またCMの話で恐縮だが、AJINOMOTOのこういうCMが流れて、違和感を思った。


CMソングは

 何十万年もの間、何十億人ものお母さんが、毎日毎日ご飯を作っている
 今のどこかでお母さんが、ただあなたの幸せを願ってご飯を作っている

という歌詞である。

ぼくは中学2年生のとき、実母と死別した。
父親が職人だったので、半ば一人暮らしだった。
ぼくは料理が趣味だったので、適当に作っていた。
野菜炒めをご飯にかけたりするのがメインだったが、時にはカレーとかも作っていた。
今もなんか作れと言われたら苦もなく作ることが出来る。

たまに父親が帰ると料理を作ってくれた。
共通一次試験(当時)の時は弁当も作ってくれた。
父親は若い頃は潜水、歳を取ってからは魚釣りが趣味の人で、釣った魚は自分で下ろしていたから、そういう日は生半の料理屋では食べられない大ごちそうを食べた。
でも今思い出すのは、共通一次の弁当に鮭が入っていて、一枚いちまい皮がむしってあったこと、そして受験中に深夜に帰ってきてラーメンを作ってくれたことだ。
父のラーメンには四角いバターがゴロリと入っていた。
旨かった。



困ったのが高校時代の弁当で、たいてい学校裏の駄菓子屋で焼きそばを食べるか、業者が売りに来るパンを買って食べていたが、どちらも高いのである。
仕方がないのでポテトチップスを食べていたこともある。
教室で食べると周囲の人が気になるようなので、屋上で食べた。
屋上でポテトチップスを食べて、お金を節約して映画を見に行ったのは、面白い思い出である。

むろん、ぼくの家のようなレアケースに配慮してお母さんを称揚するな、というのは傲慢である。

でも、考えたら、お母さんがご飯を作らない家なんていくらでもあるだろう。
お父さんがリストラで、お母さんがバリバリキャリアで、お父さんが料理を作っている。
お母さんが体が弱くて、お父さんが在宅勤務にして料理を作っている。
ご両親とも馬車馬のように働いていて、子供同士が交代で料理を作っている。
お父さんは出て行って、お母さんは朝から晩まで働いていて、兄弟はいつもコンビニで食事を買っている。
こういう家は、AJINOMOTOのCMによって美しく描かれるチャンスはない。

でも、「ご飯を作る」ということはお母さんの「使命」、「宿命」、「お母さんと言う生物の属性」なのだろうか。
くだんのCMは、それぐらい「太古の昔からお母さんがご飯を作ってきた!これからも永遠にお母さんがご飯を作っていく!お母さんが!お母さんが!」と言い募ることに何の迷いもない。
まるで「オカアサン」という役目を生まれ付いて帯びた別の種類の生き物が家庭には備わっている、という感じである。
で、それは、「家によって、人によって違う」としか言いようがない。
民族によっても、歴史によっても違うだろう。
真理の捏造であって、違和感がある。

テニス・プレイヤーで、結婚後見事に復活を遂げたクルム伊達公子さんは、ドイツ人レーシングドライバーのミハエル・クルムさんと結婚したとき、最初は当然のように料理を作っていたそうだ。
するとミハエル・クルムさんは「なぜ伊達公子が料理なんかしているんだ!ぼくは君がぼくの世話をするのなんか見たくないよ。ご飯は料理人が作ったものを食べに行けばいい!」と言ったそうだ。
それで、クルム伊達公子さんは40歳でプロ・テニスに復帰し、見事な復活を遂げた。
そんな家もある。



ご飯なんか誰が作ってもいい。
誰が作ってもそこそこおいしいものは出来るし、「誰が作ったか」なんて重要じゃない。
カンタン料理を推進するAJINOMOTOであれば、そこをこそ強調した方がいいのではないか。
Indian food at Melt! music festival in Germany