日本語は数多くの外国語を取り入れて今日に至る。
よく外来語を振り回していると気取っていると批判されるし、あまりにもカタカナ語を入れると日本語が乱れていると言われる。
しかし、何回か引いたが、ドナルド・キーン著『日本語の美』によると日本語は最も外国語に汚染されていない言語だそうだ。


中国語は日本語の文字システムの元であり、強く日本語に影響を与えているが、それでも漢字で書かれており、漢音、唐音、呉音のような強い音であれば、中国語であると分かる。

はっきり分かるのが欧米語であって、カタカナで書いていれば全部そうだ。

と、書いていて、上の文にいきなり例外があったが、カタカナは「片仮名」で、日本語だ。
カタカナのことをカタカナとカタカナで書くのはコンピューター業界から来ていると思うが(もとはいわゆる半角カナでカタカナと書いていたと思うが)、良く分からない習慣である。
まあ、なんとなく分かりやすいから使っているのだろう。
もはや「かたかな」とひらがなで書くのはちょっと気持ち悪い。

他にも「サトウ・ハチロー」、「キノ・トール」などの60~70年代に活躍した文人の名前にカタカナ書きの人が多い。
あとは、ワンワン、ニャンニャン的な擬声語、擬態語はカタカナだ。
ドカーンという擬音もだ。
ハシブトガラス、ダイオウイカのような学名系も和語に関わらずカタカナである。

例外を挙げていたらキリがないが、ま、カタカナを見たら大体欧米語と思う、という前提に立って話を進めてもいいですか。

カタカナを見れば欧米語だと思うし、漢字を見れば6割がた?中国語だと思う。
これが欧米語になると、たとえばcliche(クリシェ。紋切り型という意味)はフランス語だが、これはまだアクサンテギュがついたeがあるのでそうかなーと思う(あとcheをシェと読むのもそれっぽい)。
しかし、あらゆる英語が、どれがラテン語由来で、どれがフラマン語由来で、ということはまったく分からない。
まあ、学者でもなければ分からないというより気にしない、ということかもしれない。

さて、ここで問題にしたいのは、最近のカタカナ語の「乱れ」である。

リアル(real)というのは形容動詞で、生々しいとか実感のこもったという話だ。
「リアルな話をすると、お金がないからできなかったんだ」
「あのスパゲティの蝋細工はリアルだ」
と言う風に使う。

名詞はリアリティだ。
「世の中には格差があるというリアリティに直面する」
と言うふうに使う。

しかし、最近は形容詞の「リアル」を名詞的に使うのである。
「今の若者たちのリアルを語る」
とか言うのである。

これが気になる。

「リアリティ」とは違うらしい。
「今の若者たちのリアル(な心情)を語る」といったところか。

ぼくもこの間自分で使っていて気づいた。
「リアルの知り合いが、サッカーに誘ってきた」みたいな用語法である。
この場合は「ネットではない」という意味である。

こういうときに「リアリティの知り合いが」というのは絶対おかしい。

「リアルの知り合い」。
変な言葉と分かっていても、口に出して言ってしまうと、文脈で通じてしまうので、結局使ってしまう。
これは本当の言葉の乱れであろう。

こういうのは前からある。

「フレンチをご馳走になる」、「イタリアンが食べたいなあ」というのも形容詞の名詞的用法である。
でもあんまり「ジャーマンが食べたい」、「スパニッシュが食べたい」とは言わない。
その場合はドイツ料理、スペイン料理と言うような気がする。
国によって扱いが違う。
フランス料理を「フレンチ」というのは最近の、1980年代のバブル以降の言い方のような気もする。

プライバシーのことをプライベートと言う人がいる。
「プライバシーに立ち入らないで下さい」
「プライベートなことに立ち入らないで下さい」
という意味で
「プライベートに立ち入らないでください」
と言う人がいる。
この文は上の2つとまったく同じ意味だ。

「プライベートに立ち入らないでください」というのが以前は気になって、間違って覚えてるんだなあ、といちいち思っていた。
「リアル」と「リアリティ」のように、意味があって使い分けているのではないのである。
単純に「プライベートなこと」という意味の名詞として「プライベート」と言っているだけだ。

しかし、よく考えたら、「プライベート」と「プライバシー」を英語ふうに言い分けること自体本当に必要か?という気もする。

どうせ「フレンチ」という言い方、形容詞を名詞のように使う使い方を許容しているのだ。

「リアルなスパゲティの蝋細工」というのも英語で通じるかどうか怪しい。
英語にすると「the real fake wax spagetti」だろうか。
わけが分からない。

英語ではthe realstic fake wax spagettiだろうか。
でも「リアリスティックなスパゲティの蝋細工」などといおうものなら、確実にトニー谷、イヤミ、ルー大柴と同じラインの人間になってしまう。







外来語は、カタカナに翻訳して日本語のシステムに組み込まれた時点で、新しい(新種の)日本語と考えるべきであり、もともとの英語としての意味は失っていると考えるべきだ。
だからプライベートを名詞で使おうが許容すべきだろう。

問題は、ぼくは割りとこれを(変に英語に引きずられて)区別する人間だ、ということだ。
「プライベートなことは仕事に関係ない」、「そこはプライバシーだから分けようよ」という風に、そんなカッコつけたことを言うかどうかはともかく、形容詞と名詞で使い分けるほうである。

どっちが主流になるか分からないが、そのうちどちらかが正しくてどっちが間違い、という時代が来るのであろうか。
あるいは、どっちを使ってもいいということに落ち着くのか。

もっと困るのは、明らかに英語では違うが、カタカナ語で書き分けるとヘン、という場合である。
IT用語に多い。

「オブジェクト変数をバイトの並びに変換するとファイルに保存できます。この変換をシリアライゼーション、変換することをシリアライズすると言います」みたいなやつである。

どっちかでいいと思う。
だとしたら「シリアライゼーションする」はおかしいから、名詞の方を「シリアライズ」と言うべきだろうか。

「オブジェクトのシリアライズに成功する」。

ううん、それでいいのだろうか。

やはりシリアライゼーションはシリアライゼーションで残したほうがいいような気がする。
コンピューターを使っているとマニュアルやエラーメッセージでどうしようもなく英語を見るから、結局どっちも読むのである。
シリアライズなんて難しい言葉を使う時点で、ずいぶんディープな世界に入っているんだから、もう一歩進んでシリアライゼーションぐらい覚えてもいいような気がする。

でも「もっとコミュニケーションが必要だ。知らない人とどんどんコミュニケートしていくべきだ」はやりすぎだ。
それこそルー大柴の世界になってしまうのである。

このへんは本当に塩梅が難しい。
確固たる線引きは不可能ではないだろうか。

もっと言うとserializationはシリアリゼーション、あるいはシリアルゼーションのような気がする。
forvo.com

結局カタカナ語は日本語の文法に馴染まないから漢語を使ったほうがいいのだろうか。
「私生活に立ち入るな」
「私的なことは仕事に関係ない」
だとしっくりする。
シリアライゼーションも平坦化でいい。

問題は、オブジェクトである。
「もの」だと座りが悪い。
「もの指向算法技術」とか絶対言わないほうがいい。

英語は全部ローマ字で書くという考え方もある。
倉橋由美子の小説が一部そうである。



「object変数をbyteの並びに変換するとfileに保存できます。この変換をserialization、変換することをserializeすると言います」

まあ慣れなくて読みにくいけど変な感じはしない。
難しくなったような気がするけど元の文章が難しいのだ。
英語の特徴で上下に字の高さが動くので見やすい、読みやすい、切れ目が分かりやすい気もする。
ただ、絶対に普及しないだろう。
Francisco Xavier Alegre
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