裁量労働制とか、残業代ゼロ法案とかいわれる、ホワイトカラー・エグゼンプション法案が取りざたされている。
これは、
・高度なプロフェッショナルで収入が多い人が対象になる
・働いた時間ではなくて働いた実績に比例してお金が支払われる
・いつ出社していつ退社してもいいようにする
・そのかわり年俸制で残業代は出ない
という労働の仕方のバリエーションで、
・日本の労働者が残業のし過ぎ、休日出勤のし過ぎで過労死しそうなので、労働時間を抑制するために残業代が出ないようにしたい
・労働時間に対してお金を出すようにすると、ダラダラ会社にいて何も仕事しない人が得をして、チャッチャと仕事を終える人が損をする仕組みなので、改めたい
・日本の企業を経営している人は労働者を安い賃金でこき使いたいので、残業代を出さないようにしたい
といういくつかの目論見が考えられる。
昨日放送していたNHKテレビの日曜討論で甘利経済再生担当大臣が言っていたことには、
・年収1000万円を超える人が裁量労働を選べる
・裁量労働にするかどうかは働く人が選べる
・だからいわゆるブラック企業優遇ではない
ということだ。一方で懸念する立場の学者の人は
・すでに経済界から、1000万円ではなくて500万円にしろという声が出ている
・500万円だと平均賃金とだいたい同じだから事実上の残業代ゼロ法案になってしまう
・もし裁量労働制にするなら有給休暇の強制取得、最低賃金の底上げと三位一体で行うべき
という意見だった。
さて、ぼくは昔、ものすごく忙しい会社に務めていて、以下のすべてのパターンを経験した。
・残業代が出る契約で残業代をもらっていたこと
・残業代が出る契約で残業代を(自分の判断で)もらわなかったこと(いわゆるサービス残業)
・残業代が出ない契約で働いたこと
ということでここで、サラリーマンにとって残業とは何か、本来どうあるべきかを考えてみようと思う。
SEの人から仕様書をもらって、プログラムを書く。
バブル最盛期であり、ゼネコンからバンバン仕事が入ってきた。
会社は不夜城で、誰もがずっと働いていた。
この時代は本当に働くだけ残業代が出た。
毎月ボーナスぐらいの金額をもらっていたのだ。
毎日午前2時まで働き、会社の近所の銭湯に行く。
超・都心に会社があったのだが、近所に銭湯があるなんて知らなかった。
銭湯は午前2時にもサラリーマンでそこそこ混んでいる。
どんな仕事の人がこんな時間に銭湯に入ってるんだろう・・・と思って話に聞き耳を建てていると「VSAMがクラッシュして・・・」とか言っている。
同業者だったのだ。
それから夕食、ということもあった。
1日5食目か6食目である。
たいてい焼肉屋に行った。
このときに肥満の礎石を作った。
この時代に、給料の20%でも貯めていたら、今頃は大富豪になっていたと思う。
こういうお金は貯まらない。
会社に泊まりこんでいるから、パンツやワイシャツ、靴下がなくなる。
会社の近所のコンビニに行くと、良くしたものでパンツとワイシャツ、靴下のセットが3千円とかで売っているのである。
そんなのを毎日買って、焼肉屋に行っていたらお金もたまらないよ。
生活が荒れてくるのだ。
毎日タクシーで家に帰っても、その当時はタクシー代が出たのだが、片付けるヒマもなくてゴミ屋敷みたいな家に寝るために帰るためにタクシーを使うのもばかみたいだから、会社に泊まっていた。
最初は応接室のソファーで寝ていたのだが、誰かがマシン室にマットレスを置いて、それで寝たりした。
マシン室は埃っぽくて、そのうち気管支炎になった。
バカである。
良い子は真似をしないで下さい。
ぼくは独り者なので、こういうバカみたいな働き方で、バカみたいなお金の使い方をしていた後に、ある日急に仕事がなくなっても、それはそれで給料に合った暮らしぶりに縮小すればいいだけだ。
危険なのは家庭を持っている人が、毎月ボーナスみたいな残業代を当て込んでいい家を買ったり、いい学校に子供を入れる場合である。
その人は「毎月一定の残業代が発生すること」を前提に仕事をすることになる。
これを「生活残業」と言う。
当時の会社でも「生活残業は認められません」と厳しく言われていたが、厳しく言われて当然だ。
残業というのは読んで字のように、やるべき仕事が予定した時間よりも終わらなかったから、非常手段として会社に残ることだ。
その手当、迷惑料として会社から出るのが残業代だ。
あらかじめ残業を前提にした労働契約というのは本来ありえない。
休むのも仕事のうちである。
一定時間寝て体を休めないと体がメンテ出来ず、いいパフォーマンスが出せない。
家庭サービスもしないと、子供が病気になったり、グレたりして、ますます仕事に身が入らなくなる。
それに、ロボットには出来ない人間ならではの仕事、その人ならではの仕事をするためには、ある程度文化的な趣味を持って、教養も高めなければならない。
24時間働けますか、というCMが当時あったが、24時間働く人がもしいても、なかなか人間らしい仕事は出来ないのではないか。
でも、働いた分だけ残業代を出す会社は良心的だったし、別に文句も言わないで会社に泊まりこみで働いていた。
バカみたいな人生だが、楽しかったのである。
当時の自分を否定したいとは思わない。
青春のいい思い出である。
またやりたいとは絶対に思わないが…。
上記の残業代もらえる会社で働いていたとき、ぼくは100パー時間に対して報酬を貰っていたことになる。
一方会社は成果に対してお金をもらっていた。
「このプロジェクトは残業が多くて赤字だった」とか、プロジェクトリーダーが「ポストモーテムレビュー(プロジェクトの後に行う振り返りの会議のこと)で言っていた。
もしすべての労働者が成果に対して報酬をもらったらどうなっただろうか。
この「成果の量」というのが、当時やっていた仕事については計りにくい。
いわゆるSEの人が、このプログラムは3時間で書いてよ、と言ってくる。
たとえ2千ステップに収まったとしても、いろいろ結構難しくて、まる1日掛かってしまうこともままある。
この場合、当初の見積もり通りの報酬だと、困る。
だから、会社から顧客へは成果で請求するけど、下っ端労働者から会社へは時間あたりでということになる。
さらに最低の基本給は出して欲しいと思う。
トンネル工事を例に取ろう。
作業量は穴の大きさでほぼ決まる。
でも、いざ穴を掘って見ると、固い岩にぶち当たったり、思わぬところから水が出たりする。
だから、いくらぐらいの金額でどれぐらいの工期でやりますよ、と見積もるにはある程度のリスクを見込む必要がある。
会社はある程度余裕があるから、リスクも見込んで成果主義で請け負うだろう。
一方下っ端の社員は余裕がない。
だから月々一定のお手当はもらいたいし、多く働いたらそのぶん残業代が欲しい。
労働者に成果主義を持ち込む、ということは、労働者もある程度経営者感覚で仕事に望め、ということだろう。
当然、人よりも早く仕事が終われば、とっとと帰っていい。
その代わり「この仕事終わらせますよ」と引き受けた以上は、何時間掛かろうと同じお駄賃で働け、ということである。
このためには、作業量が正確に測れること、作業時間が事前に正確に見積もれることが必要になる。
ぼくの場合は、平社員レベルではこの見積りがムリだった。
いま検討されている制度が、高度なプロフェッショナルに限られているのもそこに鍵がある。
どうするかというと、タイムカードを手書きで書く。
いわゆるブラック企業のサービス残業というのは、上司が社員に対して、17時に「お前ら今タイムカードを押して来い。でも退社はせずに22時まで働け」とか言うものだと思うが(???よく知らない???)ぼくが関わった会社はいい会社で、そういうケースはなかった。
サービス残業は自主的に、勝手にやっていたのだ。
なぜかというと、残業が常態化すると、ダラダラ仕事をするようになって、とても定時には終わらないからだ。
だから残業になるが、残業代を請求するのは申し訳ないので、定時代だけもらう。
勝手に裁量労働制を取り入れていたようなものだ。
これは良くない。
でもこういう人は結構多かったと思う。
だから「サービス残業を強制するブラック企業とそれに苦しむ庶民」と言う単純な図式ではない。
それにしても残業は良くない。
「ピープルウェア」という本に書いてあることだが、残業をすればするほど生産性は下がるそうだ。
8時間労働で100の仕事が出来るはずだったとしよう。
16時間働いても、とても200の仕事は出来ない。
せいぜい150の仕事しか出来ない。
ところが、そのうちそれでは終わらなくなる。
なんと16時間働いても80の仕事しか出来なくなってしまうそうだ。
本当だろうか。
理由は、「どうせ明日も残業するから必ず仕事は終わる」という頭があるので、加速度的にダラダラ仕事をしてしまうそうだ。
確かにいろいろ思い当たるフシがある。
でも、自信を持ってそうだとも言いきれないのは「成果とはなにか」が、なかなか計測できないからだ。
作家であれば枚数が成果になる。
漁師であれば漁獲高が成果になる。
でも、都会のサラリーマンはそれがなかなか分からない。
とりあえずプログラマーは測定が難しいし、営業社員であっても訪問件数が成果なのか、成約件数が成果なのか。
学校の教師の場合、問題児が1人いたり、顧問の部活が県大会で優勝したりしたら、労働時間は跳ね上がると思う。
(学校の先生って残業代出てるのかな?)
このリスクが読みきれないと、平社員に労働時間を裁量させるのは難しいと思う。
アメリカであっても、ホワイトカラー・エグゼンプションを取り入れると労働時間は伸びたそうだ。
とりあえず甘利大臣の言うように、よほどの高額所得者が自分の意志で取り入れるのでないかぎり、取り入れるのは危険がある。
会社員が疲弊して死んでしまったら、会社も潰れてしまうから、経営者、財界の人もそのへんよく考えたほうがいいよ。
現状のシステムであっても「休むのも仕事だから仕事が終わってないけど定時で帰る!」と、平社員の立場で「判断」するのは難しい。
むしろ「強制休養時間制」具体的に言うと定時が来たら会社の電源を切ってしまうような仕組みが必要だろう。
それでかえって業績を伸ばした会社もあるそうだ。
・高度なプロフェッショナルで収入が多い人が対象になる
・働いた時間ではなくて働いた実績に比例してお金が支払われる
・いつ出社していつ退社してもいいようにする
・そのかわり年俸制で残業代は出ない
という労働の仕方のバリエーションで、
・日本の労働者が残業のし過ぎ、休日出勤のし過ぎで過労死しそうなので、労働時間を抑制するために残業代が出ないようにしたい
・労働時間に対してお金を出すようにすると、ダラダラ会社にいて何も仕事しない人が得をして、チャッチャと仕事を終える人が損をする仕組みなので、改めたい
・日本の企業を経営している人は労働者を安い賃金でこき使いたいので、残業代を出さないようにしたい
といういくつかの目論見が考えられる。
昨日放送していたNHKテレビの日曜討論で甘利経済再生担当大臣が言っていたことには、
・年収1000万円を超える人が裁量労働を選べる
・裁量労働にするかどうかは働く人が選べる
・だからいわゆるブラック企業優遇ではない
ということだ。一方で懸念する立場の学者の人は
・すでに経済界から、1000万円ではなくて500万円にしろという声が出ている
・500万円だと平均賃金とだいたい同じだから事実上の残業代ゼロ法案になってしまう
・もし裁量労働制にするなら有給休暇の強制取得、最低賃金の底上げと三位一体で行うべき
という意見だった。
さて、ぼくは昔、ものすごく忙しい会社に務めていて、以下のすべてのパターンを経験した。
・残業代が出る契約で残業代をもらっていたこと
・残業代が出る契約で残業代を(自分の判断で)もらわなかったこと(いわゆるサービス残業)
・残業代が出ない契約で働いたこと
ということでここで、サラリーマンにとって残業とは何か、本来どうあるべきかを考えてみようと思う。
残業代をもらって働く
一番忙しかった会社はいわゆる下流IT的な会社であった。SEの人から仕様書をもらって、プログラムを書く。
バブル最盛期であり、ゼネコンからバンバン仕事が入ってきた。
会社は不夜城で、誰もがずっと働いていた。
この時代は本当に働くだけ残業代が出た。
毎月ボーナスぐらいの金額をもらっていたのだ。
毎日午前2時まで働き、会社の近所の銭湯に行く。
超・都心に会社があったのだが、近所に銭湯があるなんて知らなかった。
銭湯は午前2時にもサラリーマンでそこそこ混んでいる。
どんな仕事の人がこんな時間に銭湯に入ってるんだろう・・・と思って話に聞き耳を建てていると「VSAMがクラッシュして・・・」とか言っている。
同業者だったのだ。
それから夕食、ということもあった。
1日5食目か6食目である。
たいてい焼肉屋に行った。
このときに肥満の礎石を作った。
この時代に、給料の20%でも貯めていたら、今頃は大富豪になっていたと思う。
こういうお金は貯まらない。
会社に泊まりこんでいるから、パンツやワイシャツ、靴下がなくなる。
会社の近所のコンビニに行くと、良くしたものでパンツとワイシャツ、靴下のセットが3千円とかで売っているのである。
そんなのを毎日買って、焼肉屋に行っていたらお金もたまらないよ。
生活が荒れてくるのだ。
毎日タクシーで家に帰っても、その当時はタクシー代が出たのだが、片付けるヒマもなくてゴミ屋敷みたいな家に寝るために帰るためにタクシーを使うのもばかみたいだから、会社に泊まっていた。
最初は応接室のソファーで寝ていたのだが、誰かがマシン室にマットレスを置いて、それで寝たりした。
マシン室は埃っぽくて、そのうち気管支炎になった。
バカである。
良い子は真似をしないで下さい。
ぼくは独り者なので、こういうバカみたいな働き方で、バカみたいなお金の使い方をしていた後に、ある日急に仕事がなくなっても、それはそれで給料に合った暮らしぶりに縮小すればいいだけだ。
危険なのは家庭を持っている人が、毎月ボーナスみたいな残業代を当て込んでいい家を買ったり、いい学校に子供を入れる場合である。
その人は「毎月一定の残業代が発生すること」を前提に仕事をすることになる。
これを「生活残業」と言う。
当時の会社でも「生活残業は認められません」と厳しく言われていたが、厳しく言われて当然だ。
残業というのは読んで字のように、やるべき仕事が予定した時間よりも終わらなかったから、非常手段として会社に残ることだ。
その手当、迷惑料として会社から出るのが残業代だ。
あらかじめ残業を前提にした労働契約というのは本来ありえない。
休むのも仕事のうちである。
一定時間寝て体を休めないと体がメンテ出来ず、いいパフォーマンスが出せない。
家庭サービスもしないと、子供が病気になったり、グレたりして、ますます仕事に身が入らなくなる。
それに、ロボットには出来ない人間ならではの仕事、その人ならではの仕事をするためには、ある程度文化的な趣味を持って、教養も高めなければならない。
24時間働けますか、というCMが当時あったが、24時間働く人がもしいても、なかなか人間らしい仕事は出来ないのではないか。
でも、働いた分だけ残業代を出す会社は良心的だったし、別に文句も言わないで会社に泊まりこみで働いていた。
バカみたいな人生だが、楽しかったのである。
当時の自分を否定したいとは思わない。
青春のいい思い出である。
またやりたいとは絶対に思わないが…。
時間への報酬か、成果への報酬か
そもそも報酬とは時間に対してもたらされるべきか、成果に対してもたらされるべきか。上記の残業代もらえる会社で働いていたとき、ぼくは100パー時間に対して報酬を貰っていたことになる。
一方会社は成果に対してお金をもらっていた。
「このプロジェクトは残業が多くて赤字だった」とか、プロジェクトリーダーが「ポストモーテムレビュー(プロジェクトの後に行う振り返りの会議のこと)で言っていた。
もしすべての労働者が成果に対して報酬をもらったらどうなっただろうか。
この「成果の量」というのが、当時やっていた仕事については計りにくい。
いわゆるSEの人が、このプログラムは3時間で書いてよ、と言ってくる。
たとえ2千ステップに収まったとしても、いろいろ結構難しくて、まる1日掛かってしまうこともままある。
この場合、当初の見積もり通りの報酬だと、困る。
だから、会社から顧客へは成果で請求するけど、下っ端労働者から会社へは時間あたりでということになる。
さらに最低の基本給は出して欲しいと思う。
トンネル工事を例に取ろう。
作業量は穴の大きさでほぼ決まる。
でも、いざ穴を掘って見ると、固い岩にぶち当たったり、思わぬところから水が出たりする。
だから、いくらぐらいの金額でどれぐらいの工期でやりますよ、と見積もるにはある程度のリスクを見込む必要がある。
会社はある程度余裕があるから、リスクも見込んで成果主義で請け負うだろう。
一方下っ端の社員は余裕がない。
だから月々一定のお手当はもらいたいし、多く働いたらそのぶん残業代が欲しい。
労働者に成果主義を持ち込む、ということは、労働者もある程度経営者感覚で仕事に望め、ということだろう。
当然、人よりも早く仕事が終われば、とっとと帰っていい。
その代わり「この仕事終わらせますよ」と引き受けた以上は、何時間掛かろうと同じお駄賃で働け、ということである。
このためには、作業量が正確に測れること、作業時間が事前に正確に見積もれることが必要になる。
ぼくの場合は、平社員レベルではこの見積りがムリだった。
いま検討されている制度が、高度なプロフェッショナルに限られているのもそこに鍵がある。
サービス残業
さて、会社から残業代が出ていながら、残業代を請求しないこともあった。どうするかというと、タイムカードを手書きで書く。
いわゆるブラック企業のサービス残業というのは、上司が社員に対して、17時に「お前ら今タイムカードを押して来い。でも退社はせずに22時まで働け」とか言うものだと思うが(???よく知らない???)ぼくが関わった会社はいい会社で、そういうケースはなかった。
サービス残業は自主的に、勝手にやっていたのだ。
なぜかというと、残業が常態化すると、ダラダラ仕事をするようになって、とても定時には終わらないからだ。
だから残業になるが、残業代を請求するのは申し訳ないので、定時代だけもらう。
勝手に裁量労働制を取り入れていたようなものだ。
これは良くない。
でもこういう人は結構多かったと思う。
だから「サービス残業を強制するブラック企業とそれに苦しむ庶民」と言う単純な図式ではない。
それにしても残業は良くない。
「ピープルウェア」という本に書いてあることだが、残業をすればするほど生産性は下がるそうだ。
8時間労働で100の仕事が出来るはずだったとしよう。
16時間働いても、とても200の仕事は出来ない。
せいぜい150の仕事しか出来ない。
ところが、そのうちそれでは終わらなくなる。
なんと16時間働いても80の仕事しか出来なくなってしまうそうだ。
本当だろうか。
理由は、「どうせ明日も残業するから必ず仕事は終わる」という頭があるので、加速度的にダラダラ仕事をしてしまうそうだ。
確かにいろいろ思い当たるフシがある。
でも、自信を持ってそうだとも言いきれないのは「成果とはなにか」が、なかなか計測できないからだ。
作家であれば枚数が成果になる。
漁師であれば漁獲高が成果になる。
でも、都会のサラリーマンはそれがなかなか分からない。
とりあえずプログラマーは測定が難しいし、営業社員であっても訪問件数が成果なのか、成約件数が成果なのか。
学校の教師の場合、問題児が1人いたり、顧問の部活が県大会で優勝したりしたら、労働時間は跳ね上がると思う。
(学校の先生って残業代出てるのかな?)
このリスクが読みきれないと、平社員に労働時間を裁量させるのは難しいと思う。
アメリカであっても、ホワイトカラー・エグゼンプションを取り入れると労働時間は伸びたそうだ。
とりあえず甘利大臣の言うように、よほどの高額所得者が自分の意志で取り入れるのでないかぎり、取り入れるのは危険がある。
会社員が疲弊して死んでしまったら、会社も潰れてしまうから、経営者、財界の人もそのへんよく考えたほうがいいよ。
現状のシステムであっても「休むのも仕事だから仕事が終わってないけど定時で帰る!」と、平社員の立場で「判断」するのは難しい。
むしろ「強制休養時間制」具体的に言うと定時が来たら会社の電源を切ってしまうような仕組みが必要だろう。
それでかえって業績を伸ばした会社もあるそうだ。