読んだ!
異体字の世界 最新版 目次 - 楷書活字(新居)
本書は文字っ子のビッグネーム、「文字王」小池さんが、日本の漢字政策や、文字コードのJIS規格の変遷を、篆書や隷書からの漢字の歴史から日本人の最近の風俗習慣までの豊富なトピックを交えて、特に異体字に焦点を当てて語るものだ。
旧版は2007年に出たが、その後のスマホの隆盛や常用漢字表の改正などを組んで改正された。
まず、著者のペンネームがいきなり異体字である。
異体字の世界 最新版 目次 - 楷書活字(新居)
本書は文字っ子のビッグネーム、「文字王」小池さんが、日本の漢字政策や、文字コードのJIS規格の変遷を、篆書や隷書からの漢字の歴史から日本人の最近の風俗習慣までの豊富なトピックを交えて、特に異体字に焦点を当てて語るものだ。
旧版は2007年に出たが、その後のスマホの隆盛や常用漢字表の改正などを組んで改正された。
まず、著者のペンネームがいきなり異体字である。
背は本名で「小池和夫」となっているが、表紙はノ木偏と口がひっくり返って「小池咊夫」となっている。
咊は和の異体字である。
逆に言うと、これらはもともと同じ字ということだ。
(小池和夫だとあまりにもポテトチップスのコイケヤの創業者がヒットするから変えたそうだ!)
峯と峰や、嶋と嶌と㠀のように、古代中国の甲骨文字は部首の位置関係が必ずしも一定していなかった。
ということは、移動していても同じ字だと読み取る能力が古代人にはあったが、我々には失われてしまったということだ。
「この字が正しい字だ」という主張も、昔に遡ってみれば必ずしも正しいとは言えない。
でも、戸籍上の苗字などで「うちの字は代々この字だ」と主張されてしまえば、たとえ遠い昔の役人の写し間違いであったとしても、反論しにくい。
問題は「この字とこの字は違う字だ」という主張が、歴史を遡って調べてみると、あまり根拠がないということだ。
「異体字伝説」という章がある。
東京都台東区の入谷鬼子母神では、「鬼」という字が上に飛び出さない字形を使っている。
現地の案内板を見ると「お釈迦様によって改心した鬼子母神は、ツノがなくなったから飛び出さない字形を書いている」と書いてあるが、著者によると、ツノのない鬼の字も昔は一般的に書かれていたと言う。
草冠はもともとは艸のように書いていた(6画)。
しかしそのうち++(4画)と書くようになって、しまいには現在の┼┼(3画)になった。
学校教育では3画と教えているが、漢和辞典では4画になっている。
小説の中に「天台宗」の正字として「天臺宗」と書かれている。
臺の新字は確かに台となったが、台という字はもともと別にあり、天台宗という宗派は始まってから一度も臺となったことはなかった。
他にも、当用漢字を「日本国憲法同様、アメリカに占領されて、どさくさにまぎれて決まったもの」と言う反発があったが、本書はそれ以前に半世紀以上も、日本の漢字をなんとか少なくして読み書きの手間を軽減しようという苦闘の歴史があったことを本書は明らかにする。
「活字と手書きの文字は基本的に違うもの」という言葉が何度も出てくる。
絆という字は手書きでも半の点をハに書くべきだ、と「おかしなことを言う人がいる」が、そのような半の形が手書きで書かれたことは一度もなかったそうだ。
このように、手書きから活字へ、そして電子データへとテクノロジーがどんどん進むに連れて、かえってユーザー サイドが字体を渉る能力を失ってしまい、「本当の字と違う」、「昔の字と違う」という浅薄な考え方がどんどん一人歩きしている現状を、著者は指摘しているようだ。
251ページという薄い本だが、中国の字の歴史、日本の字の歴史、コンピューターの字の歴史がぎっしり詰まっている。
鼻血が出るほど面白い。
もちろんぼうっと読んでいると重要なポイントを見失ってしまうし、たとえ真剣に見ていてもぼくなどは「この字とこの字はどう違うのか」と悩んでしまうこともある。
時間があるときに、虫眼鏡を片手に何度も読み返したい。
ということで、秋の夜長に是非オススメのこの一冊である。
あと、同意してくださる方はAmazonのページからKindle化希望ボタンも押して欲しい。
本書のような本こそ、検索、拡大が出来る電子書籍になったらいいと思う。
もう一回アマゾンのリンクを張っておく。
咊は和の異体字である。
逆に言うと、これらはもともと同じ字ということだ。
(小池和夫だとあまりにもポテトチップスのコイケヤの創業者がヒットするから変えたそうだ!)
峯と峰や、嶋と嶌と㠀のように、古代中国の甲骨文字は部首の位置関係が必ずしも一定していなかった。
ということは、移動していても同じ字だと読み取る能力が古代人にはあったが、我々には失われてしまったということだ。
「この字が正しい字だ」という主張も、昔に遡ってみれば必ずしも正しいとは言えない。
でも、戸籍上の苗字などで「うちの字は代々この字だ」と主張されてしまえば、たとえ遠い昔の役人の写し間違いであったとしても、反論しにくい。
問題は「この字とこの字は違う字だ」という主張が、歴史を遡って調べてみると、あまり根拠がないということだ。
「異体字伝説」という章がある。
東京都台東区の入谷鬼子母神では、「鬼」という字が上に飛び出さない字形を使っている。
現地の案内板を見ると「お釈迦様によって改心した鬼子母神は、ツノがなくなったから飛び出さない字形を書いている」と書いてあるが、著者によると、ツノのない鬼の字も昔は一般的に書かれていたと言う。
伝統的に書かれてきた文字に、活字と違うからといって文句を言う人が現れて、こんな説明を考えついたのではないでしょうか。
草冠はもともとは艸のように書いていた(6画)。
しかしそのうち++(4画)と書くようになって、しまいには現在の┼┼(3画)になった。
学校教育では3画と教えているが、漢和辞典では4画になっている。
草冠は草冠であることがわかればよく、画数は問題ではない。しんにょうの点と草冠の画数は数えるものではないのである。
小説の中に「天台宗」の正字として「天臺宗」と書かれている。
臺の新字は確かに台となったが、台という字はもともと別にあり、天台宗という宗派は始まってから一度も臺となったことはなかった。
他にも、当用漢字を「日本国憲法同様、アメリカに占領されて、どさくさにまぎれて決まったもの」と言う反発があったが、本書はそれ以前に半世紀以上も、日本の漢字をなんとか少なくして読み書きの手間を軽減しようという苦闘の歴史があったことを本書は明らかにする。
「活字と手書きの文字は基本的に違うもの」という言葉が何度も出てくる。
絆という字は手書きでも半の点をハに書くべきだ、と「おかしなことを言う人がいる」が、そのような半の形が手書きで書かれたことは一度もなかったそうだ。
このように、手書きから活字へ、そして電子データへとテクノロジーがどんどん進むに連れて、かえってユーザー サイドが字体を渉る能力を失ってしまい、「本当の字と違う」、「昔の字と違う」という浅薄な考え方がどんどん一人歩きしている現状を、著者は指摘しているようだ。
251ページという薄い本だが、中国の字の歴史、日本の字の歴史、コンピューターの字の歴史がぎっしり詰まっている。
鼻血が出るほど面白い。
もちろんぼうっと読んでいると重要なポイントを見失ってしまうし、たとえ真剣に見ていてもぼくなどは「この字とこの字はどう違うのか」と悩んでしまうこともある。
時間があるときに、虫眼鏡を片手に何度も読み返したい。
ということで、秋の夜長に是非オススメのこの一冊である。
あと、同意してくださる方はAmazonのページからKindle化希望ボタンも押して欲しい。
本書のような本こそ、検索、拡大が出来る電子書籍になったらいいと思う。
もう一回アマゾンのリンクを張っておく。