※7/27〜8/3まで本ブログはお休みをいただきます。復活は8/4(火)になります。

またデモの話。

 0 La Liberté guidant le peuple - Eugène Delacroix
初めて海外旅行に行ったようなもので、1回デモに行ったぐらいですっかりデモ通というかデモかぶれになってしまって、その話ばかり語ってしまうのも馬鹿みたいだが、実際いろいろ語りたいのはそういう時だし、そういう時の語りには熱があるとも思うので、まあ語らせてください。

反省

1回行って雰囲気が分かったいま、いろいろ反省点がある。

今回7/16、17、18と3日連続で国会前行動があったのだが、結局16にしか行かなかった。
最初の1回で張り切りすぎて、くたびれてしまったのだ。
ぼくのようなアマチュア市民、デモの一見さんにはそういう人も多かったんじゃないか。

日本の国法が「政治家によるクーデター」とも言われる憲法無視で変わるとも言われている。
そんな非常時、お国の一大事だから、ここは何はさておき参加すべきだとも思う。
でも一方で、デモなんて仕事でもなく、家事でもなく、趣味でもないことだから、他のことを圧迫しないように無理のない範囲で参加すべきだとも思う。
いま思えば時間を変えて2時間ずつ3日とも参加するとか、ペースを掴んで無理なく無駄なく参加すれば良かった。

あと、ぼっちは精神的にツライので、いくら友達がいないと言っても、だれか一人でも連れて行くべきだった。
それが無理でも、現地で見知らぬ誰かに話しかければ良かった。
特に、ぼくのようなぼっちのジジババが所在なげにしているエリアがあったので、お互い話しかけて連帯すれば良かった。

警察と場所取り

一番後悔したのが場所取りである。
今回警察による変なロープ指揮と場所誘導があったが、いま振り返ってみると明らかに反デモ的な動きで、国会から遠い方へ、遠い方へ誘導されていた。

ぼくは普段から警察がいてくれて、暴力や悪事から我々弱者を守ってくれてありがとうと思っている。
そんなだから、今回も最初からロープが整然と引かれていて、ソフトな口調で事務的に誘導されたので(DJポリス的な人はいなかった)つい従ってしまった。
警察がアンチデモ勢力で、妨害行為を行っているということは(考えたら当たり前だ!)後半になってようやく分かったのである。

ことさら好んでおまわりに突撃したりしなくてもいいが、とりあえず迷わずにズンズン国会前に進む。
その方が効率的だった。
まあ「どこが国会前か」も知らなかったからなー。

それにしても警察の人のおためごかし感、いかにも良いひとっぽい誘導は今考えるとコワい。
ぼくがおまわりの立場だったらとてもあんな風にしれっとは出来ない。
若くて美しい婦警さんも平然とウソ誘導をやっていたのである。
権力が国民をある方向に誘導する時、最初から暴力的に行うという偏見があったが、実際にはあくまで笑顔で、こちらのためを思ってますよ顔で行うということが分かった。

実際の人数

さて、今回話題になったのは参加人数で、ぼくが行った16日は、主催者側発表では10万人、警察側発表では5千人という。
いかにも開きがあって、百田尚樹さんなどがしきりに主催者側がウソをついているという話をしている。

デモの参加人数は警察側と主催者側で必ず開きがあり、60年安保も主催者側発表は33万人、警察側発表は13万人と言っていた。
前者はなるべく多く言いたい、後者はなるべく少なく言いたいのは当然だ。

2015年7.16国会前行動においては、その比が20倍である。
60年安保においてはその比が2.5倍であったから、いかにも2015年は開きが大きい。
でも、比ではなくて差を取ってみると、2015年が95000人で、60年安保が20万人である。

ていうか、これ、数え方の問題ではないか。
デモの参加者ってどうやって数えるんだろう。
ある地点の前を通り過ぎた人の延べ人数を数えるのか。
それとも中心部にびったり埋まっていた人の瞬間最大面積を数えるのか。

あと、上に書いた警察の誤誘導が大きい。
ぼくが回ってみた感じでは、どんどん新しい人が増えてきたが、新しい人は中心部に入れてもらえずに拡散していた。
あと、ぼくのように最初は中心部にいたけどトイレなどの関係で離れた人が、再度中心部に入れてもらえずに散っていった場合もあった。
(ぼくは再度中心部にもぐりこんだけど、そうとう警察の横を強引にすり抜ける必要があった)
デモ初心者の中には、国会とはかなり離れた警視庁の周りあたりをぶらぶら歩きながら、下を向いて小さな声でシュプレヒコールを唱えていた人もいた。
こういう人は警察側は数えないだろうし、主催者側も数えていたかどうか分からない。
とりあえずすごくいっぱい人がいたのである。

デモに行ったら人生に影響する?

さて、ネットにはFUDというか恐怖デマというか、いろいろな情報がある。
今回も「デモに行くと顔を写真に取られ、公安に付け狙われる」とか、「デモに行くと大会社の就職試験で落ちる」という人がいる。
ぼくなんかは人生あらかた過ごしてしまって、これから大企業に就職する予定もないので平気だけど、若い人はそう言われると心配だろう。
とりあえず、ぼくはデモに参加している社長を複数人知っているから、何ならそういう人の会社に入ればいいのではないだろうか。

ぼくは全然くわしくないが、そんなことで就職に影響してはならないし、実際しないのではないだろうか。
まず外資系であれば大丈夫そうだし、日本の企業の大部分を占める中小企業でも大丈夫だと思う。
大企業や軍需産業ではコストを掛けて調べる企業もありそうだが、逆にそんな企業は就職する方で願い下げだという考えもあるだろう。

ヤジウマ的にネットを見ていると、巨大掲示板に「社会に反抗するのだから社会の庇護を受けられないのは当たり前」などと堂々と書いている名無しさんがいた。
ちょっとすごいね。
この名無しさんがどこまで高い社会的地位と責任を持っているか分からないが、ぼくはこの投稿を読んで「社会とは何か」ということを考えた。
以前「就職氷河期」について描かれたドキュメンタリーで、バブル入社とおぼしき年齢の面接担当官が「シャカイって言うのはそんなに甘くないんだよ」などと言っていたのも思い出す。
この「社会」というのは明らかに「大きすぎる主語」で、ぼくや名無しさんや面接担当官が、その代表を名乗るのは明らかに大言壮語で無理がある。

デモの参加者ひとりひとりは、みな社会の一成員である。
参加したらその人はただちにアウトローであって、シャカイの敵であるから監視すべきだし、庇護すべきではないという風に、日本社会が形成されているなら(されていない、とぼくは思っているが)そんなシャカイは明らかに間違いであるから変えるべきだ。
百歩譲って間違った社会は間違った社会なりにみんなが決まりを守って行動しているのだから、その決まりの中で大人しく生活すべきだと思う人がいたとしよう。
でも、そうやって大人しく旧来の社会の同調圧力につき従った結果、社会が大きく悪い方向に傾くのを看過したら、就職試験で落ちる以上の大災厄が自分の身に降りかかることになるかもしれない。

日本は間接民主主義だから、あくまで一国民が政治に参加するのは選挙の時だけだろうか。
でも市民運動や勉強会、住民投票、政治献金、支援パーティなどの形でバンバン参加している市民もいて、それは市民の権利である。
それに、憲法違反であると憲法学者が揃って言っている法案を強引に通そうとしている政治家たちは、社会の一員として大人しく規則を守っていると言えるだろうか。