タイトルが釣りっぽくなってしまったが、世間の大人の人の、苦労すれば苦労するほど偉い、俺は苦労しているから偉い、他にやつにももっともっと苦労をさせるべきだ、という感覚はどうかならないものだろうか。

Trusting child
必要以上の苦労なんて少しも薬にならないと思うのである。
同じ成果を上げるなら少しでも楽にやった方がいい。
残っている元気や時間で次の仕事の予習をしたり、趣味にいそしんで自分の教養や人間性を高めたり出来るのである。
ぼくはそう思っているが、世間には、仕事や勉強の成果ではなく、いかにそのために苦労したか、人生を犠牲にしたかを尊ぶ人が多い。
これがぼくには理解できない。

よく言われるのが、サラリーマンの残業自慢、寝てない自慢である。
あれが止まない限り、いわゆるブラック企業はなくならないと思う。
ブラック企業に虐げられている自分を誇らしいと思い、自分の後輩たる若い社員にもその風潮を押し付けようとする。
学校の部活動のしごきにも通じる。
知り合いの女の人が、お付き合いしている男性の家に挨拶に行ったとき、男性の母親に「あなたもお嫁さんに来たら10年は遊んだり出来ない覚悟をなさい、私もそうだったんだから」と言われて震え上がったそうだ。
それで結局そのお付き合いは沙汰止みになって、彼女は変な家に結婚せずに済んだので、ある意味そのお母さんは良心的だったと言えなくもないのだが、「自分は嫁として苦労したんだから、息子の嫁も苦労するべきだ」というのはよく分からない理屈である。
嫁が苦労すれば何かいいことがあるんだろうか。
嫁が苦労するのを見たらうれしいから?
であれば倒錯したサドマゾ気質だと思うのである。
自分が苦労してきたから同じような苦労を次の世代にはさせたくない、そのぶん世の中を楽しく明るくして欲しいと思うのが建設的ではないだろうか。
運動部のシゴキなどもそうである。
先輩から後輩へ、いやな気持を継承するのは不幸である。

部活動ではなくて本課の教育もそうだ。
今の若者は「ゆとり教育」で甘やかされているからダメだ、もっと厳しくすべきだと言う。
でもそう言ってる人がどれだけ厳しい教育を受けて、その教育の結果を今に生かしているか不明である。
もし自分が受けた教育の結果に満足しているのであれば、俺が若い頃の先生は厳しかった、もっと若者を厳しくしごくべきだなどという発言は出てこないはずだ。
「勉強は楽しかった」、「学問は面白い」という発想がまず出て来るべきだ。
勉強の辛さ苦しさそれ自身を良きものと思うサドマゾ根性はあまり学問というものの本分にかなっている気がしない。
知的な感じがしないのである。

ここまでが時間的な「俺の若いころは苦しかった」、「今の若い人は甘やかされてるからもっと苦しくなれ」という時間的なサドマゾ気質である。
サドマゾ気質には他に、同じ時代に生きている自分より楽をしている人を糾弾するものもある。

たとえば生活保護叩きである。
マイナンバー制度が施行されようとしているが、市民にアピールする導入の理由の一つが生活保護の不正受給の防止であるという。
いったい生活保護を受けている人が市民の何パーセントなのか。
うちの何パーセントが不正受給されているか。
調べたが、人口の1.6%が生活保護を利用していて、うちの0.4%が不正受給だという。
不正がどれだけ捕捉できているのかという問題もあるが、逆に受給される資格があっても捕捉されていない人がいる。
日本の生活保護の捕捉率は2割ほどで、ドイツの捕捉率は6割に達し、利用率は9.7%である。

生活保護Q&Aパンフ - seikatuhogo_qa.pdf

こういう数字がテレビではなかなか出てこない。
家族が不正受給されていた芸人などが袋叩きにされている。
あんなにレアケースを叩いて世論を醸成する必要があるのだろうか。
政治家が「生活保護を受けるのはまず恥ずかしいという意識を持て」などと言っている。
なぜ市民が権利を行使するのに政治家に内心の自由を脅かされなければならないのだろうか。
でも、なぜ政治家がこういう言辞を弄するかと言えば、それは、その方が庶民ウケがいいからである。
僅かな不正受給の金額が社会問題であるはずはない。
弱者を叩くと嬉しがるという庶民の倒錯した心理に訴えている。

外国にサーバーがあるアマゾンの電子書籍(Kindleストア)が消費税を取っていないという話がある。
日本の出版社は猛抗議して、アマゾンからも消費税を取れと言った。
でも日本の出版社は「俺達からも消費税を取るな」と言えばいいのではないだろうか。
(本からの消費税が軽減される国としては、たとえばフランスがある)

同じ会社に自分よりも給料が高い奴がいたとする。
この場合、「自分の給料もあいつ並みに上げろ」と主張するのが普通であって「あいつの給料を下げろ」とは普通言わない。
人の給料が下がってもうれしいことは一つもない。
むしろ人の給料は上がったほうがうれしいと思う。
その人は自分よりも重い責任を負ってくれそうだし、飲みに行ったらおごってくれそうだ。
社会的にも企業が金を貯めこまないで高い給料を払ったほうが景気は良くなり、まわり回って自分の暮らし向きも良くなる。
ところが、世間では、公務員の給与を下げろ、という主張はあっても、民間の給与を上げろ、という主張はない。
これが不思議でしょうがない。

小泉さんという人が大人気で総理大臣になったとき、「痛みを伴う構造改革」と言っていた。
この言葉の意味が、誰がどう痛みを負うのかよく分からなかったのだが、わからないなりに「不景気なんだから痛みなんかない方がいいのではないか」と思っていた。
しかしこの「痛みを伴う」という響きが、日本人にはウケるのである。
(外国人がどうか知らないけど)
誰か、余計に楽をしている人に小泉さんが痛みを与えて懲らしめてくれるのではないかと思う。
自分が多少痛みを食らっても、改革のために自分が痛みを受けるのなら、耐えましょう、と思う。
でもその痛みが本当に避けられないのか、そしてどの程度の痛みなのか(痛みの厳しさに耐えられずに死んでしまう人はいないのか)をまず検証するべきだ。

目的に向かって努力していれば辛いことぐらいあるだろう。
でも目的に近づけば努力は辛くなくなってくるし、達成されれば苦しさなど忘れているのが普通である。
しかし苦しみ自体を良きものだとするのは倒錯であって、そういう観念にとらわれている人は自分を見つめなおしたほうが良い。