ついにこのアルバムを紹介する日が来た。
ジョン・アンダーソン抜きのイエスのアルバムである。
ジョン・アンダーソン抜きのイエスのアルバムである。
ジョン・アンダーソン抜きのイエスとはどんなものだろうか。
ジョー・ザヴィヌル抜きのウェザー・リポート。
ブライアン・フェリー抜きのロキシー・ミュージック。
そんな感じだろうか。
ピーター・ゲイブリエル(昔はガブリエルと言っていた)抜きのジェネシス。
まあそれはフィル・コリンズ中心でしばらく立派に活動していた。
前川清抜きの内山田洋とクール・ファイブも立派に活動をやっていたが、とにかく、それぐらい影響力のあるフロント・マンが抜けたのだ。
ぼくは、イエスはジョンの完全なソロ・プロジェクトだと思っている。
イエスの曲は普通の音楽の常識では考えられないぐらい変拍子やテンポ・チェンジが多いが、音楽の技巧を凝らしているだけでなく、ジョンが適当にフンフンと歌っている歌を、バンドが超絶技巧で異常に忠実に音楽化するためにああなっているというのが、ぼくの解釈だ。
それが合っているかどうかは分からないが、とにかくイエス=ジョンだと思う。
ジョンの空想的で、SF的、宗教的な世界が、イエスの現実感のない、浮揚感、高揚感に満ちた音楽として体現化している。
そう思っていた。
そのイエスからジョンが抜けた。
ありうるのだろうか。
当時の経緯としてはこんなものだったらしい。
70年代の末期になって、パンクやニュー・ウェイヴなどのシンプルな音楽がシーンを席巻していた。
それに合わせてイエスは、これまでの重厚長大なイメージを捨て、『究極』、『トーマト』と、曲のコンパクト化、ポップ化を計っていた。
次のアルバムに備えて、ジョンは後にソロ・アルバム『七つの詩』に収録されることになるいくつかの曲をイエス用に提示した。
しかしあまりにもヴォーカル中心で小品主義であったため(?)ハウやスクワイヤから不興を買い、結局ジョンがイエスを脱退した。
ウェイクマンも「ジョンが抜けたイエスにとどまり続けるのはトラブルのもとだ」的な言葉を残してイエスを脱退した。
この頃、トレヴァー・ホーン(ベース)、ジェフリー・ダウンズ(キーボード)、ブルース・ウーリー(ギター)の3人からなるエレクトロニック・ポップ・バンド、バグルスの曲「ラジオスターの悲劇」(Video Killed The Radio Star)が全英第一位になっていた。
バグルスとイエスはともにブライアン・レーンというマネージャーがマネージメントしていて、もともとイエスの大ファンであったトレヴァーとダウンズはバグルズを脱退し、イエスに参加した。
なお、ブルース・ウーリーはもともと「ブルース・ウーリー&ザ・カメラ・クラブ」というバンド名で「ラジオスターの悲劇」をカナダでヒットさせており、こっちの方がオリジナル・ヴァージョンである。
しかしこの曲は、よりシンセサイザーを強調したバグルスのヴァージョンがあまりにも有名であろう。
こうしてホーン、ダウンズ、ハウ、スクワイヤ、ホワイトによる新生イエス、通称「ドラマ・イエス」によるアルバム『ドラマ』が発表された。
レコードの帯には「イエス・クーデター」と書かれていたのを今でも覚えている。
ジャケットがロジャー・ディーンであるのがまず目を引く。
ディーンは『こわれもの』、『危機』、『海洋地形学の物語』、『リレイヤー』と、幻想的なアート・ワークでイエスのアルバムのイメージを支えてきた、いわば6人目のイエスと言える幻想画家である。
細長い稜線の風景を描くのが特徴で、その後の映画『アバター』がロジャー・ディーンの世界にそっくり(はっきり言ってしまえばマルパクリ)だと一時話題になった。
しかし『究極』、『トーマト』では、より現実的でナウい感じのデザイン工房ヒプノシスのデザインに変わった。
これが『ドラマ』でロジャー・ディーンに戻したことが、バンドの懐古的な、「本家イエスは俺たちだ」的な主張を感じる。
ジョンがいないイエス。
あまり想像がつかない、想像したくもない感じであるが、それでもゴシップ的な興味でどうしても聴いてみたいのはヤマヤマである。
当時は本当にワクワクして聴いた。
そして、違和感があまりないのに驚いた。
特にホーンのヴォーカルが(トレヴァー・ホーンが歌っていたのである)ジョンのモノマネかと思うぐらい違和感がなくて、笑ってしまったのを覚えている。
M1「マシーン・メサイア」は巨大コンピューターとかそういうものを連想させる題名だが、まずおどろおどろしいハード・ロックというかヘヴィー・メタル的なテーマで始まる。
続いていかにもイエス的なテーマが出てくるが、ホーンのヴォーカルがジョンを明らかに意識しており、ハウやスクワイヤとのコーラスも馴染んでいる。
ダウンズのキーボードは、ポリムーグの音色を残した、割りと当時のニュー・ウェイヴ的な、同じイエスの『トーマト』や、当時アメリカで流行っていたバンド「カーズ」を連想させるナウい感じの音だ。
(いま思うと当時のシンセサイザーは大体こんな感じだった気がする)
この曲1曲をを聴いただけで、「ドラマ・イエス」の音楽性が大体わかってしまう。
・壮大な、重厚長大なイメージを演出していて、旧来のイエス・ファンの期待におもねっている
・しかし、本格的なジョンの幻想世界、思想を表現することは当然出来ていない
・本人たちの意志に反してナウい、ポップな、ニュー・ウェイヴ的な印象になっている
・ダウンズのキーボードも含めて、演奏力は異常に高い
・ホーンの歌声がジョンに似すぎていて笑ってしまう
と言う感じ。
どんと飛んでM4「レンズの中へ(I am a Camera)」は、のちに発表されるバグルスのアルバム『モダン・レコーディングの冒険』にも収録されている、ホーン本来の持ち味を出したちょっとユーモラスな曲だ。
ホーンのヴォーカルも、ジョンの真似を排して、本来の自分のキーで歌っているようだ。
あとスクワイヤーがホーンのようなユーモラスなサングラスを掛けているのがおかしい。
シングル1枚、アルバム2枚で終わってしまったバグルスであるが、本来この曲で表現されているような、ユーモラスで、皮肉な、「すこし・ふしぎ」感が横溢した作風の持ち主である。
同じプログレ、SF的な音楽でも10ccやカフェ・ジャックスに近い、旧来のプログレやSFを客観的に皮肉な目で見ることでさらに発展させた作風を持っていたと思しい。
ホーンが「ラジオスター」を書くときに参考にしたのがニュー・ウェイヴSFの旗手J・G・バラードの世界であるのも象徴的である。
ジョンの描く雄大で思想的な本気の幻想世界とは、同じSFでも視点が変わっているのである。
アルバム最後を飾るM6「光陰矢の如し」(Tempus Fugit)は、このアルバムの最高傑作である。
この曲だけは、いま聴いても素晴らしい。
さっきの「レンズの中へ」とこの曲は、どちらもYouTubeから公式ビデオを貼っているのだが、同じスタジオでシンク演奏をしているだけで、まったく工夫が見られない。
前作『トーマト』の「マドリガル」を見れば分かるように、当時は初期MV全盛時代だったのだが、『ドラマ』に関しては何の設定も、ロケもない。
「光陰矢の如し」など、ジャケットに出てくる黒豹が氷河を疾走する映像なんか入れたら良かったと思うのだが、お金がなかったのか、そういう気分でもなかったのだろうか。
歌詞にYesというバンド名が織り込まれているのがいい。
俺達はこの編成でイエスをやっていくんだ、という決意表明の曲である。
ダウンズがヴォコーダーで「Yes, Yes」と歌うのも素晴らしい。
ハウも楽しそうに弾きまくっている。
スパニッシュとハード・ロックを合体させたようなお得意のソロに交えて、ポリス風のカッティング・コードを聴かせているのも面白い。
ということで、イエスをやる気マンマンであったこの5人だが、古参のファンには受け入れられなかった。
ホーンのヴォーカルが違和感があった、ライヴ会場でも罵声が飛んでホーンが涙していた、と抱えている記事もあるが、それよりも「イエス」の名を背負うにはやや音楽性が浅かったことが問題だろう。
ホーンに関しては本来のブラック・ユーモア的な才能を生かしきれていなかった。
結局ホーンとダウンズは脱退し、再びバグルスとしてセカンド・アルバム『モダン・レコーディングの冒険』を作る。
このアルバムの中にはイエス時代のライヴ音源(歓声)が入っていて、スクワイヤーの名がクレジットされている。
(ただし、スクワイヤーはそのことを後まで知らなかったらしい)
その後ホーンはスーパー・プロデューサー、80年代ポップスの仕掛け人として数々の一発屋を生み出すのだが、それはこの連載で復活イエスの「ロンリー・ハート」を紹介するときに書くことになるだろう。
ダウンズはレーンの導きでハウと共にエイジアを結成した。
メンバー面から見ると超プログレ・スーパーバンド(プログレをやっていて手が空いた人がやっていたバンド)で、音楽的にはまったく新味のない超・産業ロックバンドのエイジアだが、ダウンズはこのバンドの影のリーダーとして長く活動することになる。
ぼくはエイジアはまったく興味がなかったので語ることはあまりない。
(いま聴き返すと意外と良かったりするのかなァ)
スクワイヤーとホワイトは、なんとジミー・ペイジとXYZというバンドを作る。
(ex Yes & Zeppelinという意味らしい)
リハーサル音源だけが残されている。
リハーサルなので評価はできないが、薄味にしたツェッペリンという感じの音楽で、ぼくにはあまり面白さがわからない。
このビデオの3:50あたりにイエスが後にアルバム『Magnification』でとりあげる曲「Can you imagine」がすでに完全な曲で入っている。
しかし、このバンドは実現しなかった。
一方ジョンは、イエス用に提供した曲を中心にアルバム『七つの詩』(Song of Seven)を出していた。
ジャック・ブルース、サイモン・フィリップス、クレム・クレムソンという超豪華メンバーが参加したアルバムだが、暖かくて楽しい小品が多い。
イエスとしては迫力がないと思うが、大好きなアルバムである。
特にM4「ハート・オヴ・マター」とM6「エヴリバディ・ラヴズ・ユー」が素晴らしい。
「ハート・オヴ・マター」はジョンが隠し持っていたポップ性を爆発させた曲で、ジャクソン5やオズモンズのようなバブルガム・ポップのテイストもある。
ジョンの高音が最大限に生かされた曲である。
イエスの曲にこういうポップな曲がないかというと、サード・アルバムに入っている「パーペチュアル・チェインジ」とか、サイモンとガーファンクルのカヴァーである「アメリカ」などはこの曲とテイストが似ている。
もしこの曲をハウ、スクワイヤーが全力で演奏していたら、それはそれで面白かったと思うのだが・・・。
「エヴリバディ・ラヴズ・ユー」はジョンが書いた楽曲の中で最も好きな一つである。
当時はカセットテープに好きな曲を順番を考えて入れて聴く、なんならそれを気になる女子に渡す、という今思えばハタ迷惑なことを、当時洋楽好きなら誰でもやってたと思うだが(やってたよね?)ぼくはここぞというときの「勝負曲」にこの「エヴリバディ・ラヴズ・ユー」を入れていた。
実にシンプルでポップな曲だが、イエスの虚飾性、もったいぶったゴテゴテした部分を取り除いた、ジョンの音楽性の核心に迫ったような作品である。
もしイエスの人間関係がうまく行っていたら、この曲をハウやスクワイヤーやウェイクマンがどのようにアレンジしていたのだろうか。
逆にとんでもない大曲になっていたかもしれないが、それを聴いてみたかった。
しかし、こういったジョンの曲の良さを、ハウもスクワイヤーも認めなかった。
この後、彼らが再会するまでに、実に3年の歳月を要したのである。
ジョー・ザヴィヌル抜きのウェザー・リポート。
ブライアン・フェリー抜きのロキシー・ミュージック。
そんな感じだろうか。
ピーター・ゲイブリエル(昔はガブリエルと言っていた)抜きのジェネシス。
まあそれはフィル・コリンズ中心でしばらく立派に活動していた。
前川清抜きの内山田洋とクール・ファイブも立派に活動をやっていたが、とにかく、それぐらい影響力のあるフロント・マンが抜けたのだ。
ぼくは、イエスはジョンの完全なソロ・プロジェクトだと思っている。
イエスの曲は普通の音楽の常識では考えられないぐらい変拍子やテンポ・チェンジが多いが、音楽の技巧を凝らしているだけでなく、ジョンが適当にフンフンと歌っている歌を、バンドが超絶技巧で異常に忠実に音楽化するためにああなっているというのが、ぼくの解釈だ。
それが合っているかどうかは分からないが、とにかくイエス=ジョンだと思う。
ジョンの空想的で、SF的、宗教的な世界が、イエスの現実感のない、浮揚感、高揚感に満ちた音楽として体現化している。
そう思っていた。
そのイエスからジョンが抜けた。
ありうるのだろうか。
当時の経緯としてはこんなものだったらしい。
70年代の末期になって、パンクやニュー・ウェイヴなどのシンプルな音楽がシーンを席巻していた。
それに合わせてイエスは、これまでの重厚長大なイメージを捨て、『究極』、『トーマト』と、曲のコンパクト化、ポップ化を計っていた。
次のアルバムに備えて、ジョンは後にソロ・アルバム『七つの詩』に収録されることになるいくつかの曲をイエス用に提示した。
しかしあまりにもヴォーカル中心で小品主義であったため(?)ハウやスクワイヤから不興を買い、結局ジョンがイエスを脱退した。
ウェイクマンも「ジョンが抜けたイエスにとどまり続けるのはトラブルのもとだ」的な言葉を残してイエスを脱退した。
この頃、トレヴァー・ホーン(ベース)、ジェフリー・ダウンズ(キーボード)、ブルース・ウーリー(ギター)の3人からなるエレクトロニック・ポップ・バンド、バグルスの曲「ラジオスターの悲劇」(Video Killed The Radio Star)が全英第一位になっていた。
バグルスとイエスはともにブライアン・レーンというマネージャーがマネージメントしていて、もともとイエスの大ファンであったトレヴァーとダウンズはバグルズを脱退し、イエスに参加した。
なお、ブルース・ウーリーはもともと「ブルース・ウーリー&ザ・カメラ・クラブ」というバンド名で「ラジオスターの悲劇」をカナダでヒットさせており、こっちの方がオリジナル・ヴァージョンである。
しかしこの曲は、よりシンセサイザーを強調したバグルスのヴァージョンがあまりにも有名であろう。
こうしてホーン、ダウンズ、ハウ、スクワイヤ、ホワイトによる新生イエス、通称「ドラマ・イエス」によるアルバム『ドラマ』が発表された。
レコードの帯には「イエス・クーデター」と書かれていたのを今でも覚えている。
ジャケットがロジャー・ディーンであるのがまず目を引く。
ディーンは『こわれもの』、『危機』、『海洋地形学の物語』、『リレイヤー』と、幻想的なアート・ワークでイエスのアルバムのイメージを支えてきた、いわば6人目のイエスと言える幻想画家である。
細長い稜線の風景を描くのが特徴で、その後の映画『アバター』がロジャー・ディーンの世界にそっくり(はっきり言ってしまえばマルパクリ)だと一時話題になった。
しかし『究極』、『トーマト』では、より現実的でナウい感じのデザイン工房ヒプノシスのデザインに変わった。
これが『ドラマ』でロジャー・ディーンに戻したことが、バンドの懐古的な、「本家イエスは俺たちだ」的な主張を感じる。
ジョンがいないイエス。
あまり想像がつかない、想像したくもない感じであるが、それでもゴシップ的な興味でどうしても聴いてみたいのはヤマヤマである。
当時は本当にワクワクして聴いた。
そして、違和感があまりないのに驚いた。
特にホーンのヴォーカルが(トレヴァー・ホーンが歌っていたのである)ジョンのモノマネかと思うぐらい違和感がなくて、笑ってしまったのを覚えている。
M1「マシーン・メサイア」は巨大コンピューターとかそういうものを連想させる題名だが、まずおどろおどろしいハード・ロックというかヘヴィー・メタル的なテーマで始まる。
続いていかにもイエス的なテーマが出てくるが、ホーンのヴォーカルがジョンを明らかに意識しており、ハウやスクワイヤとのコーラスも馴染んでいる。
ダウンズのキーボードは、ポリムーグの音色を残した、割りと当時のニュー・ウェイヴ的な、同じイエスの『トーマト』や、当時アメリカで流行っていたバンド「カーズ」を連想させるナウい感じの音だ。
(いま思うと当時のシンセサイザーは大体こんな感じだった気がする)
この曲1曲をを聴いただけで、「ドラマ・イエス」の音楽性が大体わかってしまう。
・壮大な、重厚長大なイメージを演出していて、旧来のイエス・ファンの期待におもねっている
・しかし、本格的なジョンの幻想世界、思想を表現することは当然出来ていない
・本人たちの意志に反してナウい、ポップな、ニュー・ウェイヴ的な印象になっている
・ダウンズのキーボードも含めて、演奏力は異常に高い
・ホーンの歌声がジョンに似すぎていて笑ってしまう
と言う感じ。
どんと飛んでM4「レンズの中へ(I am a Camera)」は、のちに発表されるバグルスのアルバム『モダン・レコーディングの冒険』にも収録されている、ホーン本来の持ち味を出したちょっとユーモラスな曲だ。
ホーンのヴォーカルも、ジョンの真似を排して、本来の自分のキーで歌っているようだ。
あとスクワイヤーがホーンのようなユーモラスなサングラスを掛けているのがおかしい。
シングル1枚、アルバム2枚で終わってしまったバグルスであるが、本来この曲で表現されているような、ユーモラスで、皮肉な、「すこし・ふしぎ」感が横溢した作風の持ち主である。
同じプログレ、SF的な音楽でも10ccやカフェ・ジャックスに近い、旧来のプログレやSFを客観的に皮肉な目で見ることでさらに発展させた作風を持っていたと思しい。
ホーンが「ラジオスター」を書くときに参考にしたのがニュー・ウェイヴSFの旗手J・G・バラードの世界であるのも象徴的である。
ジョンの描く雄大で思想的な本気の幻想世界とは、同じSFでも視点が変わっているのである。
アルバム最後を飾るM6「光陰矢の如し」(Tempus Fugit)は、このアルバムの最高傑作である。
この曲だけは、いま聴いても素晴らしい。
さっきの「レンズの中へ」とこの曲は、どちらもYouTubeから公式ビデオを貼っているのだが、同じスタジオでシンク演奏をしているだけで、まったく工夫が見られない。
前作『トーマト』の「マドリガル」を見れば分かるように、当時は初期MV全盛時代だったのだが、『ドラマ』に関しては何の設定も、ロケもない。
「光陰矢の如し」など、ジャケットに出てくる黒豹が氷河を疾走する映像なんか入れたら良かったと思うのだが、お金がなかったのか、そういう気分でもなかったのだろうか。
歌詞にYesというバンド名が織り込まれているのがいい。
俺達はこの編成でイエスをやっていくんだ、という決意表明の曲である。
ダウンズがヴォコーダーで「Yes, Yes」と歌うのも素晴らしい。
ハウも楽しそうに弾きまくっている。
スパニッシュとハード・ロックを合体させたようなお得意のソロに交えて、ポリス風のカッティング・コードを聴かせているのも面白い。
ということで、イエスをやる気マンマンであったこの5人だが、古参のファンには受け入れられなかった。
ホーンのヴォーカルが違和感があった、ライヴ会場でも罵声が飛んでホーンが涙していた、と抱えている記事もあるが、それよりも「イエス」の名を背負うにはやや音楽性が浅かったことが問題だろう。
ホーンに関しては本来のブラック・ユーモア的な才能を生かしきれていなかった。
結局ホーンとダウンズは脱退し、再びバグルスとしてセカンド・アルバム『モダン・レコーディングの冒険』を作る。
このアルバムの中にはイエス時代のライヴ音源(歓声)が入っていて、スクワイヤーの名がクレジットされている。
(ただし、スクワイヤーはそのことを後まで知らなかったらしい)
その後ホーンはスーパー・プロデューサー、80年代ポップスの仕掛け人として数々の一発屋を生み出すのだが、それはこの連載で復活イエスの「ロンリー・ハート」を紹介するときに書くことになるだろう。
ダウンズはレーンの導きでハウと共にエイジアを結成した。
メンバー面から見ると超プログレ・スーパーバンド(プログレをやっていて手が空いた人がやっていたバンド)で、音楽的にはまったく新味のない超・産業ロックバンドのエイジアだが、ダウンズはこのバンドの影のリーダーとして長く活動することになる。
ぼくはエイジアはまったく興味がなかったので語ることはあまりない。
(いま聴き返すと意外と良かったりするのかなァ)
スクワイヤーとホワイトは、なんとジミー・ペイジとXYZというバンドを作る。
(ex Yes & Zeppelinという意味らしい)
リハーサル音源だけが残されている。
リハーサルなので評価はできないが、薄味にしたツェッペリンという感じの音楽で、ぼくにはあまり面白さがわからない。
このビデオの3:50あたりにイエスが後にアルバム『Magnification』でとりあげる曲「Can you imagine」がすでに完全な曲で入っている。
しかし、このバンドは実現しなかった。
一方ジョンは、イエス用に提供した曲を中心にアルバム『七つの詩』(Song of Seven)を出していた。
ジャック・ブルース、サイモン・フィリップス、クレム・クレムソンという超豪華メンバーが参加したアルバムだが、暖かくて楽しい小品が多い。
イエスとしては迫力がないと思うが、大好きなアルバムである。
特にM4「ハート・オヴ・マター」とM6「エヴリバディ・ラヴズ・ユー」が素晴らしい。
「ハート・オヴ・マター」はジョンが隠し持っていたポップ性を爆発させた曲で、ジャクソン5やオズモンズのようなバブルガム・ポップのテイストもある。
ジョンの高音が最大限に生かされた曲である。
イエスの曲にこういうポップな曲がないかというと、サード・アルバムに入っている「パーペチュアル・チェインジ」とか、サイモンとガーファンクルのカヴァーである「アメリカ」などはこの曲とテイストが似ている。
もしこの曲をハウ、スクワイヤーが全力で演奏していたら、それはそれで面白かったと思うのだが・・・。
「エヴリバディ・ラヴズ・ユー」はジョンが書いた楽曲の中で最も好きな一つである。
当時はカセットテープに好きな曲を順番を考えて入れて聴く、なんならそれを気になる女子に渡す、という今思えばハタ迷惑なことを、当時洋楽好きなら誰でもやってたと思うだが(やってたよね?)ぼくはここぞというときの「勝負曲」にこの「エヴリバディ・ラヴズ・ユー」を入れていた。
実にシンプルでポップな曲だが、イエスの虚飾性、もったいぶったゴテゴテした部分を取り除いた、ジョンの音楽性の核心に迫ったような作品である。
もしイエスの人間関係がうまく行っていたら、この曲をハウやスクワイヤーやウェイクマンがどのようにアレンジしていたのだろうか。
逆にとんでもない大曲になっていたかもしれないが、それを聴いてみたかった。
しかし、こういったジョンの曲の良さを、ハウもスクワイヤーも認めなかった。
この後、彼らが再会するまでに、実に3年の歳月を要したのである。