3月17日にポストしたブログエントリー「【第802回】疑似科学と真善美」の中で言葉の間違った使い方があると指摘をもらった。
最初は恥ずかしいのでしれっと直してそれでおしまいにするつもりだったが、愚かな言葉の書き間違いをしていたことを記録に残すことにも意味があるし、ネタが増えてうれしいから、ここで改めて書いておく。

Anger Words
ぼくが書いたのは「中世の江戸に流行っていたという江戸しぐさ」という言葉であったが、それに対して「江戸しぐさってそんなに古いものですか」と言われたのである。
調べると、中世という言葉を日本に適用させる場合、実は鎌倉時代から安土桃山時代まで、または、平安時代が終わって平氏が立ってから安土桃山時代までを中世、と言うそうである。

ぼくは中世というのはヨーロッパの異端審問やペストの流行に代表される暗黒時代というイメージがあって、日本でも明治維新、文明開化までの暗い時代のことを中世というのかと思っていた。
実際には安土桃山時代から江戸時代までは近世といい、明治時代からは近代というそうだ。
言われればそんなように学生時代に習った気がする。

ブログは「江戸時代に流行っていたという江戸しぐさ」と直した。
最初からそう書けばよかったので、中世などという自分でよく分かっていなかった言葉をあえて書く必要はなかったのだ。
あえてそうぼくが書いた理由は、ちょっと難しいっぽい言葉を書くと頭が実際よりも良く見え、より議論に説得力が増すと考えたからだろう。
結果的に逆効果であった。
ぼくはより高い内容をよりやさしく書くことを目指しているつもりなので、それに逆行する文を書いてしまったことを深く恥じ、ここに反省するものである。
ご指摘いただいた方に御礼を申し上げます。



偶然だが、最近「よく分からない言葉」についていろいろ考えていた。

よく意味が分からないと言われるのが「自己責任」という言葉だ。
危険な外国に好んで行ったのだから、テロ組織に拘束されて国に助けを求めるのはおかしい、見殺しにされても文句を言うな、という文脈で「自己責任」と言う言葉が使われた。
冒険する人はリスクを負う、それは当たり前のことである。
しかし上の文脈で「ジコセキニン」と言ってしまうと、それは「泣き言を言うな」、「不運を甘受し、世間様に迷惑を掛けるな」という意味になる。
「あなたそれはジコセキニンでしょう」とわざわざ言い募る意味がわからない。
夜道を歩いていてレイプされたら自己責任、ローンを汲んで耐震基準を満たさないマンションを買ったら自己責任と言っている記事も見た。
極端な用例としては、ブラック企業に入って過労死するのも自己責任と言っている人とさえいた。
しかし、社会にも冒険する市民を救い、市民の自由度を増やして可能性を広げる義務がある程度ある。
ISISによって殺されたジャーナリストの後藤さんはすばらしい映像や文章を残していたが、冒険心のある市民が自己の可能性を広げることは、国益、人類益にもつながるのである。
すべて安全な方、世間様や国家の推奨する方を取っていなければ、災厄にあっても救ってもらえないというのでは社会側が責任を果たしていない。
もちろん人間はあらゆる行動に責任がある。
ぼくも今、パソコンに向かって好き勝手に文字を綴っているが、それがもたらす影響について責任がある。
でも、だから、逆にわざわざ「自己責任」と言い立てる人の気持がわからないのである。



「テロ」という言葉も、最近拡張されて使われていて、意味がよく分からなくなってきた。
フランスの漫画家襲撃事件や、チュニジアの事件は、明らかにテロであろう。
テロとはもともとテロル、つまり英語のterror(テラー)から来ていて、暴力で人を恐怖させて支配することという意味だろう。

政治家の石破茂氏が、国会前で行われる反秘密保護法のデモについて、声の大きさで市民を恐怖させるデモはテロと本質的に同じだ、と発言した。

「絶叫デモ、テロと変わらぬ」 石破幹事長、ブログで:朝日新聞デジタル

じゃあフランスの漫画家を支持する、EU中の首脳も集まって行ったデモ行進はテロなんだろうか?

沖縄では普天間基地移設にともなって、数多くの反対運動の人がカヌーで海に出ている。
これを「プロ市民によるテロ」と難じる言論も多い。
しかし、これを排除する海上保安庁の「海猿」たちの行動も相当えげつなく、市民を馬乗りで拘束したり、カヌーを漕ぐパドルを取り上げて遠くに投げたり、海に突き落としたりしているという。

海保、パドル奪う 市民批判「命の危険」 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

彼らは黒い覆面にサングラスをしており、名前を問われると「海保太郎」とうそぶいたそうだ。
こっちはテロじゃないのだろうか?
よほど恐ろしく、暴力的に見える。

「テロに屈しない」と安倍首相はのたまうが、テロの定義がはっきりしない。
自分に反対する勢力の行為はテロである、と決めつけるのであれば「悪い奴はわるい」と言っているのと同じことで、あまり意味のない言葉ではないだろうか。



「老害」というのもある。
むかし堀江貴文さんが国会議員選挙に立った時に「老害を排除します」と言って話題になった。
日本の選挙は年寄りが最も投票するから、この言葉を使ったことが、選挙に負け、最終的に投獄されるに至った一因ではないかと思うが、ここで言われた言葉「老害」は、いつまでも権力の中枢に居座り、若い芽を摘み、社会の改革に反対して既得権益を守ろうとする人、という意味で、それがこの言葉の正しい意味だと思う。
(ぼくは必ずしも「老害」は廃すべきとは思わないが)

しかし最近は、この言葉を使うかなり奇妙な例がある。

YMOがコンサートで「反戦」、「反核」という旗を振りながら演奏をしたことを「老害」と言っているネトウヨの人がいた。
ミュージシャンなんて人気があるから表舞台に出られ、気に入らなければ見に行かなければいいだけの存在である。
彼らが人気が有ることは、いわゆる既得権益では全くないし、年を取っていることで少しも有利な立場にいるわけではない。
年寄りが何か自分の意に沿わないことをやっていると「ローガイ」と言っているだけのことではないか。

同じように、自分の意に沿わないことを若い人がやっていると「ゆとり」と言われる。
「ゆとり」とはある時期行われていた学習の負担を軽減するカリキュラム「ゆとり教育」を受けていた世代のことだ。
「ゆとり教育」でどれだけ人間の質が低下したのかは分からない。
学校のカリキュラムぐらいで人間の質はそんなに上下しないと思う。

結局「テロ」、「ローガイ」、「ゆとり」というのは、自分の意に沿わない人にべったり貼り付けるレッテルであって、一度レッテルを貼ってしまえばその人の全人格を否定してしまえるという便利な言葉の暴力ではないか。



もっと一般的な言葉で「法治国家」というのがある。
法律を違反した人を厳しく罰するのを「日本は法治国家だからしょうがないです」などとカッコつけて言う人がいるが、これは誤用だそうだ。
法治国家とは法律によって統治されている国家という意味だそうだ。
国家は複数の人間の利害を調整するために、人権の一部を制限する。
そのときに、野放図に制限せず、国家はどこまで制限しますよということをあらかじめちゃんと法律に書いておき、それ以上のことはしませんよというのが法治国家という意味であるそうだ。
つまり法によって治められるのは市民ではなくて国家である。

「権利は義務を伴う」というのもよく聞く。
「人権、人権というけど、義務を果たさない人間に権利ばかり主張することは出来ませんよ」と言う人がいる。
これも間違いだそうだ。
日本は、義務を支払うと権利が対価として得られるような、そういう自動販売機的な社会ではなく、義務を果たしているかどうかとは無関係に権利は人間に前もって与えられている。
たとえば子どもや、お年寄りや、体の不自由な人のように、義務とされているものの一部をどうしようもなく果たせない人もいる。
そんな弱者であっても、基本的人権は絶対に持っている。
以降は私見だが、基本的な人権が保証されないような社会の価値は低いし、バリバリ義務を果たしている人も安心して働けないと思う。
社会の中で自分一人が、あるいは強者だけが幸せになるのは難しいことだからだ。

範囲がよく分からない「自己責任」、「テロ」、「老害」、「ゆとり」と言う言葉、そして誤用としての「法治国家」、「権利と義務」という言葉を眺めると、どれも議論がめんどくさい人が、自分の意に沿わない人の顔にべったり貼り付けるレッテルとしての言葉が多いようだ。
反言論的言論である。