今日もザムザ阿佐谷に月蝕歌劇団公演「家畜人ヤプー」を観に行った。
2回目だ。

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なんで同じ演劇を2回も見るのだろうか。
理由の一は、1回見ただけでは良く分からないからである。
演劇は、演目によっては難しい。
寺山修司や月蝕歌劇団は特に難しい。
小説と違って戻って読む、ということができなくて、一つの分からない場面に拘泥しているうちに先に進んでしまうので、どんどん疑問が脳に堆積する。
でも、2回見ると、見どころや、前回わからなかったところがちゃんと頭に入っているので、グッと理解が深まって感動する。
だから、何回もお客さんに来て欲しい劇団は、脚本を難解にすればいいのではないか。
期せずしてダジャレのようになったが本意ではない。

でもぼくは、ここ数年の観劇ブームで、いろいろ見ているうちにそれなりに見る目が付いてきて、以前よりも理解力が増したし、理解できないなりに楽しめるようになった。
昔は分からないから楽しめない、と思い込んでいた。

今回の「家畜人ヤプー」は物事が順々に起こり、わりに分かりやすい。
でも、たとえば、なぜ狐の面を被った少女が鞠をついているのか、初めて見た人はわからないと思う。
これは何回か月蝕歌劇団の他の舞台を見ていると「特に意味はない」と分かる。

2回も見る理由の二は、やはり自分なりの見どころ、推しの女優さんの受けの演技などを見るためだ。
今回も、1回でバッチリ内容がわかった「ヤプー」だけど、2回見て本当に良かった。

最初は人間の尊厳を失わせるSMプレイや、それが日本史の暗黒面を映しているという内容で、あくまで深刻に受け止めて見ていたが、2回目は、この話はずいぶん黒い笑いに満ちた話だなーと思った。
恋する乙女クララが、あっさり未来帝国イースの主義に感化されてしまうのがウケるし、トムとジェリーのトムのように、ありとあらゆる責めを受ける麟一郎の姿もおかしい。
人工宗教に隷属するヤプーたちの姿も、哀れでおかしい。
「これが大和民族の末裔の姿か」という深刻この上ない嘆きも、深刻だけにおかしい。
でも、我が身を振り返って、順調にヤプー化を進めているようにも思える我々日本人も(田村信先生によると「もうすぐ」だそうだが)、自分たちのことながら、よく考えると滑稽でおかしい姿なのだ。
そう思うと、改めてゾーッとする。

話は前後するが、千秋楽公演の前に女優さんたちが歌い踊る「詩劇ライブ」も見た。
J・A・シーザー作曲による劇中歌がほとんどだが、三上ナミさんのオリジナル曲と、昭和歌謡のコーナーがあり、新鮮で良かった。
注目は初登場の花音菜(かおな)さんだ。
小さくてキュートなのにパワフルな声で、笠置シヅ子の「買い物ブギ」と、三上さんとのデュエットでザ・ピーナッツの「恋のフーガ」を歌っていて、ハマってて良かった。
芝居もハマっていたし、また月蝕に出ている姿を見たいなーと思った。