きょう2013年11月29日は、ザムザ阿佐ヶ谷で劇団A・P・B-Tokyo「田園に死す」初日を見た。

劇団Webページ

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劇団A・P・B-Tokyoは去年の暮れの「身毒丸」を見てから、「青ひげ公の城」、「毛皮のマリー」に続いて4作目だ。
今年は月蝕歌劇団の「百年の孤独」、「盲人書簡」も見たから、寺山修司脚本の演劇を6作連続して見ている。
平均2ヶ月に1回ペースである。
完全にハマっている。
でも、ぼくなんか完全にニワカであって、演劇好きとか、マニアとか名乗るのはおこがましい。
演劇を見ても、「この劇団は、他の劇団と比べてどうなのか」とか、「この演劇は、他の演劇と比べてどうなのか」という感想が出てこない。
それよりも、つくづくと感じるのは、「演劇というものの素晴らしさ」、「劇場という空間に身を置くことの楽しさ」である。
わかりやすいところで言うと、「匂い」がある。
役者がマッチを擦ると、マッチの匂いがする。
枯葉を舞台に撒くと、枯葉の匂いがする。
映画でもジョン・ウォーターズの「ポリエステル」という、観客に匂いつきカードを配って「この場面では何番を擦って嗅いでください」というのがあったらしいけど、舞台では当然のように匂いがする。
それは家から電車に乗って、時間通りに劇場に到達した人だけが嗅げる匂いである。
舞台ごとに、同じ舞台でも回ごとに違う匂いがする。
大勢の役者が同時にしゃべっている場面がある。
誰かに注目すると、他の人の台詞を聞き逃すことになる。
誰かが、その人にとっては重要なことを言っているのに、それをどうしようもなく聞き逃してしまう、聞き逃す構造になっていることに異様な感動を受ける。
小説や映画で筋を追って楽しむのとはまったく違う。
「田園に死す」は不条理劇であるが、寺山の自伝的な内容になっている。
不条理劇で自伝というのはおかしい気もするが、筋書きを追わなくてもいい不条理劇であるから、色濃く自伝的な内容になっているということでもあるだろう。
舞台中の台詞にも出てくるが、人間だれでも、昔あったことでも細かいことは忘れているし、夢を見ている間も、見ている人は現実だと思っている。
自分の都合のいいように美しく覚えてしまう、語ってしまうこともある。
間違った記憶が刷り込まれていることさえある。
ぼくは子供のころ、家に宇宙人が来たことがある。
親父が商売道具のバーナーを振るって追い払ってくれたのだ。
明らかにウソ記憶なのだが、今でも焼き付くような恐ろしい記憶として残っている。
「子供のころ、宇宙人が家に来たことを覚えている」という、ちょっとした気の狂った思い出が、ぼくの人生の中に矛盾なく組み込まれている。
ぼくのような凡人の人生にも、平然とそういうことがあるのだから、人生をそのまま描けば、不条理劇になることが、むしろ当然であると思われる。
「田園に死す」は有名な映画もビデオで見たが、舞台の方が明らかにわかりやすく、切実で、胸に迫るものがあった。
途中時間旅行SFのような展開になり、少年期の寺山が、これから起こる不幸な現実に、これから起こる不幸な現実を知らないものとして立ち会わなければならない悲しみが繰り替えされる。
劇場を出て、ぼうっとした気持ちで駅まで歩いて、電車に乗って帰ってきたが、その道のりが、いままで見ていたのとは違うように見える気がした。
見に行って良かった。
A・P・B-Tokyoはザムザ阿佐ヶ谷を離れて、来年からは別の劇場で再出発するらしく、ザムザのA・P・Bとしては今回が見納め。
単純な好みの問題であるが、バッド・テイスト的なギャグが盛り込まれた「青ひげ」や「マリー」よりもシリアスな芝居で、内容に没入でき、楽しめた。
小人のマメさん率いるサーカス団も生の肉体の迫力があって素晴らしい。
生の津軽三味線も素晴らしかった。
来週の火曜日までやっていて、あと2回ほど見に行く予定である。
今年は月蝕歌劇団の「百年の孤独」、「盲人書簡」も見たから、寺山修司脚本の演劇を6作連続して見ている。
平均2ヶ月に1回ペースである。
完全にハマっている。
でも、ぼくなんか完全にニワカであって、演劇好きとか、マニアとか名乗るのはおこがましい。
演劇を見ても、「この劇団は、他の劇団と比べてどうなのか」とか、「この演劇は、他の演劇と比べてどうなのか」という感想が出てこない。
それよりも、つくづくと感じるのは、「演劇というものの素晴らしさ」、「劇場という空間に身を置くことの楽しさ」である。
わかりやすいところで言うと、「匂い」がある。
役者がマッチを擦ると、マッチの匂いがする。
枯葉を舞台に撒くと、枯葉の匂いがする。
映画でもジョン・ウォーターズの「ポリエステル」という、観客に匂いつきカードを配って「この場面では何番を擦って嗅いでください」というのがあったらしいけど、舞台では当然のように匂いがする。
それは家から電車に乗って、時間通りに劇場に到達した人だけが嗅げる匂いである。
舞台ごとに、同じ舞台でも回ごとに違う匂いがする。
大勢の役者が同時にしゃべっている場面がある。
誰かに注目すると、他の人の台詞を聞き逃すことになる。
誰かが、その人にとっては重要なことを言っているのに、それをどうしようもなく聞き逃してしまう、聞き逃す構造になっていることに異様な感動を受ける。
小説や映画で筋を追って楽しむのとはまったく違う。
「田園に死す」は不条理劇であるが、寺山の自伝的な内容になっている。
不条理劇で自伝というのはおかしい気もするが、筋書きを追わなくてもいい不条理劇であるから、色濃く自伝的な内容になっているということでもあるだろう。
舞台中の台詞にも出てくるが、人間だれでも、昔あったことでも細かいことは忘れているし、夢を見ている間も、見ている人は現実だと思っている。
自分の都合のいいように美しく覚えてしまう、語ってしまうこともある。
間違った記憶が刷り込まれていることさえある。
ぼくは子供のころ、家に宇宙人が来たことがある。
親父が商売道具のバーナーを振るって追い払ってくれたのだ。
明らかにウソ記憶なのだが、今でも焼き付くような恐ろしい記憶として残っている。
「子供のころ、宇宙人が家に来たことを覚えている」という、ちょっとした気の狂った思い出が、ぼくの人生の中に矛盾なく組み込まれている。
ぼくのような凡人の人生にも、平然とそういうことがあるのだから、人生をそのまま描けば、不条理劇になることが、むしろ当然であると思われる。
「田園に死す」は有名な映画もビデオで見たが、舞台の方が明らかにわかりやすく、切実で、胸に迫るものがあった。
途中時間旅行SFのような展開になり、少年期の寺山が、これから起こる不幸な現実に、これから起こる不幸な現実を知らないものとして立ち会わなければならない悲しみが繰り替えされる。
劇場を出て、ぼうっとした気持ちで駅まで歩いて、電車に乗って帰ってきたが、その道のりが、いままで見ていたのとは違うように見える気がした。
見に行って良かった。
A・P・B-Tokyoはザムザ阿佐ヶ谷を離れて、来年からは別の劇場で再出発するらしく、ザムザのA・P・Bとしては今回が見納め。
単純な好みの問題であるが、バッド・テイスト的なギャグが盛り込まれた「青ひげ」や「マリー」よりもシリアスな芝居で、内容に没入でき、楽しめた。
小人のマメさん率いるサーカス団も生の肉体の迫力があって素晴らしい。
生の津軽三味線も素晴らしかった。
来週の火曜日までやっていて、あと2回ほど見に行く予定である。