★英語のブログをお休みします。また、時をかけるブログになってスミマセン。
★I skip the English blog. Sorry!

おなじみ、劇団A・P・B☆Tokyo公演『毛皮のマリー』を見た。

kegawaNomarie

劇団Webページ

この劇団の演劇を見るのは去年の『身毒丸』、今年の『青ひげ公の城』に続いて3回目だ。
寺山修司専門劇団であって、こういう劇団は他にも沢山ある。
今年は寺山修司没後30年であって、記念事業に認定されている。
演劇はストーリー自体が仕掛けになっているので、うっかり紹介できないが、今回もいい意味で見世物感が横溢した、ワクワクドキドキした演劇だった。
劇団を主宰する浅野伸幸さんが、大柄の男らしい男性なのに女形ばっかり怪演しているのだが、今回も女形で(ていうか・・・)、その女装っぷりが1つのテーマになっている。
また、舞台の妖精、小人のマメ山田さんが、がっつり長台詞のある役をやっていたのも良かった。
あと、ガイジンのジェニファー松井が美人で良かった。

同じ劇団の芝居を何回も見ていると、手塚治虫のスターシステム(同じキャラクターが複数の役割を演じる)みたいなもので、あああの人が今回はこんな役をやってるのかー、あああの人が今回はこんな役をやってるのかー、というのがあって、立体的に見られて楽しい。

舞台は見る人間が創造する楽しみがある。
前にも書いたが、同じ舞台を何回も見ると、最初はストーリーを追うためにしゃべっている人ばかり見るが、そのうちしゃべっていない人のウケの芝居を見る。
ワキの人が後ろで掃除かなんかしていて、メインの人が大声を上げるとびくっとしたりする。
それを見るのが楽しいのである。

ひいきの人がいれば一人だけを追い続けるのも楽しい。
その人の人生の一部分を切り取ったような見方ができるのだ。
同じ公演が、まったく違う舞台になる。
これが映画やテレビ、DVDでは出来ないことだ。
舞台は素材で、観客の目が監督になれるのである。

AKB48の総選挙で「私は可愛くないから、いつも端っこで踊っているけど、そんな私をあなたの瞳のセンターに入れてくれる、そういうファンの方がいる」と言っている人がいて(誰か忘れた・・・)ちょっと涙腺が緩んだが、芝居に出ている人は一人ひとり自分が主人公だと思っている。
昔のロックバンドの人のように、隅っこでダラダラしている人はいない。
どの瞬間のどのアングルで切り取っても、みんな自分の人生、役柄を真剣に生きているのである。

ことしは寺山イヤーであって、同じ芝居を複数の劇団で見る楽しみもある。
今度は青我館という劇団が、同じ『毛皮のマリー』を演じる。

「毛皮のマリー」公演案内|青我館

主演の野口さんが超・怪優であって(いい意味で・・・!)、こっちも見たい。

 ・同じ劇団の違う舞台を見る
 ・同じ公演の違う回を見る
 ・同じ戯曲の違う公演を見る

このように、あるパラメーターを固定して別のパラメーターを動かすことで、より深く演劇の世界が理解できる。
こういう研究的、分析的な見方が演劇っぽいかどうかは分からないが、ぼくはそうやって楽しんでいる。

今回は同じ寺山修司の別の演劇の1シーンが挿入されるという荒技があった。
これ、もとの戯曲がどうなっているか分からないが、新鮮な衝撃があった。
同じ劇団の芝居を見続けていたから得られた感動である。

不条理劇である。
不条理と言うと「意味の分からない言葉や出来事」という意味と、「人間の意図とは逆に起こる運命の不幸」というふたつの意味があるが、不条理劇はこのどちらの意味もが内包されている。

ぼくはこらえ性のない方なので、実人生で思ったことがかなわなかったり、いじめっ子のような人がいると本当に不快になる方である。
こういうことについて、年を取るごとにどんどんこらえ性がなくなっていて、たとえばテレビでいじめ的なお笑いがあるとチャンネルを変える。

寺山の芝居には、今回の芝居にも、そういうシーンが多くある。
しかし、そういう場面を過敏に感じるからこそ、得られる感動もあると思った。
芸術的な、美しい言葉で、現実的な、ままならない人生が語られることへの感動である。

ということで、ネタバレを回避して安い一般論に終始してしまったが、月曜日までやっているので、機会がある人は是非ご覧になると良い。
ぼくはあと日曜の昼と、月曜の夜に見に行く予定である。