さいきんの時事ネタで、エフセキュア(F-secure)という会社の人が起こしたと思われる事件がある。

Flickr - DFID - UK Department for International Development - Stephen O'Brien meets refugees from Ivory Coast in Liberia
この事件は、右翼的な人が書いたイラストに端を発している。
シリアの難民の少女の報道写真をマンガ化して、「他人のお金で幸せになりたいから難民になろう」という意味の文言をつけたもので、ネット上で拡散された。
悲劇的な運命をたどっている難民を茶化したものであり、写真家の著作権も、少女の肖像権も侵害しているから、当然のように非難され、炎上した。
ぼくもこのイラストは少しもいいと思わない。

さて、くだんのイラストはFacebookでも公開されたが(その後削除された)、これに「いいね!」を付ける人が多数現れた。
「いいね!」というのはある記事に賛意を示すということで、「いいね!」をつけた人の「友達」にも「いいね!」をつけたということが広まるので、一種の拡散が行われる。
Facebookは基本実名で登録するものだ。
だから、Facebook上で、実名で、この右翼的なイラストに賛意を発している人が多数いた、ということである。
「いいね!」を付けた人達は「難民の少女は他人のお金で幸せになりたい不逞の輩であり、そういう外国人を受け入れることは良くない、排斥するためには著作権も肖像権も侵害してかまわない」という考えを、多かれ少なかれ持っていたことになる。

逆にこのイラストを非難した人たちは「人権、著作権、肖像権を強く守るべきだ」と思っているということになる。
その一部は反・右翼的であり、さらに一部は左翼的な心性を持っていると思われる。
でも、右翼的で、民族主義的な心情を持っている人たちの中にも、難民に同情する人もいるだろうし、自分の意見を通すために侮辱的で暴力的な表現をすること、人権侵害を行うことをこころよく思わず、くだんのイラストを非難した人も多いと思う。

さて、くだんのイラストを書いた人、および、それに「いいね!」を付けた人を、強く非難する立場の人の中に、過激な左翼思想を持ち、かつ、セキュリティ会社に勤めていて、高度なIT技術を持った人がいたようだ。
その人は、自分の技術と、まだ事情は分からないが、もしかして業務上知り得た情報を使って、くだんのイラストに「いいね!」をつけた数百人の人の個人情報を調べ上げ、ネット上で晒した。
ここで「晒す」というのは誰からも見える状態にする、ということだ。

このエフセキュアというセキュリティ会社はフィンランドで設立されたインターネットセキュリティソフトの会社で、なんと、マイナンバーに関連する公的機関や地方自治体の仕事も受注していたという。
ええー。
もし、こんな不法行為が可能になるのであれば、ある思想に共鳴した人のマイナンバーのリストが、ずらずらネット上に晒されたかもしれないわけで、それは怖すぎる。

以上がぼくの聞き知ったこの事件の経緯である。
以下は、この事件に関連するぼくの意見を述べる。

まず、ぼくは難民に同情的であり、先進国の人はそれを助けることが義務であり、助けることが結果的に世界を平和にし、自分たちにも利得が返ってくると思っている。

しかし、かりに難民を紳士的に批判するような人がいたとしたら、その言論の自由を、ぼくは尊重する。
民主主義の基本は「ぼくはあんたの意見が大嫌いだ。でもぼくはあんたが、ぼくの嫌いなその意見を主張する権利を、命がけで守る」というものである。

では、どんな言葉でも言う自由があるかというと、そうは思わない。
発言自体が暴力的で、人を傷つける場合は、許されない。

今回の事件のきっかけになった難民を侮辱するイラストは、人権を不法に侵害する暴力的なヘイト・スピーチであり、非難を受けるべきであることに疑いはないと思う。

では、ヘイト・スピーチ的なFacebook投稿に「いいね!」を付ける行為も、また暴力的なヘイト・スピーチだろうか。
ぼくは、ヘイト・スピーチ的な表現が伝播することに力を貸している以上、暴力の幇助に当たると思う。
でも刑法で実行犯と幇助犯が量刑で区別されるように、わざわざ他人の写真を悪意を持ってトレースしてアップロードする行為と、気楽に「いいね!」ボタンをクリックする行為は、重みが違うだろう。

では、ヘイト・スピーチ的なFacebook投稿に「いいね!」を付けた人の、個人情報を晒す行為は褒められたことだろうか。
これもダメだろう。
ある人が人権を侵害していたり、その人権侵害を幇助しているからと言って、その人の人権を不法に侵害することは許されない。
それはまた別の暴力であって、相手と同じレベルに堕してしまうことだ。
暴力は暴力で封じるということを認めていたら、暴力の応酬になってしまい、誰が一番腕力が強いか、誰が躊躇なく暴力を振るうほど下品かということで勝負がついてしまう。
力が支配する修羅の国になってしまい、そういう世界は反民主主義的だ。

だからと言って、ヘイト・スピーチ的なFacebook投稿に「いいね!」を付けた人の、個人情報を晒した人を、いくらでもリンチに掛けてかまわないということにも、ならない。
「ヘイト・スピーチ的なFacebook投稿に『いいね!』を着けた人の、個人情報を晒すのは、不逞の輩で、そういう人のカウンターである元のFacebook投稿で難民を非難していた人は、擁護されるべきだ」という、「敵の敵は味方」みたいなことにも当然ならない。
くだくだしくもう繰り返さないが、とにかく暴力に暴力で応じていたのではダメで、きちんと手続きを踏んで言論の世界の中で批判しなければならない。

「○○側の暴力は正しい暴力だが、××側の暴力は間違った暴力だ」という考えではダメだ。
どっちの暴力もダメなのである。
だいたい、この世界は赤勝て、白勝てで割り切れるような単純な運動会ではない。

異なった意見を持つ人がいてもいい。
お互いが紳士的に、ルールを守って切磋琢磨すればいい。
思想を持つことが、その人の人格を向上し、世界を改善する助けにならなければ、ものを考える人間に価値はない。
思想を持ったことによって、下品な人になってしまう、思想と思想が血まみれの殴り合いをやっている、そんな世の中は、闇だ。

さて、マイナンバー制度を安全に実装するセキュリティ会社に「自分の思想を守るためなら暴力は許される、そのために自分の高度な技術と(まだ分からないが)職業上知り得た秘密を使ってもかまわない」という考えを持つ人がいるのは、許しがたいこと、当然である。
それは、その人が○○主義だからでも、××主義だからでもなく、単純に正義の問題だ。
ぼくはその人が何主義であろうが、厳しくことの真偽を改めて、必要なだけ罰してもらいたい。
敵味方の問題ではないのだ。

しかし、どんなにモラルを叫ぼうが、悪い人は一定の割合で発生するもので、本件は我々の社会が持つ一種のセキュリティ・ホールと考えられる。
ぼくはそのような人を一層厳しく取り締まるために捜査機関に強大な権力を与えるべきだとも、会社は勤めている人の行動を監視すべきだとも思わない。
そういう厳しい捜査、監視で困るのは結局弱い人で、本来正邪を明らかにすべき捜査、監視が、思想取り締まりのツールに使われるのも困る。
捜査するのも監視するのも結局人間だから、そういう権限を持つ人が悪い人だったらいっそうひどいことになるだろう。

ぼくは脆弱性自体をシステム的になくすのがいいと思う。
具体的にはマイナンバーのような大きな籠に卵を盛るような一元管理システムは時期尚早だろう。
くだんの事件以外にも、カードに点字がないから視力障害者はナンバーを見られないとか、詐欺事件が早くも発生しているなど、システム上の瑕疵が現れているようだ。
あと、フェイスブックも個人情報の管理をしっかりやってほしい。