『「原因」と「結果」の法則(コミック版)』という本を買って読んでみた。
いわゆる自己啓発書であって、シャンとするようなことが書いてある。
それなりに勉強になったが、いくつか疑問が浮かんだので、そのことを書く。
本書は、表紙に出てくる青年が主人公の体験記になっている。
表紙で青年は「良い思いや行いは決して悪い結果を発生させないし、悪い思いや行いは決して良い結果を発生させないんだ」と説く。
大体これが内容のほとんどを占める。

最初この青年が財布を拾う。
(その前に電車で席を譲ったり、万引き犯を武道で懲らしめたりする。)
青年は正直にその財布を交番に届けると、警官に褒められる。
落とし主が現れたと連絡があるが、謝礼は辞退する。
すると私的に大金が謝礼として郵送されてくるが、「NPO 地球人同志の会」という団体に(スゴイ名前)寄付する。
会社で毎月、その月に誕生日の社員を祝う会をやっていて、そこで先輩が青年の感心な行動を社長に教える。
実は財布の持ち主は社長の奥さんだった。
青年は社長と奥さんのお気に入りになり、『「原因」と「結果」の法則』という本を勧められる。

というのが冒頭のストーリーである。

だいたい「いいことをするといいことが起きる」ということになっている。
青年も物語の中で自分で言っていることだが、「花咲か爺さん」と同じである。

そう思うのはいい心がけだと思う。
ぼくもこのブログの中で、愛は愛を呼ぶとか、散歩をするとき空き缶を拾うと気持ちがいいとか、良く書いている。

ぼくは最近気が向いたらイイコトをしてみるが、「のちのち自分にもいいことがある」という「見返り」を求めて行うわけではない。
イイコトなんかやってみる、それ自身が気持ちいいからやってみているだけである。

いいことをしていれば、必ずいいことが起きるだろうか。


そうも限らない。
ことさらにいいことをしていたら、なんだこいつ、と思われて、かえって苦しい思いをしたり、不利益を被ることもしばしば起こる。
マンガの主人公がいろいろいいことが立て続けに起こるのは「たまたま」である。
もっと言うとそういう風になるようにマンガの作者が書いたからである。

いいこととは何か、というのも難しい。

マンガの中でこういうセリフがある。
「人間が刑務所に入ったり貧困に苦しんだりするのは過酷な運命や環境のせいだと思うか…?」
「それが違うんだな」
「そうなるのはひとえに彼ら自身の不純な思いと利己的な欲望のせいなんだよ」
「澄んだ心をもつ人間はたとえどんな誘惑を受けたとしても決して犯罪に走ったりしない」
「心の中で養われパワーを増した犯罪につながる思いが外に現象化したとき」
「犯罪は初めて発生するんだ」

本当だろうか。

犯罪と言うのはその国の法律を破ることである。

たとえば国際ニュースでレイプされた女性が犯人の男性と結婚を強制された、結婚を拒否したら女性の方が鞭打ちの刑になった、という話がある。
この場合「レイプされたのに犯人の男性と結婚しないこと」が犯罪であるが、不純な思いや利己的な欲望を抱いているのは明らかに男性の方だ。

女性の処女性の価値が狂信されている国では、少女の性器を切除してしまったり、婚前交渉した女性を生きながら火を付けてしまうという痛ましいことが起こる。

我々文明人が開明的な視点から批判するのはカンタンであるが、やってる本人は大真面目であって、それがイイコトだと信じている。
やらないとワルイコトが自分や、娘や、一族に降りかかるから、必死にやっているのである。

それは話が極端だ、そういう未開な国は法律がワルイからこの法則には当てはまらない、日本のような「イイ国」では法律に従わないのはワルイヒトだ、という議論があるかもしれない。

しかし先日兵庫県小野市で「生活保護をもらっている人がパチンコをしていたら、他の市民はそれを通報する義務がある」という条例が可決した。

生活保護をもらっている人がパチンコをしているのに通報しないことはワルイコトであり、通報しない人は不純で利己的なワルイヒトであるということだろうか。

ぼくは働けない貧しい人が適当にパチンコぐらいしていてくれてかまわないと思う。
ストレスがたまって変なことになるよりいいと思うのである。
ていうか、もっと言うと、ドーデモイー。
それが犯罪的で反国家的であるというなら、ワルイヒトと呼ばれても構わない。
そういう人を通報した方が、全然心がスッキリしない。

本の作者は、「真善美」が一致するというカント的な悟性哲学に支配されている。


また、法律はイイコトであって人間自体についての善と一致する、それに従っていれば従う人が自然に幸福になるほどイイコトである、という前提に立ってこの本を著している。
で、ぼくはその考えには限界があると思う。

まあ、しょせん206ページのマンガであって、書きたいことを絞って、読みやすいように省略して書いているので、そういう深いことは各自考えてください、というスタンスなのだろうか。

もっと気になるのは、『「原因」と「結果」の法則』に目覚めた青年が(想像の中で)貧しい人は心がけが悪いからだ、病気の人はだらしないからだ、と次々に指弾していくところだ。
「レッドカード!」と青年はそういうだらしない人たちに言う。
「でも、俺だって…」とだらしない人が文句を言おうとすると「デモもストライキもなーい!」と一括する。

これは最近大河ドラマ「八重の桜」にも出てくる会津の精神「ならぬことはならぬものです」に通じるものである。

ぼくはこれが大嫌いだ。
ダメなものはダメだ、と言ってしまっていたら、結局古い人、力を持つ人、たまたまその時の法律を制定している人の言い分が通るものである。
レイプされた少女はレイプ犯と結婚すべきだ、と言う人も、生活保護をしている人がパチンコをしているのを見かけたら通報すべきだ、という兵庫県小野市の市長も、みんな「ならぬことはならぬもの」と思っていることだろうし、言っているかもしれない。
しかしぼくは、意に反することには子供のように反論し続けたい。
それが「悪い結果」を引き寄せてしまってもである。

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