Amazon Kindleで電子書籍が安い。
合わせてKobo、eBookJapanでも安くなる。
これらの会社はライバル関係にあるので、常にお互いの価格をウォッチし合っていて、どれかが安くなると他の会社も安くなる。
Kindleは一番露出度が高いので、セール情報は一番早く伝わって来る。
特に過激に電子書籍に協力的なのが角川文庫であって、50%オフ、70%オフというのがある。
合わせてKobo、eBookJapanでも安くなる。
これらの会社はライバル関係にあるので、常にお互いの価格をウォッチし合っていて、どれかが安くなると他の会社も安くなる。
Kindleは一番露出度が高いので、セール情報は一番早く伝わって来る。
特に過激に電子書籍に協力的なのが角川文庫であって、50%オフ、70%オフというのがある。
本の値段というのは電子書籍と紙書籍でどれぐらい違うのが適正なのだろうか。
買う側の論理で言えば、紙書籍は人に貸せ、転売でき、資産として残るので高くて当然だという気もする。
しかし電子書籍はどこにでも何万冊も持って行けるという利便性もある。
売る側の論理で言えば、電書は在庫も印刷も必要なく、売れるたびにデータをコピーすればいいので、どんどん安く出来そうな気がする。
しかし、印刷所や紙工場、問屋、本屋との付き合いもあるし、既存のビジネスモデルを崩せないので、そうそう安くも出来ない。
最近はAmazonがあまりにも本の値引きをしたり(出版社が価格を決めて、値引きを禁ずる再販価格制度が電書には及ばない)、配送料を無料にするのを、出版社が規制させようとする動きもあると聞く。
難しいことは良く分からないので、本稿ではもっぱら一読者の立場で書く。
角川文庫のKindle本が70%オフになったときに、とにかくいずれ読みそうな本を買い漁った。
これが安売りの効果であって、特にいま読みたくもないけどそのうち読むかもしれないから買おうか、と思うのである。
角川というと昭和の懐かしくも猥雑な本、というイメージがあって、江戸川乱歩や横溝正史、そして阿佐田哲也の麻雀小説を買った。
本当は夢野久作なんかも揃えたかったところであるが、『ドグラ・マグラ』他数冊以外は絶版になっていて、買えなかった。
絶版というのは刷っても売れない、本屋に置いてくれないという、紙書籍特有の物理的な事情で行うことであって、電子書籍はその問題がないから、どんどん電子化して欲しいと思うがどうか。
阿佐田哲也は文豪・色川武大氏の別名で、若い頃麻雀小説を書いていたときの名前である。
ぼくは一時筒井康隆が書評で褒めていた本は全部読むという読書のしかたをしていて、『怪しい来客簿』で色川武大の世界にハマった。
終戦直後の日常を徘徊する、異能、異形の人びとが描かれていて、そういう人びとにあくまで寄り添う色川氏の視線を通じて、人生そのものの禍々しさを感じたものだ。
『麻雀放浪記』を始めとする麻雀小説も筒井氏のことも愛読していて、風邪をひいて寝ている時に一気に読んだ、という話をエッセイで読んでいたのでいつか読もうと思っていたのだが、なかなか機会がなかった。
今回熊本に帰郷した帰りの飛行機で、読んでいた本が終わってしまったのでKindleアプリをパラパラ眺めていたら、Kindle電書セールの時に買っていた『麻雀放浪記』が目に止まった。
一読巻を措く能わざるとはこのことで、iPad miniが手放せなくなってしまった。
羽田に着陸するときに読書を中断するのがとてつもなく辛かった。
面白い。
簡単に言うとグレアム・グリーンやル・カレのスパイ小説や、ハメットやチャンドラーのハードボイルド小説のようなスリルと、日本の自然主義文学や私小説のいじましい、匂い立つような日常の世界を合体したものである。
だからこそ、リアルに怖い。
外国のスパイ小説やハードボイルド小説を読んでいても、ベースとなる生活が結構豊かでのんびりしていたり、登場人物がいちいち洒落こいたセリフを言うようなところが、どこか余裕を持って怖がらせているようなところがある。
しかし『麻雀放浪記』の世界はリアルにスリリングである。
最近『リング』や『呪怨』のような日本の日常をベースにした心理的に怖がらせるホラーが「Jホラー」と言われているが、今より50年前に「Jサスペンス」とでも言うべき小説があったのだ。
まあぼくが知らなかっただけであって、この世にはもっとぼくなんかが知らない面白い小説の世界があるんだろうなァ。
そう思って、ちょっとブルッと来たのである。
『麻雀放浪記』は、麻雀だけで生きていこうとする主人公の、人生のすべてが描かれている。
出てくる人間が全員敵だ。
敵同士が状況に応じて助け合ったり、慰め合ったり、健闘を讃えたりする。
それがまた恐ろしく、哀しい。
外国のハードボイルドのように、登場人物が名言をつぶやく。
しかし、これが実感がある。
「平和日本の建設だってよ。だがごまかされちゃいけねえ。平和なんかこの世にあるものか。そんな言葉に乗せられて、世間と仲よく手を握りあったつもりでいると、結局俺達は喰われちまうだけだんだ。世間の上の方と下の方は、喰うか喰われるかなんだからな。なァ、そうだろ」
というセリフがあるが、これなど2014年の現代に読んでも痛烈である。
文章がクリアで、何が起こっているかバッチリ分かり、無駄がない。
それでいて詩想がある。
こういう文章が書けるようになりたい!
高校生の頃は内田百閒や筒井康隆の文章を「二百字帳」に写したりしていたが、この歳になって阿佐田哲也の文章を写してみたいと思った。
相手が勝ち逃げ、負け逃げをしようとすると「俺ァアツいぜ」と言って引き止める。
アツい、というのは、頭がカンカンになっていて、もう麻雀せずにはいられなくなっている、というほどの意味らしい。
ぼくなんかが新宿の、知らない人ばかりが打っている、街の雀荘に行って、やっぱり居心地が悪いから切り上げよう、と思っていると、隣のおっさんに「俺ァアツいぜ」などと言われたらさぞかし怖いだろう。
他にもいろいろ、今の自分では絶対口に出さないような言葉が出てきて、恐ろしいし、ちょっと覚えて真似したくなったりもする。
小説としては、古典となった第1部の青春編がやはり素晴らしい。
しかし、関西を舞台にした第2部の風雲篇も、キョーレツなキャラクターが次々に出てきて面白い。
第2部の後半の盛り上がりが一番面白かったかもしれない。
第3部の激闘編は、ああ、これでこの本を読み終わらなければならないのか、やはりそうか、そうなるのか・・・という悲しさがあって冷静に読めなかったが、坊や哲の麻雀放浪とは何だったか、というテーマに迫っている。
それにしてもひさびさにアツい読書体験だった。
魂を引きずり回されるような感覚にとらわれたのである。
買う側の論理で言えば、紙書籍は人に貸せ、転売でき、資産として残るので高くて当然だという気もする。
しかし電子書籍はどこにでも何万冊も持って行けるという利便性もある。
売る側の論理で言えば、電書は在庫も印刷も必要なく、売れるたびにデータをコピーすればいいので、どんどん安く出来そうな気がする。
しかし、印刷所や紙工場、問屋、本屋との付き合いもあるし、既存のビジネスモデルを崩せないので、そうそう安くも出来ない。
最近はAmazonがあまりにも本の値引きをしたり(出版社が価格を決めて、値引きを禁ずる再販価格制度が電書には及ばない)、配送料を無料にするのを、出版社が規制させようとする動きもあると聞く。
難しいことは良く分からないので、本稿ではもっぱら一読者の立場で書く。
角川文庫のKindle本が70%オフになったときに、とにかくいずれ読みそうな本を買い漁った。
これが安売りの効果であって、特にいま読みたくもないけどそのうち読むかもしれないから買おうか、と思うのである。
角川というと昭和の懐かしくも猥雑な本、というイメージがあって、江戸川乱歩や横溝正史、そして阿佐田哲也の麻雀小説を買った。
本当は夢野久作なんかも揃えたかったところであるが、『ドグラ・マグラ』他数冊以外は絶版になっていて、買えなかった。
絶版というのは刷っても売れない、本屋に置いてくれないという、紙書籍特有の物理的な事情で行うことであって、電子書籍はその問題がないから、どんどん電子化して欲しいと思うがどうか。
阿佐田哲也は文豪・色川武大氏の別名で、若い頃麻雀小説を書いていたときの名前である。
ぼくは一時筒井康隆が書評で褒めていた本は全部読むという読書のしかたをしていて、『怪しい来客簿』で色川武大の世界にハマった。
終戦直後の日常を徘徊する、異能、異形の人びとが描かれていて、そういう人びとにあくまで寄り添う色川氏の視線を通じて、人生そのものの禍々しさを感じたものだ。
『麻雀放浪記』を始めとする麻雀小説も筒井氏のことも愛読していて、風邪をひいて寝ている時に一気に読んだ、という話をエッセイで読んでいたのでいつか読もうと思っていたのだが、なかなか機会がなかった。
今回熊本に帰郷した帰りの飛行機で、読んでいた本が終わってしまったのでKindleアプリをパラパラ眺めていたら、Kindle電書セールの時に買っていた『麻雀放浪記』が目に止まった。
一読巻を措く能わざるとはこのことで、iPad miniが手放せなくなってしまった。
羽田に着陸するときに読書を中断するのがとてつもなく辛かった。
面白い。
簡単に言うとグレアム・グリーンやル・カレのスパイ小説や、ハメットやチャンドラーのハードボイルド小説のようなスリルと、日本の自然主義文学や私小説のいじましい、匂い立つような日常の世界を合体したものである。
だからこそ、リアルに怖い。
外国のスパイ小説やハードボイルド小説を読んでいても、ベースとなる生活が結構豊かでのんびりしていたり、登場人物がいちいち洒落こいたセリフを言うようなところが、どこか余裕を持って怖がらせているようなところがある。
しかし『麻雀放浪記』の世界はリアルにスリリングである。
最近『リング』や『呪怨』のような日本の日常をベースにした心理的に怖がらせるホラーが「Jホラー」と言われているが、今より50年前に「Jサスペンス」とでも言うべき小説があったのだ。
まあぼくが知らなかっただけであって、この世にはもっとぼくなんかが知らない面白い小説の世界があるんだろうなァ。
そう思って、ちょっとブルッと来たのである。
『麻雀放浪記』は、麻雀だけで生きていこうとする主人公の、人生のすべてが描かれている。
出てくる人間が全員敵だ。
敵同士が状況に応じて助け合ったり、慰め合ったり、健闘を讃えたりする。
それがまた恐ろしく、哀しい。
外国のハードボイルドのように、登場人物が名言をつぶやく。
しかし、これが実感がある。
「平和日本の建設だってよ。だがごまかされちゃいけねえ。平和なんかこの世にあるものか。そんな言葉に乗せられて、世間と仲よく手を握りあったつもりでいると、結局俺達は喰われちまうだけだんだ。世間の上の方と下の方は、喰うか喰われるかなんだからな。なァ、そうだろ」
というセリフがあるが、これなど2014年の現代に読んでも痛烈である。
文章がクリアで、何が起こっているかバッチリ分かり、無駄がない。
それでいて詩想がある。
こういう文章が書けるようになりたい!
高校生の頃は内田百閒や筒井康隆の文章を「二百字帳」に写したりしていたが、この歳になって阿佐田哲也の文章を写してみたいと思った。
相手が勝ち逃げ、負け逃げをしようとすると「俺ァアツいぜ」と言って引き止める。
アツい、というのは、頭がカンカンになっていて、もう麻雀せずにはいられなくなっている、というほどの意味らしい。
ぼくなんかが新宿の、知らない人ばかりが打っている、街の雀荘に行って、やっぱり居心地が悪いから切り上げよう、と思っていると、隣のおっさんに「俺ァアツいぜ」などと言われたらさぞかし怖いだろう。
他にもいろいろ、今の自分では絶対口に出さないような言葉が出てきて、恐ろしいし、ちょっと覚えて真似したくなったりもする。
小説としては、古典となった第1部の青春編がやはり素晴らしい。
しかし、関西を舞台にした第2部の風雲篇も、キョーレツなキャラクターが次々に出てきて面白い。
第2部の後半の盛り上がりが一番面白かったかもしれない。
第3部の激闘編は、ああ、これでこの本を読み終わらなければならないのか、やはりそうか、そうなるのか・・・という悲しさがあって冷静に読めなかったが、坊や哲の麻雀放浪とは何だったか、というテーマに迫っている。
それにしてもひさびさにアツい読書体験だった。
魂を引きずり回されるような感覚にとらわれたのである。