昔、クロスステッチを趣味にしていたことがある。
刺繍の一種である。

はじめたきっかけが、会社の福引で?キットをもらったことである。
布、針、糸、図案が入っている。

Cross stitch pattern4
クロスステッチとはバッテン(×)状に糸を刺していくという意味だ。
布が4本糸ごとに隙間が空いていて、マス目になっているものを使う。
この布をインディアンクロスとかアイーダとか言う。
この4角形の頂点に糸を指して、バッテンを作る。
赤い糸のバッテンを差すと、そのマス目が赤になる。
そうやって、いわゆる昔のテレビゲームのようなドット絵を作っていく。

布に穴が開いているので、針は鋭くなくていい。
クロスステッチ専用の先端が丸い針を使う。

糸はいろいろの色の刺繍糸というものを使う。
オリンパスという会社とDMCという会社が有名だ。
どちらもめちゃくちゃ色の種類がある。

会社でもらったキットはくまさんの親子が家に住んでいるような図柄だった。
1時間も刺しているとくまさんの図柄が一匹分出来る。
もう1時間刺しているとくまさんがもう一匹出来る。
楽しい。
雨の日の午後など一人で刺繍を刺していると、いくらでも時間が経つのだ。

包装用の緩衝材のプチプチをつぶしたり、ジグゾーパズルを組み立てたりするのに似た快感がある。
それで魅力に引きずり込まれてしまった。

基本ドット絵なので、花びらに丸みを持たせるとか、葉っぱにツヤを持たせるとか、そういう表現もマス目単位でしか出来ない。
だから逆に器用さが要求されない。

最初はキットを買っていたが、すぐにものたりなくなってきてプレーンの布に図案集の柄を指していた。
いろいろアレンジして、くまさんとライオンが仲良くしてるのとか刺していた。
この図案集、アメリカとかイギリスのものは分厚くて、見応えがあるが、見事に可愛くない。
赤ちゃんの天使とか、さすがに壮大な柄のがあるのだが、見事に可愛くないのである。
日本の図案集はアニメ絵で、すぐに刺せ、かわいい。
日本人のこのかわいい才能っていうのはなんなんだろうね。

しかしすぐに壁にぶち当たった。
これ、刺し終わっても使い道がないのである。
まる一日刺しても30センチ四方とかであるから、部屋に飾るほどの立派な作品でもない。
よく考えると、刺繍を刺すような奥さんは裁縫も出来るから、財布にしたり、小物入れに仕立てたりするのである。
しかしぼくはそれが出来ない。

やっているうちに知り合いのお父さんが牧師さんで、その奥さんが刺繍の達人であるという話を聞きつけた。
その家を訪ねに言った。
奥さんは80歳ぐらいだが、あまり若い男と(当時は若かった)刺繍の話をする機会がないので、非常に喜んでいろいろ教えてくれた。
小さい引き出しがいっぱいあるタンスがあって、一個一個に糸が分類されている。
80歳になってどうやって刺すんだろうと思ったけど、なまなかの老眼鏡では追いつかなくて、サンバイザーにレンズがついたようなものを使っていた。
これ、俺、いま必要だな。
鎌倉彫などの職人さんが使うものだそうだ。

旦那さんの牧師さん(90歳ぐらい?)は、刺繍の話を奥さんと知らない男がしているのを見て、何だ、フン、みたいな顔をしていたが、そのうち自分でも刺繍を始めた。
牧師さんの場合はちょっとずるくて、刺繍を刺すだけ刺して、布をポイっと奥さんに渡す。
すると奥さんはきれいな小物いれやなんかに仕立ててしまうのだ。
で、教会に来る子どもや、その親にあげてしまう。
今では向こうからせがんでくるので、平日はほとんど刺繍を刺すのにいそがしい、という話だった。

結構すごい腕前なので、金を取って売ればいいのに、と言ったところ、牧師さんはこう答えた。
俺(牧師さん)も最初は売るつもりだったけど、近所の大工さんが家の修理をするのに、1日1万円取る。
俺が刺繍をすると小さな小物入れを作るのに丸一日かかるから、やっぱり1万円は取りたい。
でも中華街で雑貨屋に言ったら、こんなもの300円で売っている。
それじゃあ合わないから、いっそタダでくれてやるんだよ、
みたいな話だった。

そのうち評判になって、近所のタウン誌に「刺繍を刺して配る名物牧師さん」みたいな記事が載った。
つい先日ぼくが奥さんに刺繍を習いに行った時は、横でフンと言っていたのに、話がいささか急である。
ちょっとおかしかった。

その奥さんに聞いた驚愕のテクニックが、「抜きキャンバス」を使うことである。
「抜きキャンバス」とは網戸に使うような目の粗いプラスチックの布というか網である。
それをシャツでもズボンでも糸で縫い付ける。

四角形のマス目をしているから、それを目標に刺す。
インディアンクロスを使うときと原理は一緒だが、針は先端が尖った縫い針にする必要がある。
で、刺し終わったら、網の糸を一本ずつ抜く。
全部抜くと刺繍だけ残るという寸法だ。
そんなものがあるって知ってましたか。
へぇー! と思って、マイブームが再来した。

アメリカの図案集に花を組み合わせてアルファベットを書くという図案があって、それでシャツの胸にイニシャルを刺したりした。
でもよく考えるとポケットの上から刺したらポケットが使えなくなるのである。
そういう失敗もあったが、しばらくそんなことをして遊んでいた。

刺繍用品はユザワヤとか東急ハンズに売っている。
穴場は渋谷の東急プラザの近くにある店で、親父さんが凝り性でいろいろ教えてくれた。
ただ、この店を検索しても名前が出てこないので、もうなくなったかもしれない。
いまマークシティがある近所である。
ていうかマークシティが出来たからなくなった???
フワフワした記事でスミマセン。

でも刺繍ブームというのは昔はすごかったけど急速に下火になったみたいだ。
ぼくが始めたころは東急ハンズに5メートルぐらいの刺繍糸のコーナーがあったけど、数年で1メートルぐらいに減少した。
1990年ぐらいの話である。
業者の人に話を聞く機会もあったが、刺繍糸というのは一回買うとなかなか減らないので、そんなに大儲けは出来ないそうだ。
蒲田のユザワヤにいけば確実に売っているだろうが、わざわざ行くのも大変である。

でも、今はネットの世の中になって、ロングテールだから、楽天なんかで検索すればいくらでも凝った糸が買えるのではないだろうか。
問題は図案づくりだが、ドット絵なので今はソフトが使える。

と、まあいろいろ書いてきたが、結局ぼくはすぐにやめてしまった。
ぼくは部屋が片付かないし、物の管理が出来ない。
手先が不器用なので、なかなか速度も上がらない。
うまい人が刺繍を差すと、裏返してもきれいな図案になっている。
ぼくが差すと、表面上はきれいだが、裏返すとプログラミングで言うところのgoto文だらけになっていて、たいへん汚い。
ということで、セットも処分してしまった。
いまは忙しくて、どんだけ昔はヒマだったんだよ、と思う。
でも年を取ったらまた始めるかもしれない。