父方の祖父は従軍画家という仕事で、満州に渡って現地で日本軍が無事に戦っているところを油絵に描く仕事をしていた。
戦後日本に渡り別府市で希望の家という戦災孤児を引き取る施設をしていたそうだ。
今もJR日豊本線に「希望の家踏切」という名前として残っているそうだ。
浜脇あたりらしい。
見に行ったことはない。

Kilmore Quay St Peter's Church Window I Shall Make You Fishers of Men 2010 09 27
去年、このブログで「津」について研究するときに、ついでに松坂に行って和田金の一切れ二千円のすき焼きを食べてきた。
その時祖父の絵を飾っている「本居宣長神社」を訪れた。
その時の話はこのブログに書いた。

父は祖父から絵の才能を受け継いだらしく、さらさらと絵を書く人だった。
本業も商業美術と行って、お店などのエクステリア(看板などの意匠)を作る仕事をしていた。
趣味でバイオリンをやったり、素潜りで海に入ってゴム銃で魚を獲ったり(こんなことを書いているとウソだと思われるが、誓って本当の話です)、ボクシングをしたりしていた。
どの才能も受け継がなかったのが残念だ。

父の仕事の種目のうち、最も大きな部分を占め、しかも、日本でひょっとして父しかやっていなかったのではないか、父以前も父以後も出てこないのではないか、というものが「セロハン加工」である。
他にやってる人を見たことがないし聞いたこともない。
簡単に検索しても見つからない。
ただ、筒井康隆のサラリーマン時代の日記の中で「セロ加工(※セロハン加工のこと)」と書いてあるのを見たような気がする。
別に普通の技術だったらスミマセン。

今日はこのセロハン加工という失われた日本の匠の技について書く。

パチンコ屋さんは、風営法上中が見えないようになっている。
そこで、ガラスに何らかの細工をする。
今は模様の入ったすりガラスを使ったり、黒いガラスを使う場合が多いようだ。
当時も、父が仕事をしていない店では「既成品」と言って花模様が入ったシートを貼っていた。
父の場合は「セロハン加工」をしていた。

これは、赤、緑、青、黄色などの色付きのセロハンをガラスに貼る。
貼るためにはニカワをお湯に溶かしたノリを使うが、防腐剤に安息香酸塩を入れていたようだ。
企業秘密と言っていたが、もうやっている人がいないので公開してもいいだろう。
セロハンをガラスに貼っても何のことか分からない。
この時点ではスクリーンを用意したのと同じである。

このセロハンの反対側から設計図(デザイン)を貼って、その線に沿ってアートナイフでセロハンに傷をつける。
設計図を使わないで即興で描いていたこともあった気がする。
で、乾かないうちにピッ、ピッとセロハンを剥がしていく。
ステンドグラスのような絵が出来る。
お店の名前や意匠を書き込むことも出来る。

これがセロハン加工で、要はセロハンを使ってガラスの表面に絵を描く作業である。

何回か見に行ったことがあるが、絵も美しいが作業も見ものだった。

父が作業をすると、最初は何をやっているか分からない。
だんだん絵を描き始めると、商店街の人が集まってくる。
で、ピッピッとセロハンを剥がすクライマックスの場面になると「へぇー!」「あんなふうにやるんだねえ」と声が飛ぶ。
最後、絵が完成すると「うおー!」「うおー!」と歓声が湧く。
ぼくは子供心に自慢だった。

もうその技術を受け継ぐ人もいないのではないか。
ぼくはとりあえず受け継いでいない。
この話をさいきん人にすると、結構感心されたので、あらためてブログに書いてみた。
輪島塗りや、鎌倉彫りのような技術ではないが、こういう失われた技術を持っていたアーティストって、日本中に他にもいたのではないだろうか。