」で何十万円もの値を付けるようになった。これは80年代にオタク族(ぼくのような人間のこと)が出てきてからの現象であり、昔はそういう人は排すべき変人だと思われていた。
 今でこそそういう人がめずらしくもないという現象がおきているが、今であってもそういう現象は面白くないと思っている人は一定数いて、チャンスさえあれば家族のおもちゃやマンガを捨ててやろうと虎視眈々と狙っている。いぜん知り合いのアニメ作家の人は、部屋を掃除に来た婚約者から家の中のビデオテープ、レーザーディスク(1999年当時の話)、原画、資料などを全部捨てられ(なんでそういう価値観の女性とアニメ作家が婚約したのか不思議といえば不思議)、婚約破棄に至り、女性の親から婚約不履行で訴えられそうになったが、普通に弁護士を立てて逆にわずかな慰謝料を勝ち取ったそうだ。
 今でも「断捨離」とか「ミニマリスト」とか、ものを捨てて家をスッキリさせようという考え方の人が「子供のおもちゃは子供に選ばせるな」などと書いていて主婦の人の熱い賛同を得ている。

 ぼくは根っからオタク体質であって、こういうマンガとかビデオとかに浸りきって生きている。(ゲームはすぐ死ぬからやらない。アイドルは一時はまっていた。)
 だから「マンガやゲームはいらないもの」、「ふだんは大目に見ているが、必要に応じていつでも奪ってしまっていいもの」という親の考えが、まったく分からない。まあ、でも、わからないなりに推測すると、上にも書いたが、趣味や道楽は人生の本筋でないもの、本来なくてもいいものであり、本筋に影響があれば奪い去ってもいいし、奪い去ってやったほうがむしろ本人のためだ、というものであろうか。
 ただ、仮定に仮定を重ねる形になるが、では何を捨ててはいけないのであろうか。本筋とはなんだろう?

 よく言われるのは「旦那さんのマジンガー超合金を捨てる奥さんは、自分のエルメスのバッグやシャネルのドレスを捨てられても平気なのだろうか」というものだ。高嶋ちさ子さんのストラディヴァリウスも、生活するためだけなら本来不要なものである。弘法筆を選ばずというから、そのへんの古道具屋で5万円ぐらいで売っているヴァイオリンでも、名人が弾けばそこそこいい音がするのではないか。むかしストラディヴァリウスの音を評論家の荻昌弘(故人)が聞き分けられるかという番組をテレビでやっていて、結局聞き分けられなかったような気がする。そもそも、ヴァイオリンを弾いて木戸銭をもらってごはんを食べるという生き方じたい、本来人間生活には必要ではないものではないか。アリとキリギリスで言えば完全にキリギリスである。
 むろん、ぼくは上の文を本気で書いてはいない。音楽や文化は人間になくてはならないものであるから、どうぞ世界中のヴァイオリニストの人は納得の行く名器を弾いてすばらしい音楽を紡いで欲しいと思う。でも、そういう人に、しょうもないオタク文化、チャラチャラしたアニメやゲームの文化「も」、せいぜい尊重して欲しいと思う。