昨年夏に参加した「ブロガーサミット」というイベントで、ブログ「みたいもん!」のいしたにまさきさんが、「人は、自分が好きなものを思い込んでいることが多い」という意味のことをおっしゃっていて、なるほどなーと思った。
イジハピ! : 【第416回】【ブログについて(3)】ブロガーサミット2013に参加しました
[mi]みたいもん!
イジハピ! : 【第416回】【ブログについて(3)】ブロガーサミット2013に参加しました
[mi]みたいもん!
流行っているものを、ネットなどで好きだと言うと、あれ私も好きなんですよ、と言う人に会えて、共感が得られる。
電子ガジェットや、Webサービス、iPhoneアプリや、DVD、本などである。
で、別のものを、それも大多数の人に先んじて好きになると、おお、早いですねえ、とか言われる。
ちょっと得意げな気分になる。
それで、生きている時間の相当部分が、「好き」と言いたいもの、「好き」と言うことで株が上がるものの渉猟に当てられることになる。
まあ、結構楽しい。
新しいものを仕入れて触れているのは、楽しいことなのである。
でもそのうち、あることに気づく。
自分は本当に「好き」だからこれを「好き」と言っているのか?
自分がこれを「好き」と言うと、自分の株が上がるような気がして、ことさらに「好き」と言っているのではないだろうか?
そこまで他人志向でなくても、自分が好きな人、憧れる人がやっているから、流行りだからやっていること、というのは多い。
知り合いに何十年もパソコンが使いこなせない人がいる。
よくある「WiFiの設定をしに家に来てくれというような人」である。
でも、おかしな話である。
そこまで何十年も「WiFiの設定」が出来ないような人であれば、そもそもパソコンなんか使いたくない人なのではないだろうか。
いっぽう、別の知り合いで、「今度家でパーティをするから来てください」と「はがき」をくれる人がいる。
この人はケータイさえ持っていない人なのだが、そこそこ楽しそうに人生を楽しんでいるのである。
何十年もパソコンが苦手で苦しんでいるけど、パソコンが好きだ、あるいは、これからの時代パソコンぐらい使いこなせないと、と思っている人は、相当時間を無駄にしている。
でも、難しい問題ではある。
本当に苦手なのかどうかは、ある程度やってみないと分からないのである。
ある程度やってみて、やっぱりダメだ、と思ったらあきらめればいいのだが、「ここまでやってきた苦労が無駄になる」と思うと、そうそう簡単にあきらめられない場合もあるだろう。
もうあまり聞かなくなったが、以前はMac vs. Windows宗教論争というのがあった。
今はiPhone vs. Android、ガラケー vs. スマホというのがある。
まあ、一頃のようにバカみたいにネットで口論する現場も見なくなったが、「自分の過去の選択は正しかったと思いたい」ために自分が属する陣営を必要以上に擁護する場合がある。
本や音楽や映画などの場合は、優れた作品、流行りの作品を称揚することで自分の価値まで上がると思っているような発言もある。
これが時々鼻につく。
誰々の作品が好きだ、とことさらに言ってみたところで、その人の価値にそのアーティストの威光が及ぶわけではないのである。
こんなブログも含めて、素人がネットで発信する情報は「xxが好きだ!」、「xxイイね!」という情報になりがちだ。
人の好みを聞くのは楽しいし、自分の好みを語るのも楽しい。それは事実だ。
ぼくなんかの話が誰かの楽しみになっているといいなと思う。
しかし、それは本当に好きで言っているのか、無理してないか、時流におもねってないか、人の作品の威光を借りようとしていないかを、たまにチェックする必要がある。
電子ガジェットや、Webサービス、iPhoneアプリや、DVD、本などである。
で、別のものを、それも大多数の人に先んじて好きになると、おお、早いですねえ、とか言われる。
ちょっと得意げな気分になる。
それで、生きている時間の相当部分が、「好き」と言いたいもの、「好き」と言うことで株が上がるものの渉猟に当てられることになる。
まあ、結構楽しい。
新しいものを仕入れて触れているのは、楽しいことなのである。
でもそのうち、あることに気づく。
自分は本当に「好き」だからこれを「好き」と言っているのか?
自分がこれを「好き」と言うと、自分の株が上がるような気がして、ことさらに「好き」と言っているのではないだろうか?
そこまで他人志向でなくても、自分が好きな人、憧れる人がやっているから、流行りだからやっていること、というのは多い。
知り合いに何十年もパソコンが使いこなせない人がいる。
よくある「WiFiの設定をしに家に来てくれというような人」である。
でも、おかしな話である。
そこまで何十年も「WiFiの設定」が出来ないような人であれば、そもそもパソコンなんか使いたくない人なのではないだろうか。
いっぽう、別の知り合いで、「今度家でパーティをするから来てください」と「はがき」をくれる人がいる。
この人はケータイさえ持っていない人なのだが、そこそこ楽しそうに人生を楽しんでいるのである。
何十年もパソコンが苦手で苦しんでいるけど、パソコンが好きだ、あるいは、これからの時代パソコンぐらい使いこなせないと、と思っている人は、相当時間を無駄にしている。
でも、難しい問題ではある。
本当に苦手なのかどうかは、ある程度やってみないと分からないのである。
ある程度やってみて、やっぱりダメだ、と思ったらあきらめればいいのだが、「ここまでやってきた苦労が無駄になる」と思うと、そうそう簡単にあきらめられない場合もあるだろう。
もうあまり聞かなくなったが、以前はMac vs. Windows宗教論争というのがあった。
今はiPhone vs. Android、ガラケー vs. スマホというのがある。
まあ、一頃のようにバカみたいにネットで口論する現場も見なくなったが、「自分の過去の選択は正しかったと思いたい」ために自分が属する陣営を必要以上に擁護する場合がある。
本や音楽や映画などの場合は、優れた作品、流行りの作品を称揚することで自分の価値まで上がると思っているような発言もある。
これが時々鼻につく。
誰々の作品が好きだ、とことさらに言ってみたところで、その人の価値にそのアーティストの威光が及ぶわけではないのである。
こんなブログも含めて、素人がネットで発信する情報は「xxが好きだ!」、「xxイイね!」という情報になりがちだ。
人の好みを聞くのは楽しいし、自分の好みを語るのも楽しい。それは事実だ。
ぼくなんかの話が誰かの楽しみになっているといいなと思う。
しかし、それは本当に好きで言っているのか、無理してないか、時流におもねってないか、人の作品の威光を借りようとしていないかを、たまにチェックする必要がある。