フランスでイスラム過激派を名乗る組織が、風刺画を載せる新聞社を銃撃し、大量に死者が出た。
パリでは、犯行に抗議する大規模なデモ行進が起こった。
暴力は絶対悪いことだし、言論の自由は絶対に守られるべきである。
ぼくはその考えに深く共感する。
しかしながら、ぼくは今回の、政治家と市民が手を携えて行った圧倒的なデモ行進に、何らかの違和感、居心地の悪さを感じもする。
あまり利口な人はこんな文を書かないと思うが、馬鹿なので書いてしまおう。

パリでは、犯行に抗議する大規模なデモ行進が起こった。
暴力は絶対悪いことだし、言論の自由は絶対に守られるべきである。
ぼくはその考えに深く共感する。
しかしながら、ぼくは今回の、政治家と市民が手を携えて行った圧倒的なデモ行進に、何らかの違和感、居心地の悪さを感じもする。
あまり利口な人はこんな文を書かないと思うが、馬鹿なので書いてしまおう。

問題の発端となった風刺画はこんなものである。
【シャルリー・エブド】パリで襲撃された新聞はどんなことを報じていたのか
描く自由は絶対に守られるべきだが、この絵を好きかどうかは別問題だ。
正直、ぼくはこの絵の良さ、ユーモアが良くあまり分からない。
日本のサッカー選手も、フランスのテレビで写真を加工され、コメディアンに「手が4本あるから守備がうまい。福島の放射能の影響ではないだろうか」と茶化されたことがある。
川島の腕4本に合成「原発影響」と仏TV - 海外サッカーニュース : nikkansports.com
ぼくはこのテレビの面白みもよく分からない。
当時、日本政府は抗議し、フランスの外務大臣は謝罪した。
日本人がフランスのテレビ局を銃撃しなくて良かったとつくづく思うし、フランスの外務大臣が謝罪してくれて正直ホッとした。
冗談も抗議も謝罪も言論である。
事が言論の範疇で済んで本当に良かった。
藤子・F・不二雄氏マンガの「エスパー魔美」に、こんな場面があった。
(手元に本がないので曖昧です)
不良青年が、ヒロインの魔美にセクハラをしようとして、魔美に思いを寄せる秀才少年の高畑くんがそれを止める。
不良青年が「冗談じゃないか」と言うと、高畑くんが「冗談というのはみんなでゆかいに笑えるものをいうのです」と言い返す。
ぼくには高畑くんほどの高潔さはとてもないが、この言葉を自戒として大事にしたい。
フランスとイスラム教と言えば、2010年に制定されたブルカ禁止法が思い出される。
ブルカ - Wikipedia
ブルカとはイスラム教の女性が戒律に従って肌を隠すために使うスカーフであって、フランス政府はこれが女性抑圧の象徴であるとしてイスラム女性にそれを身に着けることを禁じた。
ぼくはこの法律にも違和感を持つ。
仮にヌーディズムの団体がどこかの国で権力を持って「女性が胸を隠すのは良くない」という法律を制定したらどうだろう。
大騒ぎになる。
胸ぐらい出したい人は出せばいい。
でも隠したい人は隠す自由もあるはずだ。
同様にイスラム教の女性は、親や地域社会の教えに従って、幼い頃からプルカで身を包むことが良いことと思っているのである。
そういう人に、フランスに住みたければ戒律を破って顔を晒せと言う。
これはこれで自由の侵害ではないだろうか。
まあフランス政府もこれぐらいの議論はとっくに何百時間も費やしており、ぼくのような極東に住んでいる無縁の衆生にああこう言われたくないであろう。
ただ、ぼくは違和感を持ち、日本には今のところ、女の人が顔を隠して歩いていてもそれだけで罰する法律はないことを好ましく思う。
もっとも、過激派組織に入れば、もう言論の自由はない。
組織の存在理由にちょっぴり疑問を持っても、それを口にすれば殺される。
昨年の10月、日本の大学生もイスラム国に参加しようとして「私戦予備および陰謀」という、めったに発動しない法律によって阻止された。
大学生が何を考えていたかよくわからないが、まあ無理矢理考えると、「日本社会の窮屈さ、閉塞感」を感じて海を渡ろうとしたのであろう。
しかし、ちょっと想像すれば分かるが、戦闘員になったら、あっという間に日本にいるよりもはるかに窮屈な身分になる。
やめておいたほうがいい。
捕まって良かったよ。
なにしろ昨年末にはシリアで、100人ほどの外国人戦闘員が内ゲバで処刑されたそうだ。
現代の日本では、社会に不満があれば、言論だけでのし上がって社会を変える自由が一応保証されている。
若い人は、それを大事に思うべきだ。
デモに参加する人と、銃を乱射しながら逃亡する人と、どちらにシンパシーを感じるかと言えば、ぼくは絶対に前者である。
しかしながら、ぼくは何百万人の人が政治家と一緒にデモ行進して、自由を神聖化する動きに違和感を感じる。
デモ行進が盛んになればなるほど、銃撃も激しくなるだろう。
双方ともに「振り上げたこぶしの落とし所」がなくなるからだ。
自由が尊ばれる社会を守るためには、好ましくない他人の自由を許す寛容さが必要だ。
いまその寛容さを最も身に着けるべきなのは過激派、銃撃犯だが、彼らにはそれが期待できないだろう。
であれば、知性に恵まれたフランス市民が、相手に格好のつく引き際を考えてやるべきではないだろうか。
【シャルリー・エブド】パリで襲撃された新聞はどんなことを報じていたのか
描く自由は絶対に守られるべきだが、この絵を好きかどうかは別問題だ。
正直、ぼくはこの絵の良さ、ユーモアが良くあまり分からない。
日本のサッカー選手も、フランスのテレビで写真を加工され、コメディアンに「手が4本あるから守備がうまい。福島の放射能の影響ではないだろうか」と茶化されたことがある。
川島の腕4本に合成「原発影響」と仏TV - 海外サッカーニュース : nikkansports.com
ぼくはこのテレビの面白みもよく分からない。
当時、日本政府は抗議し、フランスの外務大臣は謝罪した。
日本人がフランスのテレビ局を銃撃しなくて良かったとつくづく思うし、フランスの外務大臣が謝罪してくれて正直ホッとした。
冗談も抗議も謝罪も言論である。
事が言論の範疇で済んで本当に良かった。
藤子・F・不二雄氏マンガの「エスパー魔美」に、こんな場面があった。
(手元に本がないので曖昧です)
不良青年が、ヒロインの魔美にセクハラをしようとして、魔美に思いを寄せる秀才少年の高畑くんがそれを止める。
不良青年が「冗談じゃないか」と言うと、高畑くんが「冗談というのはみんなでゆかいに笑えるものをいうのです」と言い返す。
ぼくには高畑くんほどの高潔さはとてもないが、この言葉を自戒として大事にしたい。
フランスとイスラム教と言えば、2010年に制定されたブルカ禁止法が思い出される。
ブルカ - Wikipedia
ブルカとはイスラム教の女性が戒律に従って肌を隠すために使うスカーフであって、フランス政府はこれが女性抑圧の象徴であるとしてイスラム女性にそれを身に着けることを禁じた。
ぼくはこの法律にも違和感を持つ。
仮にヌーディズムの団体がどこかの国で権力を持って「女性が胸を隠すのは良くない」という法律を制定したらどうだろう。
大騒ぎになる。
胸ぐらい出したい人は出せばいい。
でも隠したい人は隠す自由もあるはずだ。
同様にイスラム教の女性は、親や地域社会の教えに従って、幼い頃からプルカで身を包むことが良いことと思っているのである。
そういう人に、フランスに住みたければ戒律を破って顔を晒せと言う。
これはこれで自由の侵害ではないだろうか。
まあフランス政府もこれぐらいの議論はとっくに何百時間も費やしており、ぼくのような極東に住んでいる無縁の衆生にああこう言われたくないであろう。
ただ、ぼくは違和感を持ち、日本には今のところ、女の人が顔を隠して歩いていてもそれだけで罰する法律はないことを好ましく思う。
もっとも、過激派組織に入れば、もう言論の自由はない。
組織の存在理由にちょっぴり疑問を持っても、それを口にすれば殺される。
昨年の10月、日本の大学生もイスラム国に参加しようとして「私戦予備および陰謀」という、めったに発動しない法律によって阻止された。
大学生が何を考えていたかよくわからないが、まあ無理矢理考えると、「日本社会の窮屈さ、閉塞感」を感じて海を渡ろうとしたのであろう。
しかし、ちょっと想像すれば分かるが、戦闘員になったら、あっという間に日本にいるよりもはるかに窮屈な身分になる。
やめておいたほうがいい。
捕まって良かったよ。
なにしろ昨年末にはシリアで、100人ほどの外国人戦闘員が内ゲバで処刑されたそうだ。
現代の日本では、社会に不満があれば、言論だけでのし上がって社会を変える自由が一応保証されている。
若い人は、それを大事に思うべきだ。
デモに参加する人と、銃を乱射しながら逃亡する人と、どちらにシンパシーを感じるかと言えば、ぼくは絶対に前者である。
しかしながら、ぼくは何百万人の人が政治家と一緒にデモ行進して、自由を神聖化する動きに違和感を感じる。
デモ行進が盛んになればなるほど、銃撃も激しくなるだろう。
双方ともに「振り上げたこぶしの落とし所」がなくなるからだ。
自由が尊ばれる社会を守るためには、好ましくない他人の自由を許す寛容さが必要だ。
いまその寛容さを最も身に着けるべきなのは過激派、銃撃犯だが、彼らにはそれが期待できないだろう。
であれば、知性に恵まれたフランス市民が、相手に格好のつく引き際を考えてやるべきではないだろうか。