★来週一週間ブログをお休みします★

原発、反原発の問題で世論が割れている。
ぼくは反原発派である。
地震国日本に原発を林立させるのは無理だ。
原発が危険であることは、為政者も知っていることで、だから原発は田舎に作る。
東京にも、神奈川にも、千葉にも作らない。
太い電線を、日本を縦断させて、電気は東京で使っている。
これは差別の構造である。
東京オリンピックを招致する人が「東京には原発はありません」「福島は東京から遠くはなれています」「だから大丈夫です」と言ったのは記憶に新しい。

こうやって書いていると、原発反対のやつが電気使ってネットで批判してんじゃねーよ、と言われる。
もっとも現在、原発はまったく動いていないから、ぼくは原発の電気でネットを使っているわけではない。
原発がなくなったら日本が滅びる、というが、現実に原発なしで、まあまあやっていけている。
原発がないと江戸時代に戻る、と言っていたが、明治時代に原発はなかった。
原発が出来たのは昭和も後期である。
ぼくは高度成長時代に少年期を過ごしたが、その間もずーっと原発なしだった。

3.11の地震で節電ムードになり、街の明かりが暗くなった。
でもイギリス人の知り合いが「ロンドンはこれぐらいだ、日本は普段が明るすぎる」と言っていた。
その後ぼくはスペインのマドリードに行ったが、マドリードはもっと暗い。
暗くて寂しいかというと、ムードがあっていいのである。
まあ街の灯りが使用電気料の何パーセントかもぼくは知らない。

ぼくたちに必要なのは「原発は全部反対」「じゃあ電気使ってんじゃねーよ」というゼロか1かの議論ではなく、原発はどれぐらい今の生活に寄与しているのか、なくなったら誰がどれぐらい困るのか、使っている電気をどれだけ削減できるのか、代替電力はどれぐらい当てになるのか、スマートグリッドはどれぐらい節電になるのか、という議論である。
ぼくはとりあえず家中の電灯をLEDに変えたら、結構な電気代の削減になった。
昔はオイルヒーターを切り忘れて無人の家を温めたりしていたのだが、そういうこともしなくなった。
家でヒートテックを着て、ルームシューズを履いているとそれほど暖房もいらない。
去年の冬の電気代が、それ以前のよりも全然安くて驚いたのだが、今年はさらに削減できている。
節電ってすごいね。
前が使いすぎだったんだけど。
とりあえず浮いた電気でブログぐらい書かせてください。
じっさい、節電のパワーはすごい。
去年の夏も、結局目標をはるかに下回る量の電気しか使わなかったと聞く。

火力発電の技術も革新を続けているだろうし、スマート・グリッドなどの送電システムも改善の余地があるし、メタンハイドレートやシェールオイルのような新燃料もある。

もちろん本流は太陽光発電だろう。
思えば、石油も石炭も昔の動植物の死骸であるから、太陽エネルギーである。

太陽光発電の問題点は、原発の問題点と一緒で、電気を貯めておけない、ということだ。
前から金属酸化物を電気分解してエネルギーを貯蔵すればいいんじゃないか、と思っていたが、検討の余地があると思う。
矢部 孝さんが提唱する『マグネシウム文明論』は驚くべき内容で、しかも理にかなっているように思える。
ご一読をおすすめしたい。

もし、原発が電気だけの問題であれば、東京に置けないほど危険なものを誰も作りたくないし、廃棄物の最終処分場だって決まらないのだから、マグネシウムに限らず新技術をバンバン開発すればいい。
思えば日本は技術立国として数々の不可能を可能にすることで世界をリードしてきた国である。
震災を期に、代替エネルギー立国、スマート・グリッド先進国、環境立国、震災復興のプロ、として世界から尊敬されるようになればいい。

もし電気だけの問題であれば、である。
問題は為政者が、原発は電気の問題だけでなく、将来日本が核武装するための核物質産出技術であり、多少危険であろうが、国民が反対していようが何がなんでも保持しておかないといけない、と思っている場合である。
そう思っているかどうかしらないよ。
でももし思っているとしたら、ぼくが為政者なら、原発の火を絶やさぬために代替エネルギーの研究を阻害すると思うのである。
科学予算に限りはあるし、代替エネルギーがバカ当たりして原発が不要になれば、原発は廃炉せざるをなくなる。

でも、ホンネは核武装したいから原発を置いているのに、タテマエは「原発の電気がないと日本は立ち行かなくなる」と言って原発を推進するのは不健全な言説である。
国民を騙していることになる。
二枚舌は良くない。
核武装したいなら「したい」と正直に言って、憲法を改正し、非核三原則を国際的に放棄して、核保有国になると正々堂々と言ってやればいいだろう。
ぼくは核武装は絶対反対である。
世界的にも削減、廃絶の方向に進んでいる。
しかし「原発は電気だけじゃなくて原爆を作るのにも必要です!」と与党が堂々と発言して、その是非を問う選挙をしてみてもいいのではないか。
それで国民が圧倒的に与党を支持すれば、そういう国に住んでいるという知見を得て、ぼくもいろいろ考え直す。

ということで、「電気が必要」「そのためには原発が必要」「文句があるなら電気使うな」という論理には頷けない。
 ・電気はどれぐらい必要なんですか
 ・代替エネルギーはどれぐらいダメなんですか
 ・ぼくらは原発なしで本当にやっていけないんですか(現状ではどうにかこうにかやっていけているが)
 ・いろんなエネルギーがある中で、原発じゃなきゃ、なぜダメなんですか
 ・地球温暖化を原発はどれぐらい食い止められるんですか
 ・地球が温暖化するって本当ですか(今年はエジプトに雪が降ったり、寒冷化してるって気がするが)

という「定量的な」議論が行われないといけない。

「定量的な」議論が必要なのは一部の過激な反原発派も同じである。
「1ベクレルでも放射能がある以上は危険」と言う人がいる。
陳腐な言い方になるが、そういう人は飛行機にも乗れないし、温泉にも行けないし、バナナも食べられない。
だいたい今の中高年の人は、70年代の米中ソの核実験で放射性物質をたっぷり浴びている。
そういう放射能の総和に対して、福島の事故由来の放射能はどれだけ悪影響があるのか、定量的に考えなければならない。

「科学者はみんな国からお金をもらって研究しているから御用学者、推進派。われわれ反原発派はこの問題を科学者の土俵に載せてはいけない」と堂々と言っている人もいた。
気持ちは分からないでもないが、この問題は科学の問題である。
代替エネルギーの開発にも、スマートグリッドによる効果的な節電にも、科学技術が必要である。
福島の事故が実際、どの程度われわれの生活に影響があるのか。
福島県と言っても広い。
福島の農産物がどれほど危険なのか、定量的に調べる必要がある。
これも、科学者の英知が必要である。

もちろん複雑で多岐に渡る問題であり、データの取捨選択は大変だ。
そして、原発推進をまずしたいという結論を目指して、都合のいいデータをつまみ食いする科学者もいると思う。
それを排除するには、双方が科学力を上げなければならない。
実際にある危険を正しく指摘し、誰の目にも明らかにし、我々はどれだけエネルギー消費を削減出来るのか、代替エネルギーはどうするのか、どんどん「脱原発科学者」を作っていかないといけない。
国が支援してくれないなら民間や、外国から資本を入れれば良い。
もし画期的な代替エネルギーや、節電システムができれば、飛ぶように売れる。
そっちを本流にすればいいのである。

悲しいのはこの問題で、国論が二分していることである。
議論にエネルギーを持っていかれている。
その議論も定量的ではなく、「原発がいやなら電気使うな」「江戸時代に戻れ」「1ベクレルでも危険がないとは言えない」「科学者は御用学者だから科学の土俵に乗るな」という絶対に相容れない感情論の応酬である。
これは何も生み出さない。
全員がイヤな思いをするだけである。

「正しく怖がろう」という現実派の科学者たちも、言い方に改善の余地があると思う。
過激な反原発派、陰謀論者、反科学論者とのやりとりの中で言い方が過激になって「あんたらはバカだから分からないだろうけど」という物言いになっていることがある。
これでは正しいことを言っても伝わらない。
利敵行為である。

どんどん陳腐な議論になるが、ネットの議論ってなんであんなに人格批判から入るんだろうか。
人格批判から始まる議論というのは、「お前は最低だから、その最低な考えを捨てて、俺たちにひれ伏して、俺たちの考えを尊重しろ」という論法である。
そんなのに誰が従うだろうか。
罵倒しあっているだけである。

3.11の当時日本人は「お互いが助け合うすばらしい国」と、お互いを讃えあった。
「絆」という言葉もあった。
日本人の美徳は礼儀正しく仲が良いこと、平和的な話し合いでものごとを決めること、まじめで、優れた技術で社会に奉仕することではないか。

Mt.Fuji from Mt.Tonodake 08