よく、悪いテレビを見させると子供が悪くなるからやめよう、という話がある。
で、それはいかにも子供のためを思って不真面目な言論を弾圧しようとする悪い意味で大人の論理だということになって、逆に批判されたりする。
で、それはいかにも子供のためを思って不真面目な言論を弾圧しようとする悪い意味で大人の論理だということになって、逆に批判されたりする。
ぼくはテレビの悪影響というのは、意外とあると思う。
ナインティナインは大好きだが、あの「めちゃイケ」をはじめとするフジテレビのバラエティはたまにいやな気持ちになる。
加藤と言う人がひどいのだが、とにかく先輩が後輩をいびる。
後輩は立場上いびられっぱなしで、それをみんなでわあわあ笑う。
これはブラック企業の宴会などでも普通に見られるパワハラ、イジメであって、ユーモアの精神とは反対の、いわゆるザ・ジャパニーズな風景である。
パワハラ宴会であっても確かにわあわあ笑いは起こっているが、ぼくはこれが少しも楽しくない。
チャンネルを変えることもある。
こういうことを書くと「芸人がテレビという設定、装置の中でお約束としてイジメコントを演じているのと、リアルな生活の中での本当のイジメと区別がつかないのか、それほど頭が悪いのか」という再批判をされる。
「テレビに出ている人は、イジメられる側であっても、それが仕事で、それをやって大金を得ている。イジメられることで輝く人もいるわけで、それを真面目ぶって否定するのか」と言うわけである。
その論理も一応スジは通っていると思う。
でも、子供はそれを見て「テレビのイジメは、お約束で、やっていいこと」、「実生活のイジメは、やってはいけないこと」と言う風に区別が付くのだろうか。
新聞で読んだのだが、なぜイジメをするのか、加害者の子供に聞くと「イジメじゃなくてイジリだよ」と言ったそうだ。
「いまの若者にはイジリという言葉があるのか---」と記者は当惑気味に書いていた。
そいつを(好きだから)面白くしてやってんだよ、そいつは俺たちがイジってやってるから面白くなってるんだよ、そのおかげで明るいクラスになって、そいつは主人公になれてるんだよ、なんなら感謝して欲しいもんだよ、と言う思考であろうか。
でもこれ、イジられる方はそうは思っていない場合もあるのではないか。
なにも子供、こどもと殊更に言うこともない。
大人も区別がつかない。
ブラック企業の宴会で、新入社員がイジられていて、マジギレしたとき「冗談が通じないやつだな!」的なことを言われることがある。
外観としては、無礼講の宴会でユーモアの交換をしているのだが、内実としては、年功序列のカースト関係の中で弱者が強者に威圧されているのである。
ぼくは結構奇人変人らしく、日本的な空気を読むのがものすごく苦手なので、ややもするとイジられることが多くあるが、これがすごく苦手である。
さすがに年をとってイジられる機会も少なくなったが、そのぶん過敏になっているので、ストレスの総量はあまり減らない。
それでも年を取っていて人生をあるていど自由に制御出来るので、いやな人間関係からは遠ざかり、自分の好きなことを追求することで、ストレスを減らして自己評価を上げることができるようになった。
言うところの「オトナで良かった!」というやつである。
でも、子供は逃げ場がない。
場合によっては窓から飛び降りるしかない、と思い込んでしまうこともある。
実際にはそんなことはない。
さっさと教室なんか飛び出して、家に帰って参考書でも読んでいればいいのである。
親になにか言われたら「イジメられて自殺しそうになったから家で勉強する」と言えばいいのである。
でも、そうできない子供もいる。
イジっている(イジメている)子供も、それが本当に面白いことだと思っているのだろうか。
オトナがテレビでやっているから、それをなぞっているだけではないだろうか。
ぼくはお笑いは大好きだが、いわゆるイジりコントはもう止めて欲しいと思う。
ナインティナインの岡村さんとか才能の固まりだから、もっと本当に面白いことを追求して欲しい。
ナインティナインは大好きだが、あの「めちゃイケ」をはじめとするフジテレビのバラエティはたまにいやな気持ちになる。
加藤と言う人がひどいのだが、とにかく先輩が後輩をいびる。
後輩は立場上いびられっぱなしで、それをみんなでわあわあ笑う。
これはブラック企業の宴会などでも普通に見られるパワハラ、イジメであって、ユーモアの精神とは反対の、いわゆるザ・ジャパニーズな風景である。
パワハラ宴会であっても確かにわあわあ笑いは起こっているが、ぼくはこれが少しも楽しくない。
チャンネルを変えることもある。
こういうことを書くと「芸人がテレビという設定、装置の中でお約束としてイジメコントを演じているのと、リアルな生活の中での本当のイジメと区別がつかないのか、それほど頭が悪いのか」という再批判をされる。
「テレビに出ている人は、イジメられる側であっても、それが仕事で、それをやって大金を得ている。イジメられることで輝く人もいるわけで、それを真面目ぶって否定するのか」と言うわけである。
その論理も一応スジは通っていると思う。
でも、子供はそれを見て「テレビのイジメは、お約束で、やっていいこと」、「実生活のイジメは、やってはいけないこと」と言う風に区別が付くのだろうか。
新聞で読んだのだが、なぜイジメをするのか、加害者の子供に聞くと「イジメじゃなくてイジリだよ」と言ったそうだ。
「いまの若者にはイジリという言葉があるのか---」と記者は当惑気味に書いていた。
そいつを(好きだから)面白くしてやってんだよ、そいつは俺たちがイジってやってるから面白くなってるんだよ、そのおかげで明るいクラスになって、そいつは主人公になれてるんだよ、なんなら感謝して欲しいもんだよ、と言う思考であろうか。
でもこれ、イジられる方はそうは思っていない場合もあるのではないか。
なにも子供、こどもと殊更に言うこともない。
大人も区別がつかない。
ブラック企業の宴会で、新入社員がイジられていて、マジギレしたとき「冗談が通じないやつだな!」的なことを言われることがある。
外観としては、無礼講の宴会でユーモアの交換をしているのだが、内実としては、年功序列のカースト関係の中で弱者が強者に威圧されているのである。
ぼくは結構奇人変人らしく、日本的な空気を読むのがものすごく苦手なので、ややもするとイジられることが多くあるが、これがすごく苦手である。
さすがに年をとってイジられる機会も少なくなったが、そのぶん過敏になっているので、ストレスの総量はあまり減らない。
それでも年を取っていて人生をあるていど自由に制御出来るので、いやな人間関係からは遠ざかり、自分の好きなことを追求することで、ストレスを減らして自己評価を上げることができるようになった。
言うところの「オトナで良かった!」というやつである。
でも、子供は逃げ場がない。
場合によっては窓から飛び降りるしかない、と思い込んでしまうこともある。
実際にはそんなことはない。
さっさと教室なんか飛び出して、家に帰って参考書でも読んでいればいいのである。
親になにか言われたら「イジメられて自殺しそうになったから家で勉強する」と言えばいいのである。
でも、そうできない子供もいる。
イジっている(イジメている)子供も、それが本当に面白いことだと思っているのだろうか。
オトナがテレビでやっているから、それをなぞっているだけではないだろうか。
ぼくはお笑いは大好きだが、いわゆるイジりコントはもう止めて欲しいと思う。
ナインティナインの岡村さんとか才能の固まりだから、もっと本当に面白いことを追求して欲しい。