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さいきん「子供がうるさい」とか、「子供がうるさいというわからず屋の大人がうるさい」という議論が多い。
どっちの気持ちも分かる。
ただこういう議論はあまり生産的な感じがしない。

Street Kids Durbah Square Kathmandu (4482167455)
われわれ貧乏人同士、仲間うちで攻撃しあっていて、両方とも敵を間違っているような気がするのである。
悪いのは満員電車にぎゅう詰めにされるような社会構造であって、泣く子供も、親も、それを不快に感じる疲れたサラリーマンも、ともに被害者である。
首都圏は本当にゴミゴミしていて、住宅地の中に、無理やり公園を作っている。
社会のインフラが貧しいのである。
貧乏人同士、被害者同士で力を合わせてなんとかしましょうとなるのが生産的だと思うのだが、なかなかそうならない。

ぼくも青年の頃は子供が苦手だった。
都会に出てきたばかりの頃は、人口が過密な都市というものにびっくりしたし、平気でこちらの至近距離に他人が入ってくるのが不快だった。
それでも大人同士であれば目を逸らしあってプライバシーをやりくりするのだが、子供はそうはいかない。
至近距離で泣き喚き、走り回る。

それがグンと平気になったのは姪っ子が生まれてからだ。
とにかく可愛らしかったので、可愛がっているうちに、他人の子供も平気になってきた。
電車でギャーギャー言っているよその子供を見ると、オッ元気がいいな、と思う。
で、顔を見て、かわいいな、と思い、しばらくすると、でもうちの姪っ子の方がかわいいな、などと思うようになった。
この心境の変化は劇的で、自分でも不思議だった。
姪でさえそうなのだから、実の子ともなるともっと感覚が激変すると思う。
というわけで、この議論は、子供を持っている人と持っていない人で温度差がある。
精神構造に変化が起こるのである。
これは両陣営(?)ともに理解しておいたほうがいいのではないか。

よく、子供擁護派(?)の中で「子供がウルサイっていう人は自分がうるさかった子供の頃のことを忘れているのか!」と“道徳的”な文脈でいう人がいる。
ぼくに関して言えばしょうじき、子供の頃のことなので、もう忘れている。
それに、それを言うなら「『子供がウルサイっていう人がウルサイ』っていう人は、自分が『子供がウルサイ』と思ってた若い頃のころを忘れているのか」という屁理屈も成り立ってしまう。
だから、あまり意味のある言い方ではないと思う。

ぼくはかつて、電車で隣り合った子供がむずかると、今で言う「変顔」をして見せたりして、あやすのが趣味だった。
隣にいる大人が面白いオッサンだとわかると、子供はびっくりするほど機嫌が良くなるし、目をキラキラさせて応じるので、こちらも楽しい。
ほんの10年ほど前の話だ。
ところが、今はもうやらなくなった。
親が露骨にいやがるようになったのだ。

ショッピングモールなどで、フロアの途中に急に階段が始まっているようなところで、子供がダーッと走ってくる。
あぶない、と思って通せんぼし、親が来るまで待っていることも、ほんの10年前にはよくやっていた。
今もやった方がいいと思うのだが、これをやると親がものすごくいやがるようになった。
面と向かって文句を言ってくるわけではないのだが、鬼の形相で走ってきて、子供を自分から引き離そうとすることが多くてびっくりする。
こちらも暗い気持ちになるので、そういうボランティアはやめることにした。

親御さんの気持ちも分かる。
最近は“物騒な世の中”で、変なオッサンがウヨウヨ歩いている、という認識が、親の間に染み渡っている。
実際の犯罪数はどんどん減少しているのだが、犯罪が少ないとおまんまの食い上げになる警察やマスコミが必要以上に騒いでいるので、住民同士がお互いに疑い合い、自分のプライベートエリアに入ってくる人を忌避する傾向がどんどん進んでいる。
ぼく自身、近所の人やお店の人やなんかとあまり親しくしなくなった。

よくネットの笑い話になるのだが、道をゆく小学生に「もう暗いから気をつけなよ」と声を掛けると警察に通報されるそうだ。
「声かけ事案」と言うらしい。
たしかにぼくも、街を歩いていて小学生に挨拶なんかしようと思わないのだが、ぼくが小学生時代はオッサンオバサンに声をよく掛けられた、
いうところの古き良き平和な風景である。

一方、最近は親が家の前の道路で子供を遊ばせるのが問題になっていて、「道路族」というらしい。
昔は「道路族」というと道路建設事業に食い込んでいる政治家のことを指したものだが、まったく同じ言葉が異なる意味を持つので注意が必要だ。
近所の人はうるさいから迷惑するし、自動車で出かけようとするときに恐ろしい思いをする。
そこで親に文句を言いに行くと、親は「子供は社会が育てるものだ」、「お互いに騒音を出しているから受忍すべき」という反論をするという。
親側の理屈も分かる。

思うのだが、もしコミュニティの連絡がもっと密で、お互いの顔を知っていてある程度信用があれば、子供同士もっと大人数で集まって都合のいい家や空き地で遊んだりし、道路で遊ぶ必要もなくはるのではないか。
親もずっと家の真ん前で遊ばせて常に監視している必要もなくなるのではないか。
オボロゲな記憶だが昭和はそうだった。
ふだんは「うちの子にかまうな」、「挨拶もするな」と言っておいて、でも「道路の前で遊ぶときは少々うるさくても寛容にしろ」というのでは、なかなか理解もされないのではないか。
オッサンの立場からすると、ふだんから見知っていて多少挨拶している子供であればしょうしょううるさくても我慢しようという気持ちになるだろう。
一時期近所の工事がうるさくて気がめいっていたのだが、そのビルのオーナーができた人で、大工の棟梁と一緒に一軒一軒回って、「何日ぐらいまでうるさくしますが、どうぞよろしく」と頭を下げてタオルを置いていった。
タオルなんかもらってもうれしくないのだが、それ以来、不思議なもので、昼からカンカンカンカン・・・という音が聞こえても「おお、大工さんがんばってるなー」と思うだけで、不快さはグンと減った。
どういう心理学の作用か知らないが、自分でもびっくりするほど感じ方が変わったのである。

ぼくは単純に「昔は良かった」、「今は他人のふれあいがなくて冷たい社会で、みんな勝手だ」という話をしたいわけではない。
昔は昔でひどかった。
犯罪の数は今より全然多かったし、子供の人権はなくて、チャイルドワークが横行していた。
プライバシーもなかった。
人権意識が向上したという点では、昔より今の方が全然いい。

ぼくが問題だと思うのは、隣接する他人同士で、お互いのことを疑いあったり、敵視しているうちは、この問題は解決しないのに、その傾向にマスコミやネット世論が火に油を注いでいる、貧乏人同士がセコい罵り合いをする方向に煽っていることだ。
これは本当に不幸な状況だと思う。
貧乏人同士の対立を煽り、不幸な状況をメシノタネにしている人がいるのだ。
ぼくとしては、子供がしょうしょううるさくても我慢しようと思うし、だからといって子供がうるさいと本心から気が滅入っている人に向かって「そんなこと言うもんじゃないよ、あんたが子供だった頃のことを思い出せ」と説教しようとも思わない。
「社会全体として、どうこの問題を解決すべきか。自分は何が出来るか」と考えるようにしている。
べつにいい人ぶっているわけではなく、その方が明らかにメンタルコストが安くつくからだ。

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