さいきんネットで配信される新聞記事を読んでいると(朝日が明らかに多い。毎日も多い気もするが、読売も多い気がする)こういう趣旨の記事が多い。
1.電車でiPhoneを使っている男が邪魔だったので乗客から殴られた
2.電車のホームでスマホを夢中になって見ている人がホームから落ちて電車が遅れた
3.寝る前にスマホを見ていると眠れなくなる人が増えている
1.電車でiPhoneを使っている男が邪魔だったので乗客から殴られた
2.電車のホームでスマホを夢中になって見ている人がホームから落ちて電車が遅れた
3.寝る前にスマホを見ていると眠れなくなる人が増えている
まず、1に関して言えば、iPhoneって商品名出さなくてもいいんじゃないだろうか。
昔から電車の中でスポーツ新聞を見ている人や、ゲームボーイを使っている人が揉め事になったことぐらいあるだろう。
普通の携帯電話(言うところのガラケー)を使って揉め事になったことぐらいあるだろう。
特に「他の携帯電話機種に比べてiPhoneだから人の暴力を誘発する」と思われても仕方ない理由があるのだろうか。
ないと思う。
2に関しても同様だ。
子供に関しては携帯ゲーム機の方があぶない気がする。
3に関しては噴飯ものである。
液晶が出す強い光を目で直接受けるのが危ないのであれば、携帯電話、パソコンはもちろん、液晶テレビは大体ダメである。
蛍光灯も危ない。
日本の室内は諸外国に比べて明るすぎるのである。
「スマホ」によって急激に不眠が増えるとは考えにくい。
新聞は昔から、携帯に関係なく、コンピューターそのもの、ネットワークそのものを批判し、恐怖をあおるような記事が多い。
1984的なネットワーク社会が訪れると、朝日新聞が称揚する民主主義が危機に瀕すると思うのだろうか。
それはビッグ・データとかポイントカードなどの高木ひろみちゅ先生的な案件の増大によって確かに危機に瀕していると言えなくもない。
でもだったらこの問題を正面切って論じればいいと思うのである。
それはあまり見かけない。
むしろツタヤ図書館のTカード構想を好意的に論じたりしている。
コンピューターが栄えると人間の仕事が奪われる、あるいはネットがはびこると新聞やテレビの立場が危うくなると思うのだろうか。
これもおかしい理屈だと思うのである。
コンピューターに代わりが務まるような仕事であれば、コンピューターにやらせておけばいいと思う。
人間はもっと創造的で楽しい仕事をするか、機械化に馴染まない伝統工芸や演芸をやるか、あるいはどんどん増大するコンピューター化に関わる仕事をすればいいのではないだろうか。
明治時代に人力車が流行ったから駕籠かきをしていた人が反対運動をしたり、自動車が出てきたから人力車の車夫をしていた人が反対運動をしていたことがあるのだろうか。
あまり聞いたことがないが、もしあっても結局は下火になったのではないか。
実際、そろばんと大福帳を使って経理をしていた人がコンピューターに仕事を奪われたというベタな事例があるのだろうか。
ないと思う。
そういう人はコンピューターで経理をすることになる。
前よりも大きな商売や細かい分析が出来るようになって、印刷出力の書式に凝ったりして、仕事の能率は上がっても仕事の量はあまり変わらないと思う。
さいきん将棋の棋士がコンピューターに敗れた、悔しいという記事を多く見る。
でも、これってコンピューターが人類に蜂起して将棋勝負を仕掛けてきたわけではない。
そんなターミネーターみたいなことはない。
コンピューターに将棋を指させる人間が出てきたわけで、彼らは新時代の棋士である。
コンピューターのおかげで、これほど将棋が注目を集めたことはないのではないだろうか。
じっさい、オートバイにはかなわないから陸上競技が下火になったという話は聞いたことがない。
今後も人間による将棋は栄え続けるだろう。
コンピューターが人間をしのぐ、コンピューターが人の仕事を奪う、という議論は、実際の職業人から聞かれると言うよりも、それを横で見ている新聞から必要以上に多く出ているという印象を受ける。
じゃあ新聞がコンピューターやネットを活用していないかというと、しまくっているわけである。
つまり、コンピューターが人間を脅かすという皮肉で、残酷で、面白くて俗耳に入りやすい議論はウケるから盛り上げている、ということではないだろうか。
では新聞が書きたてたからコンピューターやネットにかぶれていた人間が反省して使うのをやめるかというと、そういうこともないのである。
堀江貴文氏が昔行っていたが、携帯電話(ガラケー)は一昔前のスパコンと同じぐらいの性能を持っている。
誰でも一昔前のスーパーエンジニアと同じぐらいのスキルを持って、電算社会を享受しているのだ。
以前ネットで知り合った人の結婚式に招かれたら、主賓の偉い大学の先生がスピーチで「ネットで人と出会うことは出来ても、心を結ぶことは出来ません」と名調子で語っていて、会場全員のネット友達が鼻白むということがあった。
過渡期に起きる誤解ではあると思う。
電話の草創期には「会いに来ないで電話で済ませるなんて」と怒る人もいただろう。
でもつい最近同じことを書いた気もする。
ぼくはネットを始めるようになってから、美術をやっている人や、アウトドアの趣味のある人の知己を得て、作品を見に行ったり、遊びに誘われたりすることになった。
Nike+を使って知らない人とランニングの回数を競ったりする。
これはぼくに限って言えば、スマホ以前には考えられないことだ。
つまり、デジタルによって開発される自分のアナログ趣味というものもあるのである。
まあぼくは本職がコンピューターだし、情報中毒なので、主張が偏ってはいると思うが、逆方向に旧メディア世論が偏っているような気がしてならないので、敢えて贅言を弄した。
昔から電車の中でスポーツ新聞を見ている人や、ゲームボーイを使っている人が揉め事になったことぐらいあるだろう。
普通の携帯電話(言うところのガラケー)を使って揉め事になったことぐらいあるだろう。
特に「他の携帯電話機種に比べてiPhoneだから人の暴力を誘発する」と思われても仕方ない理由があるのだろうか。
ないと思う。
2に関しても同様だ。
子供に関しては携帯ゲーム機の方があぶない気がする。
3に関しては噴飯ものである。
液晶が出す強い光を目で直接受けるのが危ないのであれば、携帯電話、パソコンはもちろん、液晶テレビは大体ダメである。
蛍光灯も危ない。
日本の室内は諸外国に比べて明るすぎるのである。
「スマホ」によって急激に不眠が増えるとは考えにくい。
新聞は昔から、携帯に関係なく、コンピューターそのもの、ネットワークそのものを批判し、恐怖をあおるような記事が多い。
1984的なネットワーク社会が訪れると、朝日新聞が称揚する民主主義が危機に瀕すると思うのだろうか。
それはビッグ・データとかポイントカードなどの高木ひろみちゅ先生的な案件の増大によって確かに危機に瀕していると言えなくもない。
でもだったらこの問題を正面切って論じればいいと思うのである。
それはあまり見かけない。
むしろツタヤ図書館のTカード構想を好意的に論じたりしている。
コンピューターが栄えると人間の仕事が奪われる、あるいはネットがはびこると新聞やテレビの立場が危うくなると思うのだろうか。
これもおかしい理屈だと思うのである。
コンピューターに代わりが務まるような仕事であれば、コンピューターにやらせておけばいいと思う。
人間はもっと創造的で楽しい仕事をするか、機械化に馴染まない伝統工芸や演芸をやるか、あるいはどんどん増大するコンピューター化に関わる仕事をすればいいのではないだろうか。
明治時代に人力車が流行ったから駕籠かきをしていた人が反対運動をしたり、自動車が出てきたから人力車の車夫をしていた人が反対運動をしていたことがあるのだろうか。
あまり聞いたことがないが、もしあっても結局は下火になったのではないか。
実際、そろばんと大福帳を使って経理をしていた人がコンピューターに仕事を奪われたというベタな事例があるのだろうか。
ないと思う。
そういう人はコンピューターで経理をすることになる。
前よりも大きな商売や細かい分析が出来るようになって、印刷出力の書式に凝ったりして、仕事の能率は上がっても仕事の量はあまり変わらないと思う。
さいきん将棋の棋士がコンピューターに敗れた、悔しいという記事を多く見る。
でも、これってコンピューターが人類に蜂起して将棋勝負を仕掛けてきたわけではない。
そんなターミネーターみたいなことはない。
コンピューターに将棋を指させる人間が出てきたわけで、彼らは新時代の棋士である。
コンピューターのおかげで、これほど将棋が注目を集めたことはないのではないだろうか。
じっさい、オートバイにはかなわないから陸上競技が下火になったという話は聞いたことがない。
今後も人間による将棋は栄え続けるだろう。
「コン君」が誰にも将棋で負けなくなる日が来るのは時間の問題だが、「コン君」がこれだけの文章を書ける日がいつかは見当もつかず <第2回将棋電王戦 第2局 電王戦記(筆者:先崎学)(1/2ページ)> http://t.co/fFUEdY6jUH #niconews
— Dan Kogai (@dankogai) April 3, 2013
コンピューターが人間をしのぐ、コンピューターが人の仕事を奪う、という議論は、実際の職業人から聞かれると言うよりも、それを横で見ている新聞から必要以上に多く出ているという印象を受ける。
じゃあ新聞がコンピューターやネットを活用していないかというと、しまくっているわけである。
つまり、コンピューターが人間を脅かすという皮肉で、残酷で、面白くて俗耳に入りやすい議論はウケるから盛り上げている、ということではないだろうか。
では新聞が書きたてたからコンピューターやネットにかぶれていた人間が反省して使うのをやめるかというと、そういうこともないのである。
堀江貴文氏が昔行っていたが、携帯電話(ガラケー)は一昔前のスパコンと同じぐらいの性能を持っている。
誰でも一昔前のスーパーエンジニアと同じぐらいのスキルを持って、電算社会を享受しているのだ。
以前ネットで知り合った人の結婚式に招かれたら、主賓の偉い大学の先生がスピーチで「ネットで人と出会うことは出来ても、心を結ぶことは出来ません」と名調子で語っていて、会場全員のネット友達が鼻白むということがあった。
SNSってのは昔から大切にされている「人との繋がり」の延長線であるはずなのに何故かそれを重要視する層に疎まれる傾向にある
— リルベ (Lil'be) (@rirube) June 15, 2013
過渡期に起きる誤解ではあると思う。
電話の草創期には「会いに来ないで電話で済ませるなんて」と怒る人もいただろう。
でもつい最近同じことを書いた気もする。
ぼくはネットを始めるようになってから、美術をやっている人や、アウトドアの趣味のある人の知己を得て、作品を見に行ったり、遊びに誘われたりすることになった。
Nike+を使って知らない人とランニングの回数を競ったりする。
これはぼくに限って言えば、スマホ以前には考えられないことだ。
つまり、デジタルによって開発される自分のアナログ趣味というものもあるのである。
まあぼくは本職がコンピューターだし、情報中毒なので、主張が偏ってはいると思うが、逆方向に旧メディア世論が偏っているような気がしてならないので、敢えて贅言を弄した。