
芸人コンビ「ピース」の又吉直樹さんが、以前から本好きで、太宰治や芥川龍之介から、最近の本まで読みまくっているという噂は何年も前からあった。
又吉さんは大人しくて物静かなキャラクターで、ピンの仕事でNHK Eテレで社会的な話をしていても、すごく話が丁寧で良く分かるので、いち視聴者として好感を持っていた。
そんな彼が小説を書いたと言う。
1冊の本にしては短い、せいぜい中編の内容で、千円を超える本だったので、わざわざ買って読むほどではないと思った。
ぼくは若い頃から小説家になりたくて、漢字を練習する「二百字帳」に大長編小説の出だしを何個も書いたり、内田百閒や筒井康隆の小説を書き写したりしていたから、しょうじき嫉妬もあった。
芸人に面白い、芸術的鑑賞に堪える小説を書けてたまるか、という、ドス黒い気持ちも持っていたのだ。
その作品「火花」が芥川賞を受賞したと聞いて、ますます小物の自分のドス黒い気持ちは大きくなり、絶対に読むもんかと思った。
こうして文章にしてみると変な話であって、見ず知らずの芸能人なんかに真剣に嫉妬を感じるのは裏返しのミーハー根性である。
でもこういう気持ちになった、挫折した文学青年は日本中に多いのではないか。
その数日後、又吉さんが小説家の西加奈子さん、湊かなえさんと3人でテレビの「SMAP×SMAP」に出演した。
その中で、3人が、20字詰めの原稿用紙に、SMAPの5人をそれぞれ主人公にした小説を書けという企画があった。
湊さんが圧倒的で、SMAP一人ひとりを、20字の中で殺していく、人間の業を描いた物語を書いた。
西さんは過去のオシャレな小説から警句や名セリフを抜き出してSMAPに当てはめていくという方針で、少し逃げているな、と思った。
これは西さんが悪いのではなくて、この企画が難しすぎる。
そして湊さんが怪物すぎるのだ。
で、又吉さんだが、全然おもしろくなかった。
いわゆる雰囲気ギャグ、あるあるギャグで、ぼくは最近の若い人のこのノリを少しも面白いと感じないのである。
でも、それはこの企画が難しすぎるからしょうがないだろう。
問題は、又吉さんが原稿用紙の使い方をまったく分かっていなかったことだ。
句読点が行の真ん中でも他の字と同じマスに入ったりする。
シャンプーという言葉の「シャ」が同じマスに入ったりする。
きっと中学高校で作文の授業を真面目にやっていないのではないだろうか。
大人になってからの文章はワープロで書いたにしても、これはひどすぎる。
そう思って、ドス黒い気持ちのぼくは、ゲンナリしつつも、ちょっとホッとした。
それから、改めて彼の「火花」という小説に興味を持って、Amazonのレヴューを読みまくった。
絶対に彼の作品は大したことないだろうと思ったので、逆にミーハー的な関心を持ったのだ。
つくづくぼくは人間が小さく、性格が暗い。
性格が暗い人は何をやってもうまくいかないので、こういうところは直そうと思う。
Amazonのレヴュー欄には、多くの善男善女が★1つを付けて、思い思いに口を極めて彼の作品を罵っていた。
やっぱりそうなんだ。
そう思いつつも、あまのじゃく精神というか、ヤジウマ精神がぼくの中で頭をもたげてきて、ここまで言われる作品を読んでみたいと思った。
数日後、たまたま書店で「文藝春秋」を見つけた。
千円である。
又吉氏の単行本だけに千円以上を払うのは業腹だが、彼の作品の他に同時受賞作や公表、インタヴューも入っていて、他にもいろいろぎっしり記事が入っていて千円ならまあ買ってもいいかな、と思って買った。
「文藝春秋」とは、ふだんどんな人が買うんだろうか。
まあ政治的に保守寄りの、教養高い、お年寄りが買うんだと思う。
家にかえって、早速「火花」を読み始めた。
たちまち引きずり込まれてしまった。
「火花」は文藝春秋の中程のページに掲載されていて、作品の真ん中に老人ホームの宣伝と問い合わせハガキが綴じ込まれているのが邪魔でしょうがない。
ぼくは又吉さんの書く濃密な文章を、行きつ戻りつしながら読んでいたので、カッと来て老人ホームの広告を破り取った。
丁寧に破り取ったつもりだったが、広告の前の「火花」のページもちょっと破れてしまった。
ものすごくガッカリした。
何やってるんだ俺!
それでもすぐに、読書に戻り、再び「火花」の世界に引きずり込まれた。
結構長い小説なので、分けて読むつもりだったが、一読巻を置く能わざるというやつで、結局一気に読んでしまった。
読み終わったときは深夜で、すごくお腹が減っていることに気づいた。
次の日は所用で都心に出た。
「火花」を再読するために「文藝春秋」を持って出ようかと思ったが、余計な記事がいっぱい入っていて重いので、思いとどまった。
「文藝春秋」には他に、なぜか日航機墜落事故の美少女生存者の兄の手記(ポエム付き)というのも載っているのがどうかと思った。
「火花」だけ切り取って持って行こうかとも思ったが、ぼくは手先が不器用でロクな結果にはならないと思ったので、これもしなかった。
都心に向かう電車の中で、やっぱり「火花」が読みたいなーと思った。
こんな気持ちになるのは久しぶりだ。
iPhoneでAmazonのページを見ると、Kindle版があることが分かった。
結局1000円出してダウンロードして、そのまま読みふけった。
Kindle版でも読みやすい。
家に帰って、もう一度「文藝春秋」を取り出し、又吉さんのインタヴューと、審査員の講評を読んだ。
又吉さんのインタヴューは、面白いにはおもしろかったけど、もっと面白いことを言ってもいいのに、などと勝手な感想を持った。
「SMAP×SMAP」といい、突発的に文芸的かつ面白いことを、軽々しく言うタイプではないのかもしれない。
審査員の講評は面白かった。
ぼくは文学賞の審査員というと、筒井康隆の「大いなる助走」や、小林信彦の「悪魔の下回り」に出てくる魑魅魍魎のような作家どもを想像していたが、そんなことはなくて、みな真摯に、深い配慮を持って、「火花」や他の作品を褒めたり改善点を提案したりしている。
ぼくは「火花」を褒めている評を見つけるとニコニコし、貶している評を見ると「ううん、ここはやはり改善した方がいいのかなー」などと考え込んだ。
完全にただのファンである。
「火花」の中で、ぼくがどうかと思った点をするどく衝いている作家もいて、「やっぱりそうだよなー」とも思った。
それにしても、一人も嫌なことを書いている作家がいないのには感心した。
「文学賞の審査員講評」という文章のジャンルも、昔と今では違っていて、今はとにかく人の評判が気になる社会なので、より洗練されているのかもしれないが、小説家又吉さんへの愛あるエールがあふれていて、感動した。
ここ数日も熱が醒めやらず、iPhoneで「火花」を少しずつ拾い読みしたり、感心した文章をマーカー機能で着色したりしている。
ここまで読んで気になった人は、ぜひ審査員の講評を読まず、Amazonのレヴューも、あとこのブログ記事の後半も読まないで、「火花」をご一読することをおすすめする。
気に入らなかったらゴメンナサイ。
千円札1枚捨てたと思って、一読する価値はあると思う。
以下、行を変えてネタバレの感想を書く。
★
★
★
以下ネタバレ。
警告したからな!
まず「文章が生硬である」「文学ぶっている」「余計な装飾が多い」という批評がある。
それは確かに感じられ、特に冒頭の部分のような、風景を描写している部分に顕著である。
これは、作者が自分が「読書キャラ」「文学キャラ」であることを逆手に取って、文学、特に日本の明治以来の自然主義文学のオマージュというか、何ならパロディをやって見せているのであろう。
ファンサービスだ。
ここは「文学的か!」「巨匠か!」というツッコミを入れるべきところである。
それをわざわざ気にして、Amazonのレヴューに書いてしまうほど気に病んでしまうと言う人は、冒頭だけ読んで違和感に取り憑かれてしまったのか、それとも中学高校時代に日本の自然主義文学に馴染んでいなかった人だろう。
不幸な読み方であり、もう一度再読されることをお勧めする。
内容は典型的な教養小説、青春小説(ビルドゥングス・ロマン)であって、先輩芸人である師匠に、新人芸人である「僕」がいろいろ学ぶというものだ。
又吉さんは芸人なので、芸の世界はリアルに描かれている。
なぜエンターテイメントでなく文学なのか、なぜ直木賞ではなくて芥川賞なのかというと、観念的な芸論を、描写や会話やエピソードの中に象徴的に埋め込むのではなく、ストレートに先輩の言葉や「僕」の言葉、そして地の文の中に、観念的な芸論のまま、濃縮したままで書いているからだ。
これがいい。
ある主張を補強するための余計なエピソードや登場人物が出てこず、「思考の流れ」がそのまま描かれている、そのスピード感が読んでいて興奮する。
これが文学の味、文学ならではの楽しみだと思った。
それにしても警句、名言、卓見が多い。
少しだけ紹介する。
「平凡かどうかで判断すると、非凡アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで、反対に新しいものを端から否定すると、技術アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで、両方を上手く混ぜてるものだけをよしとするとバランス大会になり下がってしまわへんか?」
「笑われたらあかん、笑わさなあかん。って凄く格好良い言葉やけど、あれ楽屋から洩れたらあかん言葉やったな。あの言葉のせいで、笑われるふりが出来にくくなったやろ? あの人は阿呆なふりしてはるけど、ほんまは賢いんや。なんて、本来は、お客さんが知らんでいいことやん。ほんで、新しい審査の基準が生まれてもうたやろ。なんも考えずに、この人達阿呆やなって笑ってくれてたらよかったのにな。お客さんが、笑かされてる、って自分で気づいてもうてんのって、もったいないよな」
どうですか。
ぼくはどちらもギクリとした。
先輩が語る芸論を、「僕」は、そのまま受け止めることもあれば、違和感を感じて反論することもある。
地の文の中で、先輩と「僕」の違いについて延々と考え続けるところもある。
そこがスリリングだ。
繰り返しが多い、長い、という講評も多かった。
村上龍氏が「ジャズの長いインプロヴィゼーションのようだ」と言っている。
ナルホドとも思ったし、「ジャズの長いインプロヴィゼーションのようだ」なんて、貶されていてもどこかカッコいいような気がする。
ぼくはジャズの長いインプロヴィゼーション、ソニー・ロリンズがバックの中にソロをねじ込もうとしてブホッ、ブホッ、と何回か吹いてタイミングを計っているようなところも好きだから、村上氏の辛評も、ある種この小説の個性への賞賛だとも思った。
又吉さんはもちろん、先輩や「僕」や又吉さん自身の芸論、芸人の身に起こる様々なことを、全部ぶちまけてしまうまで小説を終われなかったのだろうと思うし、それにしてももっと工夫した書き方も出来ただろうとも思う。
でも、この繰り返しという形式そのものが、先輩や「僕」の浮上できない日々を象徴しているようで、ぼくには好ましい。
ぼくは中学、高校時代に筒井康隆を耽読して小説好きになったので、筒井が忌避しているような私小説、自然主義小説は自分も敵視していると思い込んでいた。
この小説はリアルな自然主義小説だし、芸人が芸人の世界を描いているので私小説であると言えなくもない。
(「僕」のモデルは自分ではないと又吉さんは語っているが、どうしようもなく「僕」の中に又吉さんがにじみ出ているようだ)
しかし、この小説は筒井康隆のような「言葉の遊び」「言語感覚の破壊」を伴っている。
それは登場人物が芸人であって、素の会話の中にナンセンスなギャグを挟んでいるからだ。
ぼくは冒頭部、先輩が熱海の花火大会で客に向かって「地獄、地獄、地獄、地獄、地獄…」と言い続けるところで感動した。
テレビで芸人が発するギャグのように、「火花」で先輩や「僕」が発するギャグも、面白いときもあれば、スベるときもある。
「スベっているギャグ」を表現しようとしてスベっているときもあれば、ほんらい又吉さんが読者を笑わそうとしてスベっているときも、どうしようもなくある。
しょうもない描写が延々と続くと、しょうじき心が離れそうになったし、「こういうところが付いていけない読者もいるんだろうなあ」と思った。
再びしかし、「あばたもえくぼ」で必死でフォローしているような流れになるが、これもまたテレビでリアルにウケたり、スベったりする又吉さんという芸人が、小説に格闘している1つの意義であるとも思える。
それに本当に面白いギャグも多数収録されている。
面白いのが先輩と「僕」の間に交わされるメールで、たまにぼくは声を出して大笑いした。
ということで、ネタバレ注意と書いていたにも関わらず、しかも「火花」をまだ読んでいないにも関わらず、どうせ読まないだろうからとここまで読んできたみなさんも、ぼくなんかが書いた以外にもいっぱい面白いことが詰まっているので、だまされたと思って是非ご一読をお勧めする。
特に何かを表現しよう、世に問おうとして鬱屈している人にはお勧めだ。
そんな彼が小説を書いたと言う。
1冊の本にしては短い、せいぜい中編の内容で、千円を超える本だったので、わざわざ買って読むほどではないと思った。
ぼくは若い頃から小説家になりたくて、漢字を練習する「二百字帳」に大長編小説の出だしを何個も書いたり、内田百閒や筒井康隆の小説を書き写したりしていたから、しょうじき嫉妬もあった。
芸人に面白い、芸術的鑑賞に堪える小説を書けてたまるか、という、ドス黒い気持ちも持っていたのだ。
その作品「火花」が芥川賞を受賞したと聞いて、ますます小物の自分のドス黒い気持ちは大きくなり、絶対に読むもんかと思った。
こうして文章にしてみると変な話であって、見ず知らずの芸能人なんかに真剣に嫉妬を感じるのは裏返しのミーハー根性である。
でもこういう気持ちになった、挫折した文学青年は日本中に多いのではないか。
その数日後、又吉さんが小説家の西加奈子さん、湊かなえさんと3人でテレビの「SMAP×SMAP」に出演した。
その中で、3人が、20字詰めの原稿用紙に、SMAPの5人をそれぞれ主人公にした小説を書けという企画があった。
湊さんが圧倒的で、SMAP一人ひとりを、20字の中で殺していく、人間の業を描いた物語を書いた。
西さんは過去のオシャレな小説から警句や名セリフを抜き出してSMAPに当てはめていくという方針で、少し逃げているな、と思った。
これは西さんが悪いのではなくて、この企画が難しすぎる。
そして湊さんが怪物すぎるのだ。
で、又吉さんだが、全然おもしろくなかった。
いわゆる雰囲気ギャグ、あるあるギャグで、ぼくは最近の若い人のこのノリを少しも面白いと感じないのである。
でも、それはこの企画が難しすぎるからしょうがないだろう。
問題は、又吉さんが原稿用紙の使い方をまったく分かっていなかったことだ。
句読点が行の真ん中でも他の字と同じマスに入ったりする。
シャンプーという言葉の「シャ」が同じマスに入ったりする。
きっと中学高校で作文の授業を真面目にやっていないのではないだろうか。
大人になってからの文章はワープロで書いたにしても、これはひどすぎる。
そう思って、ドス黒い気持ちのぼくは、ゲンナリしつつも、ちょっとホッとした。
それから、改めて彼の「火花」という小説に興味を持って、Amazonのレヴューを読みまくった。
絶対に彼の作品は大したことないだろうと思ったので、逆にミーハー的な関心を持ったのだ。
つくづくぼくは人間が小さく、性格が暗い。
性格が暗い人は何をやってもうまくいかないので、こういうところは直そうと思う。
Amazonのレヴュー欄には、多くの善男善女が★1つを付けて、思い思いに口を極めて彼の作品を罵っていた。
やっぱりそうなんだ。
そう思いつつも、あまのじゃく精神というか、ヤジウマ精神がぼくの中で頭をもたげてきて、ここまで言われる作品を読んでみたいと思った。
数日後、たまたま書店で「文藝春秋」を見つけた。
千円である。
又吉氏の単行本だけに千円以上を払うのは業腹だが、彼の作品の他に同時受賞作や公表、インタヴューも入っていて、他にもいろいろぎっしり記事が入っていて千円ならまあ買ってもいいかな、と思って買った。
「文藝春秋」とは、ふだんどんな人が買うんだろうか。
まあ政治的に保守寄りの、教養高い、お年寄りが買うんだと思う。
家にかえって、早速「火花」を読み始めた。
たちまち引きずり込まれてしまった。
「火花」は文藝春秋の中程のページに掲載されていて、作品の真ん中に老人ホームの宣伝と問い合わせハガキが綴じ込まれているのが邪魔でしょうがない。
ぼくは又吉さんの書く濃密な文章を、行きつ戻りつしながら読んでいたので、カッと来て老人ホームの広告を破り取った。
丁寧に破り取ったつもりだったが、広告の前の「火花」のページもちょっと破れてしまった。
ものすごくガッカリした。
何やってるんだ俺!
それでもすぐに、読書に戻り、再び「火花」の世界に引きずり込まれた。
結構長い小説なので、分けて読むつもりだったが、一読巻を置く能わざるというやつで、結局一気に読んでしまった。
読み終わったときは深夜で、すごくお腹が減っていることに気づいた。
次の日は所用で都心に出た。
「火花」を再読するために「文藝春秋」を持って出ようかと思ったが、余計な記事がいっぱい入っていて重いので、思いとどまった。
「文藝春秋」には他に、なぜか日航機墜落事故の美少女生存者の兄の手記(ポエム付き)というのも載っているのがどうかと思った。
「火花」だけ切り取って持って行こうかとも思ったが、ぼくは手先が不器用でロクな結果にはならないと思ったので、これもしなかった。
都心に向かう電車の中で、やっぱり「火花」が読みたいなーと思った。
こんな気持ちになるのは久しぶりだ。
iPhoneでAmazonのページを見ると、Kindle版があることが分かった。
結局1000円出してダウンロードして、そのまま読みふけった。
Kindle版でも読みやすい。
家に帰って、もう一度「文藝春秋」を取り出し、又吉さんのインタヴューと、審査員の講評を読んだ。
又吉さんのインタヴューは、面白いにはおもしろかったけど、もっと面白いことを言ってもいいのに、などと勝手な感想を持った。
「SMAP×SMAP」といい、突発的に文芸的かつ面白いことを、軽々しく言うタイプではないのかもしれない。
審査員の講評は面白かった。
ぼくは文学賞の審査員というと、筒井康隆の「大いなる助走」や、小林信彦の「悪魔の下回り」に出てくる魑魅魍魎のような作家どもを想像していたが、そんなことはなくて、みな真摯に、深い配慮を持って、「火花」や他の作品を褒めたり改善点を提案したりしている。
ぼくは「火花」を褒めている評を見つけるとニコニコし、貶している評を見ると「ううん、ここはやはり改善した方がいいのかなー」などと考え込んだ。
完全にただのファンである。
「火花」の中で、ぼくがどうかと思った点をするどく衝いている作家もいて、「やっぱりそうだよなー」とも思った。
それにしても、一人も嫌なことを書いている作家がいないのには感心した。
「文学賞の審査員講評」という文章のジャンルも、昔と今では違っていて、今はとにかく人の評判が気になる社会なので、より洗練されているのかもしれないが、小説家又吉さんへの愛あるエールがあふれていて、感動した。
ここ数日も熱が醒めやらず、iPhoneで「火花」を少しずつ拾い読みしたり、感心した文章をマーカー機能で着色したりしている。
ここまで読んで気になった人は、ぜひ審査員の講評を読まず、Amazonのレヴューも、あとこのブログ記事の後半も読まないで、「火花」をご一読することをおすすめする。
気に入らなかったらゴメンナサイ。
千円札1枚捨てたと思って、一読する価値はあると思う。
以下、行を変えてネタバレの感想を書く。
★
★
★
以下ネタバレ。
警告したからな!
まず「文章が生硬である」「文学ぶっている」「余計な装飾が多い」という批評がある。
それは確かに感じられ、特に冒頭の部分のような、風景を描写している部分に顕著である。
これは、作者が自分が「読書キャラ」「文学キャラ」であることを逆手に取って、文学、特に日本の明治以来の自然主義文学のオマージュというか、何ならパロディをやって見せているのであろう。
ファンサービスだ。
ここは「文学的か!」「巨匠か!」というツッコミを入れるべきところである。
それをわざわざ気にして、Amazonのレヴューに書いてしまうほど気に病んでしまうと言う人は、冒頭だけ読んで違和感に取り憑かれてしまったのか、それとも中学高校時代に日本の自然主義文学に馴染んでいなかった人だろう。
不幸な読み方であり、もう一度再読されることをお勧めする。
内容は典型的な教養小説、青春小説(ビルドゥングス・ロマン)であって、先輩芸人である師匠に、新人芸人である「僕」がいろいろ学ぶというものだ。
又吉さんは芸人なので、芸の世界はリアルに描かれている。
なぜエンターテイメントでなく文学なのか、なぜ直木賞ではなくて芥川賞なのかというと、観念的な芸論を、描写や会話やエピソードの中に象徴的に埋め込むのではなく、ストレートに先輩の言葉や「僕」の言葉、そして地の文の中に、観念的な芸論のまま、濃縮したままで書いているからだ。
これがいい。
ある主張を補強するための余計なエピソードや登場人物が出てこず、「思考の流れ」がそのまま描かれている、そのスピード感が読んでいて興奮する。
これが文学の味、文学ならではの楽しみだと思った。
それにしても警句、名言、卓見が多い。
少しだけ紹介する。
「平凡かどうかで判断すると、非凡アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで、反対に新しいものを端から否定すると、技術アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで、両方を上手く混ぜてるものだけをよしとするとバランス大会になり下がってしまわへんか?」
「笑われたらあかん、笑わさなあかん。って凄く格好良い言葉やけど、あれ楽屋から洩れたらあかん言葉やったな。あの言葉のせいで、笑われるふりが出来にくくなったやろ? あの人は阿呆なふりしてはるけど、ほんまは賢いんや。なんて、本来は、お客さんが知らんでいいことやん。ほんで、新しい審査の基準が生まれてもうたやろ。なんも考えずに、この人達阿呆やなって笑ってくれてたらよかったのにな。お客さんが、笑かされてる、って自分で気づいてもうてんのって、もったいないよな」
どうですか。
ぼくはどちらもギクリとした。
先輩が語る芸論を、「僕」は、そのまま受け止めることもあれば、違和感を感じて反論することもある。
地の文の中で、先輩と「僕」の違いについて延々と考え続けるところもある。
そこがスリリングだ。
繰り返しが多い、長い、という講評も多かった。
村上龍氏が「ジャズの長いインプロヴィゼーションのようだ」と言っている。
ナルホドとも思ったし、「ジャズの長いインプロヴィゼーションのようだ」なんて、貶されていてもどこかカッコいいような気がする。
ぼくはジャズの長いインプロヴィゼーション、ソニー・ロリンズがバックの中にソロをねじ込もうとしてブホッ、ブホッ、と何回か吹いてタイミングを計っているようなところも好きだから、村上氏の辛評も、ある種この小説の個性への賞賛だとも思った。
又吉さんはもちろん、先輩や「僕」や又吉さん自身の芸論、芸人の身に起こる様々なことを、全部ぶちまけてしまうまで小説を終われなかったのだろうと思うし、それにしてももっと工夫した書き方も出来ただろうとも思う。
でも、この繰り返しという形式そのものが、先輩や「僕」の浮上できない日々を象徴しているようで、ぼくには好ましい。
ぼくは中学、高校時代に筒井康隆を耽読して小説好きになったので、筒井が忌避しているような私小説、自然主義小説は自分も敵視していると思い込んでいた。
この小説はリアルな自然主義小説だし、芸人が芸人の世界を描いているので私小説であると言えなくもない。
(「僕」のモデルは自分ではないと又吉さんは語っているが、どうしようもなく「僕」の中に又吉さんがにじみ出ているようだ)
しかし、この小説は筒井康隆のような「言葉の遊び」「言語感覚の破壊」を伴っている。
それは登場人物が芸人であって、素の会話の中にナンセンスなギャグを挟んでいるからだ。
ぼくは冒頭部、先輩が熱海の花火大会で客に向かって「地獄、地獄、地獄、地獄、地獄…」と言い続けるところで感動した。
テレビで芸人が発するギャグのように、「火花」で先輩や「僕」が発するギャグも、面白いときもあれば、スベるときもある。
「スベっているギャグ」を表現しようとしてスベっているときもあれば、ほんらい又吉さんが読者を笑わそうとしてスベっているときも、どうしようもなくある。
しょうもない描写が延々と続くと、しょうじき心が離れそうになったし、「こういうところが付いていけない読者もいるんだろうなあ」と思った。
再びしかし、「あばたもえくぼ」で必死でフォローしているような流れになるが、これもまたテレビでリアルにウケたり、スベったりする又吉さんという芸人が、小説に格闘している1つの意義であるとも思える。
それに本当に面白いギャグも多数収録されている。
面白いのが先輩と「僕」の間に交わされるメールで、たまにぼくは声を出して大笑いした。
ということで、ネタバレ注意と書いていたにも関わらず、しかも「火花」をまだ読んでいないにも関わらず、どうせ読まないだろうからとここまで読んできたみなさんも、ぼくなんかが書いた以外にもいっぱい面白いことが詰まっているので、だまされたと思って是非ご一読をお勧めする。
特に何かを表現しよう、世に問おうとして鬱屈している人にはお勧めだ。