門外漢だが、将棋電王脳は面白かった。

Brooklyn Museum - Two Boys Playing Shogi with a Third Observer
将棋を機械が指せるのか。
将棋は完全情報非ゼロ和ゲームと言って、まったく運の要素がなく、どちらかが必ず勝つ。
小林秀雄氏がエッセイに書いていたが、もし枡が2つしかなく王将が2つ向き合っているゲームだったら先手必勝になる。
枡が3つ縦に並んで王将が2つ向き合っているゲームだったら先手必敗になる。
このように盤面を広げて駒を増やしていくわけだから、ものすごい場合の数があるだろうけど、結局は先手必勝か先手必敗になるのだろう。
その組み合わせの数をすべて尽くすことが、現状では人間にも機械にも出来ない。

チェスは将棋よりも局面の数が少なく、人間がもはや機械に勝てなくなって久しい。
将棋はチェスより盤面が大きく、駒も多く、なんと言っても敵の駒をリサイクルしてどこにでも打てるというルールがあるので、局面の数が桁違いで、なかなか計算し尽くせない。
ただ、将棋においても、どうも機械は人間よりも強いようだ。

ただ、この「機械が人間よりも強い」と簡単に言い切ってしまうことに、どうも語弊があるようである。
よく言われることだが、ウサイン・ボルトよりもオートバイが速いからと言って、人間が速く走ることに意味がないのだろうか。

サイモン・シン『フェルマーの最終定理』に、数学ではフェルマーの最終定理のような問題は人間が直感を働かせて解いていたが、四色問題のような問題はコンピューターが力任せに強引に解いている、と書いていた。
コンピューターはどんなしょうもないことでも文句も言わず繰り返し、何時間計算しても飽きも疲れもしない。
たとえばある数が素数であるかを知る、というような問題で、人間であればエレガントな方法がないか考えるか、あるいは諦めるところを、機械であれば過去発見された素数で飽きもせずに割っていく。
抛っておけばいずれ答えが出るので、人間は機械に任せて他のもっと楽しそうなことをするか、プログラムの改良というメタ作業にいそしむか、ダラダラ休んでいる。
だから機械の方が頭がいい、とは言わないだろう。
問題の解き方が違うのだ。

コンピューターの将棋ソフトは過去の棋譜(プロ同士の対戦記録)を学習していて、その時打てそうな手を虱潰しに調べ、確率によって最も勝ちそうな手を選ぶ。
これは人間とは違い、人間は「筋」で打つ。
機械は人間が思いも寄らない手を打つ、と言う。
羽生さんがテレビで「なぜ昔の棋譜を覚えていられるのですか」と聞かれて「将棋の棋譜、特に名勝負は美しいメロディになっているから覚えやすいんです」という意味のことを答えていた。
コンピューターはそのメロディからすると、素っ頓狂な音、音楽で言えば現代音楽のミュージック・コンクレートや、ハプニング・アートのような手を打つのであろうか。

今回の将棋電王戦では、ソフトを開発者が棋士に貸し出し、半年間自由に研究してもらう、その半年間の間にプログラムに絶対に負けてしまうような瑕疵があっても、プログラムを直してはいけない、というルールを、主催者のドワンゴが課した。
これは、ドワンゴが提案し、将棋連盟に頼み込んで飲んでもらった、という説明がされていた。
コンピューター側が過去すべての棋譜を学習していて、しかも完璧に覚えている、それに対して棋士側はソフトがどんな手を打ってくるのか当日まで分からない、というのでは、さすがに人間がかわいそうなので、このようなルールになったようだ。

いままで機械有利という状況が続いていたが、今回初めて人間が勝ち越した。

人間が勝った第1戦では、ソフトAperyが、敗色濃厚な局面で「王手ラッシュ」を仕掛けて話題になった。
王手ラッシュというのは、決定的な負けを少しでも引き伸ばし、相手のミスを誘うために、ひたすら王手を指し続ける戦法で、人間同士の将棋ではマナー違反とされている。
ではどうするのが正しい(美しい)かというと、明らかに敗色濃厚な時点で投了する。

将棋ソフトには投了の機能がない。
負けが確定していないのであれば、最後の最後まで、相手が信じられない凡ミスをするかもしれないから王手を指し続けるのがソフトである。
人間同士の将棋であっても、ルール上は問題がない行為である。

人間同士の将棋では、つい先日の名人戦で羽生棋士に対して行方棋士がわずか60手で投了して話題になった。
行方さんは「相手が羽生さんだからこれ以上やっても勝ちはないと思ったのかもしれない」という趣旨の発言をしていて話題になった。

これが顕著な例だが、他にもプロ同士の対戦では、「エッなぜここで投了?」と言われるケースも多い。
相手と自分の差を含め、さまざまな要素を考えて投了しているのだろう。

羽生さんが以前、NHKの特別番組で、投了になった局面から負けた(悪い)方の手番を引き受けて、アマチュアの将棋愛好家と将棋を指し、大逆転で勝つことが出来るかという番組をやっていた。
十番勝負で、十回中九回、見事羽生氏が勝っていた。
だから、投了と言っても、完全に負けているわけではない。
この「大逆転」番組では、アマチュア側が、プロではやらないようなミスをおかしていたわけだ。
プロであっても「二歩」のような反則負けをすることがある。
人間凡ミスはつきものなので、「投了」が正しいことかどうか分からない。
ソフトには「美学」のようなものはないので、自分から投了を言い出すことはない。
勝つか、負けるか、デジタルの判断しか出来ないのだ。

しかし、電王戦の将棋ソフトには「開発者権限投了」という機能がある。
対戦の時はソフトを開発したプログラマーさんも横で見ているが、あまりにも敗色濃厚なのに王手ラッシュをし続けるような目に余る行為で「棋譜を汚す」ことがあれば、ソフトを強制的に止められる仕組みがある。
だから、人間対機械という戦いであっても、戦いの終了のタイミングは機械を人間が止めることで決めることもある。
今回のAperyの場合は開発者の方が開発者権限の投了を潔しとせず、完全に詰みになるまで人間が指しきって勝った。
これには賛否両論がある。
ぼくは機械には機械の戦い方があるのでこれで良かったと思う。
「美学」のようなアナログ的なものを持ち込むのは、機械vs.人間の将棋戦というものの面白さを殺ぐと思う。

続いての第2戦では、ソフトSeleneが、棋士側の「角不成」という奇手に対応出来ずに負けた。
角不成(角成らず)とは、相手の角を取って相手の陣中に打ち込むときに、成れるのに成らないという手である。
成るというのは駒を裏返してパワーアップすることで、成ることでデメリットがある場合を除いては普通は成る。
成らなくても詰めるケースでも、成らないことは失礼とされているようだ。

しかし棋士は角不成を打ち、コンピューター側は棋士の王手を対応せずに王手を回避しない手を打った。
これは「王手無視」と言ってルール違反であり、この時点で負けのようだ。
実際にはSeleneの開発者が開発者権限投了を行った。

将棋ソフトは局面を入力データとしてすべての手を検討し、最善の手を打つ。
しかし、角が自陣に打ち込まれて成らないという、実戦ではまずあり得ないデータは、検討不要としてデータを減らし、処理速度を稼いでいたようだ。
勝った永瀬棋士はSeleneが角不成に対応しないことを事前研究で知っていた。
これも、ソフト貸出制、デバッグ禁止制ならではの現象である。
ただし、角が成っても成らなくても大勢に影響せず、自分の勝ちを確信した時点で、お遊びのサービスで角不成を打って見せたようだ。
これも賛否両論あったが、とりあえず湧いた。

この後ソフトが3戦、4戦をものにし、2対2で最終の第5戦となった。
電王戦は団体戦としては今回が最後ということだが、その最終決戦だ。

ところが、ソフトAWAKEには既知の瑕疵があった。
人間が自陣にあえて隙を作ることで、28角という手を誘い、角をただで捕獲してしまう(あるいは桂馬や銀のようなより弱い駒との交換に持ち込ませる)という悪手を必ず指してしまう。
名人と初心者が将棋を指すとき「駒落ち」というハンデを付けるが、この場合ソフトが角落ち、人間が角得ということで俄然人間有利になる。
ソフトが敵の王将のそばに竜(成った角)を作ることを必要以上に高く評価することによる瑕疵ということだ。

この手は、アマチュア対AWAKEというイベントですでに発見されていた。
ただし、角を只取りしたからと言って必ず人間が勝つわけではなく、同じ手をアマチュアが5回やって1回勝つという状況だったようだ。
それぐらいソフトは中盤、終盤に強い。

今回は人間(阿久津棋士)が28角を誘う「嵌め手」を使うかどうか、そしてソフトが28角を打つかどうか、もし28角を打った後にソフトがどのように巻き返すか―という興味で、特に注目されていた。

結果は、阿久津棋士が嵌め手を使い、ソフトが28角を打った。
すると開発者の巨勢さんが即座に開発者権限投了を行い、10時間ぐらいが予想されていた1局が1時間で終わってしまった。
わずか21手の投了である。
ソフトはまだまだ自分が有利と計算していた。

阿久津さんはアマチュアがイベントで見つける前に、ソフトを貸し出してから3日ぐらいでこの瑕疵に気づいたと語っている。
これは、ソフト貸し出し、デバッグ不可というルールの人間の有利さが最も極端に出た形だ。
それと、物議を醸したのが大企業が次々にスポンサーに付き(第1戦は二条城で行われた)肥大した大イベントになった電王戦の最終日が、あまりにもあっけない幕切れになったことだ。

空いた時間で阿久津さんと第2戦Seleneを破った永瀬さんがエキシビションマッチを行った。
AWAKEが28角を打つ直前の局面から「もしAWAKEが28角を打っていなかったら」という設定で、永瀬さんがAWAKEの代打ち(DENSO製マジックハンド「電王手さん」の操作)をしたのだ。
結果は阿久津さんの勝利で「1日に二度勝った」形になった。
「感想戦」も和やかに行われていて、会場にわざわざ脚を運んだファンも「やっぱり人間同士の将棋はおもしろいなァ」と盛り上がった。

この場合

 ・阿久津棋士が嵌め手を使ったことの是非
 ・それに対して巨勢氏がすぐに投了したことの是非
 ・さらに巨勢氏が「アマチュアが発見した手をプロが使うとは思わなかった」「ソフトの悪いところを引き出すのは意味が無い」「面白い将棋にならないから投了した」と言う意味のプロ批判の発言を繰り返したことの是非

が問われることになった。

ぼくなんかの意見だが、これはすべて、ルール上可能であるからオッケーと認めるしかない。

阿久津氏が「人間相手なら絶対にやらない嵌め手」を打って「ソフトの弱点を衝く形で勝った」ことにはまったく問題がないだろう。
機械vs.人間の戦いは異種格闘技戦であり、まったく違うものが戦うのだから色々な現象が起こる。

ぼくは異種格闘技戦のモハメッド・アリ(ボクシング)vs.アントニオ猪木(プロレス)の一戦を思い出した。
アリの一発を警戒した猪木は「グラウンド・ポジション」と称して最初からリングにゴロンと仰向けに寝てしまい、最初からプロレス有利の寝技に持っていった。
これは、マッチを実現するために長大な議論が行われたルールの隙を衝いた戦いで、当時も猪木が卑怯と言われた。
しかし、相手の弱点を衝くのは勝負であるから当然のことだ。
人間側ばかりに「美学」が求められるのはおかしい。
そもそも機械と人間が将棋を指すということ自体が「面白い、変わったこと」だから何が起こるか分からない。
そもそも大の大人が真剣に将棋に命を掛けること自体が「面白い、変わったこと」なのだから、どんな変わった手が飛び出しても、それは面白がるべきだと思う。
事前貸出、デバッグ不可というルールがあり、それを納得して大会にエントリーした以上、ソフト開発者は貸出前に最善を尽くすしか勝つ道はなかったのだ。

(※プロ棋士が「事前研究が行える以上、ソフトの傷を全力で探すので、こういう(阿久津vs.AWAKEのような)勝負ばっかりになると思っていた(が、意外と棋士の研究が進まないので?)今までなかった」という意味の発言をしていたのが印象に残った。

巨勢氏が21手で投了を行ったのはどうか。
これも、ルール上出来るのだから、した人を責めるわけにはいかないだろう。
巨勢氏は明らかに、今回の戦いのルールの不備と、それを援用した相手棋士に不快感を持っていて、それを投了で表現した。
いわば勝負のボイコットで、今回の大会のルールの不手際に世間の注目を集めたのだから、それはそれで意味があった。

その後の発言に対しても、マイクを向けて「どうですか」と記者が聞いているからそれに答えたまでのことである。
将棋連盟、名だたる大企業を向こうに回しての大ボイコットであり、ある種痛快と言えなくもない。

最大の不備はルールだろう。
やはり明らかな瑕疵を直せないのはおかしい。
ぼくが運営委員であればソフトの書き換えは自由、ただし、書き換えたら即時ネットに公開すべしというルールにする。
と、思ったが、それだと事前研究の意味が薄れ、人間不利になってしまうだろう。
開発者はわざと弱いソフトを公開して、半年間改良に改良を重ね、勝負直前に公開するような手を使うことも可能である。

数字上の勝敗で「コンピューターと人間はどっちが強いか」という議論に収束してしまうのは将棋文化にとって良くないので、難しいところだ。
ネットでは「プロ厨(人間びいき)」と「ソフト厨(コンピューターびいき)」が、最近の若い人が好きな例のインターネットのあの感じで人格批判をやりあっている。
また、電王戦の主催者も、対立をセンセーショナルに煽って商売にしているように見える。
だから今回で終わるのもしょうがないし、最期のさいごにこんな野次馬的に面白い結果になって良かったのではないだろうか。
文化と科学、勝負と美学、さまざまな問題が集まっていて、とても見応えのあるイベントであった。