認めたくない事実だが、ぼくは実年齢より若く見られたいきらいがある。
若い人は美しい、元気がある、感覚が新しい、未来に可能性があるとことさらに思っているわけではない。
年を重ねた人にはそれなりに魅力があると分かっている。
そうではなくて、若い好みの方が生きていてラクチンなのだ。
服装はユニクロやギャップのようなカジュアルなものが好きだ(っていうかそれしか持っていない)。
食べ物も松屋やココイチのようなチープなものが主流である。
夏は半ズボンを履きたいし、盆暮れの挨拶などは可能な限り回避したい。
最も苦手なものがネクタイ、スーツであって、なんで東南アジアの日本に住んでいる俺達がイギリス紳士のコスプレをし、会社に冷房を掛けて、ミニスカートの制服を来たOLが毛布を被って震えていないといけないのかまったく理解できない。

常識とか世間体とかそういうものが苦手なのだ。
基本的にリベラルなというか、ロックンロールなというか、反抗的なものに価値を見出す人間であって、加齢とともに社会から当為として要求されるもの、責任とか、年齢なりの身なり、振る舞いというものを拒否したい気持ちを持っている。
意気がっているわけではなくて、本当に苦手なのだ。
年齢なりの振る舞いを演じる能力の欠如と受け取ってもらって構わない。

若ぶっているからトンガっているとか、人と衝突しているとか、そういうことでもない。
ぼくはあれも苦手である。
盗んだバイクで走りだすとか、夜の校舎のガラスを石で割って歩くとか、ああいうのは「古い人が考える若者像」に迎合しているだけではないか。
盗んだバイクで走りだして、乗ってる本人はこれが青春だと思っているかもしれないが、バイクを盗まれた方はかわいそうである。
学校の校舎のガラスだって一枚いちまい作った工場の人や、それをはめた職人さんの心がこもっているのである。
だいたい学校がいやならやめればいい。
学校は勉強が好きな人が行くところで、若くても純粋に学問の面白さ、美しさに魅せられている人はいっぱいいるだろう。
そういう人が、今日は何を習おう、図書館で何を読もうと思ってワクワクして登校したら、学校のガラスが割れていて、「犯人探し」なんかに付き合わされることになったら大の迷惑である。



話を戻すが、カジュアルな服装や食事が好きだとか、冠婚葬祭に付き合いたくないとかいうのは、年齢には関係なく、単に世間の常識に合わせる能力があるかないか、それに価値を見出すかどうかだけの話かもしれない。
楳図かずおさんとか、水森亜土さんとか、蛭子能収さんとか、マンガ家ばっかりだが、ああいう人たちは年齢なりの服装や立ち居振る舞いを心がけているように見えないし、それで別に失礼とか場違いという感じはしない。
あれを目指したい。

年を取って一つ気になるのが、若い人の方がなんでも知っている、できる、という局面が良くあるのである。
というのは、社会の情報化がどんどん進んでいて、若い人の方が吸収力が大きく、活発に情報に触れているので、あっという間に追いぬかれてしまうのである。

年をとった人で、これを認めない人がたまにいる。
ひと通り若い人がしゃべっていて、「ま、そんなのはどうでもいいんだよ!」とか巻き舌で話す人である。
若いサラリーマンやOLが、あそこのカレーはスリランカ風でおいしい、とか、あそこのカレーは北インド風でおいしい、とか、ワーキャー盛り上がっている時に、「けっきょく蕎麦屋のカレーがいちばんうまいんだよ!」とか言い出す人である。
あれは本当に良くない歳のとり方だ。

自分の勘違いを認めない年寄りというのもいる。
どんどん会話を巻き戻して「え、Aって言ったの、ぼくはBって言ったと思ったんだよ(それを前提に話を組み立てたので、自分の話が変な方向に行ったんだよ)」みたいな、「自分は悪くないストーリー」を構築して、自分の勘違いを隠蔽しようという人である。
なんなら、会話している人の相手や、会議に参加している全員が、その人の勘違いを帳消しにするために知恵をしぼったりする。
「ぼくがxxって言ったのが言い方が悪かったかもしれませんねー」などと<自首>する人もいる。
あの時間がサラリーマン社会の大いなる無駄である。

ぼくはこういう年長者のメンツをたてなければならないという社会が大嫌いだ。
若い頃は、「えっ、ちゃんとAって言いましたよ。そっちも分かっていたはずですよ」などといちいち食って掛かっていた。
こういう軋轢に対する鬱憤が蓄積しているので、いまだにこういう頑迷な老人が苦手で、それがトラウマになって自分の老いとも折り合いが付けられないのかもしれない。
簡単にいうとオトナゲないので、「大人なるもの」を受け入れられないのだろうか。

でも、自分が年を取って思うのは、いまの時代の年寄りは、昔の年寄りとは違うはずだということだ。
これからの年寄りになる人の年の取り方はもっと変わってくるはずである。
よく「少子高齢化が深刻である!」などというが、寿命が長くなっているということは、人生が引き伸ばされるということだ。
織田信長の頃は人間五十年などと言っていたが、当時は十五歳とかで結婚して、就職し、一家をなしていた。
いまは社会に出るだけでも大卒であれば22年も掛かり、それから就職、結婚は三十も四十もザラである。
でも科学が進歩しているから高齢出産も昔より多くなっているし、成功している。

よくテレビで、70を過ぎた評論家が「私達のような70を過ぎた人間が3人に1人になる時代が!」などと恐ろしげにいっているが、そういう時代が来る頃には、70過ぎた人は、今の彼らとは違うのではないか。
服装も派手になっているし、なんなら現役で働いているだろうし、平均寿命も100を越えているだろう。
だから、年を取ることの意味合いも、ぼくが年をとるころには変わっていくと思うし、もう年をとっている人も、今の科学技術や情報化社会を活用すれば、若返ることが可能なはずだ。

自分が気になるのは、自分よりも多くのことを知っている若い人が、自分に持っている知識、教養をちゃんと伝えてくれるかどうかである。
年寄りが若者を先生、先輩、と言って、ちゃんと受け入れてもらえるものであろうか。

以前、英語学習の本で有名な晴山陽一先生と宴席でご一緒させてもらったとき「自分が年を取って思うのは、若い人が自分よりもはるかにものを知っているとき、きまりが悪いような気がするということですね。コンピューターの世界で、特にそういうことが多いんです。自分より若い人を、素直に先生、先輩と呼んでもいいものでしょうか」と言ったら、以下のように即答された。

「それは大昔から普通のことですよ。吉田松陰も、橋本左内も、十代で講義をしていた。そういう人たちを当時の武士たちは素直に先生と仰ぎ、慕ったんですね。少しもおかしいことはありません」
なるほど! と思った。
晴山先生はぼくよりちょっとは年上で、ダンディな服を着ているが、考え方は若いなと思った。
教養がある人は老け込まないんだなー、と感心させられ、勇気づけられたのである。



なぜ今日はこんな話を長々と書いたかというと、毛染めをやめたからである。
ぼくは三十代から茶髪にしている。
最初はおしゃれ染めだったのだが、最近は完全に白髪染めになった。
三十代で茶髪にしてから、一度も染めない時期がなかったので、自分の「白髪の実力」がわからなかったのである。
しかし、先日散髪に言ったら、手違いで刈り上げられてしまって、染められなくなってしまった。
これが結構な白髪なのである。
でも、もう毛染めなんかで時間を掛けるのも面倒になったので、止めてしまった。
それで、年齢と自分についていろいろ考えていたのである。
ぼくを知っている人は、今度会ったらぼくは刈り上げの白髪頭になっているので、笑わないでください。
まあおいらのことなんか、自分で思うほど誰も気にしてないんだけど!

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