今年のニュースで印象に残ったことのひとつに、文豪ガルシア・マルケスが認知症になったらしいということがあった。
マルケスは昔ラテン・アメリカ文学が流行っていた頃にハマって読んでいたが、やはり代表作の「百年の孤独」が一番面白かった。
出だしが
マルケスは昔ラテン・アメリカ文学が流行っていた頃にハマって読んでいたが、やはり代表作の「百年の孤独」が一番面白かった。
出だしが
長い歳月がすぎて銃殺隊の前に立つはめになったとき、おそらくアウレリャーノ・ブエンディーア大佐は、父親に連れられて初めて氷を見にいった、遠い昔のあの午後を思い出したにちがいない。という文章で、これはあらゆる小説の中でいちばんカッコイイ書き出しだと思っている。
その「百年の孤独」の中に、流行性の健忘症というエピソードが出てくる。
村人がみんな物忘れがひどくなって、どんどん、どんどん色んなものの名前を忘れてしまうので、ものに名前を書いて札を下げる。
「百年の孤独」は後に寺山修司が「さらば方舟」という映画にするが(権利が取れなくて勝手に映画化したものらしい)、映画でもこの場面が効果的に使われていた。
それを覚えていたので、今年ひさしぶりにマルケスの名前を新聞で読んで、あらゆるものの名前を忘れてしまう村を描写したマルケスが、自身認知症になってしまうというのがなんとも皮肉に感じられたものだ。
さて、今年からタスク管理やライフログと平行して部屋の整理もしているが、部屋の整理というのは見た目がスッキリしても実は何にもならない。
ぼくが好きな池田暁子さんのコミック・エッセイでも、最初は汚い部屋をキレイにする(床が見えている)というレベルでの片付けで満足していた。
その過程は「片づけられない女のためのこんどこそ!片づける技術」に書かれている。
しかし、自分ではキレイだと思っている部屋にある女性編集者を招くと「全然片付いてないじゃないですか」と言われ、池田さんは衝撃を受ける。
要はモノが秩序だって置かれていない、使うものの動線が出来ていないため、何かものを出すたびに無駄な動きが多い。
このままではすぐに散らかってしまう、といわれるのである。
この状態から池田さんはさらに真の整理整頓に勤める。
これは「必要なものがスグに!とり出せる整理術!」に書かれている。
言わば「かくれ肥満」のようなもので、この段階でさらに一冊本が書けるほど努力するのは並大抵ではないと思うが、この2冊目の本がすごく面白い。
要約すると「同じものは一箇所にまとめる」「よく使うものは出しやすくする」ということだ。
当然「使ったものは元の場所に置く」「不要なものは増やさない」ということが前提になる。
でも思ったんだけど、ぼくぐらい重症のゴミ屋敷になると、それだけでは間に合わない気がする。
なにしろ必要なものがすごく多く、微妙に違うので「同じものは同じ場所」というだけでは追いつかない気がする。
たとえば電気製品のケーブルにしても、電源ケーブルと、AVケーブルと、データケーブルでは全然機能と使う局面が違う。
これを混ぜると大変だ。
この場合は、引き出しにいれてネームランドでラベルを貼る。
これはもうなんとなくやっている。

で、思ったのが、これをもっと普遍化し、あらゆるものの置き場所に名前を書いて、そこに必ず収納することにすればいいのではないだろうか。
「Tシャツ」「ポロシャツ」「アロハシャツ」「トレーナー」みたいな感じである。
言わば「百年の孤独」整理法だ。
昨日書いた泉正人さんのチェックリストの話ではないが、人間は自分の能力や意志の力、特に記憶力に頼ると危険である。
今日覚えていても、明日忘れるかもしれないから、書いてしまう。
書くと、忘れない。
実際はカンニングペーパーを作ると覚えてしまうのと一緒で「Tシャツ」などと書いてタンスの引き出しに貼った時点で、もうそこにTシャツを入れることは覚えてしまうかもしれない。
しかし、書かなければ、覚えない。
余計なことを書いているのと、必要なことを書いていないのだったら、前者の方が明らかにいい。
チェックリストは人間のプログラミングということを昨日書いたが、部屋もプログラミングできるのではないか。
ぼくのようにブッキッシュで言葉に支配されている人間は、このやり方があっているように思われる。
そして洗濯物を取り込んで引き出しに分類している時点で、いちいち記憶の力を使わなくて済む。
半ば自動的に出来てしまうので、脳がより創造的なこと、楽しいことに解放できる。
ちょっと気を抜いて部屋が散らかってしまっても、ものが名前がついたところに置いてないのだから、気持ち悪くて無意識にスッと整理すると思う。
どうでしょうか。
まだやってないのだが、来年はこれに取り組んでみようと思う。
さて、名前がついていると絶対に便利なのだが、意外と名前を書かないのが電気のケーブルだ。
ビデオデッキ周りなどすぐにグチャグチャになってしまうが、ケーブルは細くて、字を書きにくい。
ぼくはこれを解消しようと思って、「ケーブルアイディー」という製品を注文してみた。
まだ届いていないのだが、非常に使いやすそうだ。
使ってみたらまた報告する。



村人がみんな物忘れがひどくなって、どんどん、どんどん色んなものの名前を忘れてしまうので、ものに名前を書いて札を下げる。
「百年の孤独」は後に寺山修司が「さらば方舟」という映画にするが(権利が取れなくて勝手に映画化したものらしい)、映画でもこの場面が効果的に使われていた。
それを覚えていたので、今年ひさしぶりにマルケスの名前を新聞で読んで、あらゆるものの名前を忘れてしまう村を描写したマルケスが、自身認知症になってしまうというのがなんとも皮肉に感じられたものだ。
さて、今年からタスク管理やライフログと平行して部屋の整理もしているが、部屋の整理というのは見た目がスッキリしても実は何にもならない。
ぼくが好きな池田暁子さんのコミック・エッセイでも、最初は汚い部屋をキレイにする(床が見えている)というレベルでの片付けで満足していた。
その過程は「片づけられない女のためのこんどこそ!片づける技術」に書かれている。
しかし、自分ではキレイだと思っている部屋にある女性編集者を招くと「全然片付いてないじゃないですか」と言われ、池田さんは衝撃を受ける。
要はモノが秩序だって置かれていない、使うものの動線が出来ていないため、何かものを出すたびに無駄な動きが多い。
このままではすぐに散らかってしまう、といわれるのである。
この状態から池田さんはさらに真の整理整頓に勤める。
これは「必要なものがスグに!とり出せる整理術!」に書かれている。
言わば「かくれ肥満」のようなもので、この段階でさらに一冊本が書けるほど努力するのは並大抵ではないと思うが、この2冊目の本がすごく面白い。
要約すると「同じものは一箇所にまとめる」「よく使うものは出しやすくする」ということだ。
当然「使ったものは元の場所に置く」「不要なものは増やさない」ということが前提になる。
でも思ったんだけど、ぼくぐらい重症のゴミ屋敷になると、それだけでは間に合わない気がする。
なにしろ必要なものがすごく多く、微妙に違うので「同じものは同じ場所」というだけでは追いつかない気がする。
たとえば電気製品のケーブルにしても、電源ケーブルと、AVケーブルと、データケーブルでは全然機能と使う局面が違う。
これを混ぜると大変だ。
この場合は、引き出しにいれてネームランドでラベルを貼る。
これはもうなんとなくやっている。

で、思ったのが、これをもっと普遍化し、あらゆるものの置き場所に名前を書いて、そこに必ず収納することにすればいいのではないだろうか。
「Tシャツ」「ポロシャツ」「アロハシャツ」「トレーナー」みたいな感じである。
言わば「百年の孤独」整理法だ。
昨日書いた泉正人さんのチェックリストの話ではないが、人間は自分の能力や意志の力、特に記憶力に頼ると危険である。
今日覚えていても、明日忘れるかもしれないから、書いてしまう。
書くと、忘れない。
実際はカンニングペーパーを作ると覚えてしまうのと一緒で「Tシャツ」などと書いてタンスの引き出しに貼った時点で、もうそこにTシャツを入れることは覚えてしまうかもしれない。
しかし、書かなければ、覚えない。
余計なことを書いているのと、必要なことを書いていないのだったら、前者の方が明らかにいい。
チェックリストは人間のプログラミングということを昨日書いたが、部屋もプログラミングできるのではないか。
ぼくのようにブッキッシュで言葉に支配されている人間は、このやり方があっているように思われる。
そして洗濯物を取り込んで引き出しに分類している時点で、いちいち記憶の力を使わなくて済む。
半ば自動的に出来てしまうので、脳がより創造的なこと、楽しいことに解放できる。
ちょっと気を抜いて部屋が散らかってしまっても、ものが名前がついたところに置いてないのだから、気持ち悪くて無意識にスッと整理すると思う。
どうでしょうか。
まだやってないのだが、来年はこれに取り組んでみようと思う。
さて、名前がついていると絶対に便利なのだが、意外と名前を書かないのが電気のケーブルだ。
ビデオデッキ周りなどすぐにグチャグチャになってしまうが、ケーブルは細くて、字を書きにくい。
ぼくはこれを解消しようと思って、「ケーブルアイディー」という製品を注文してみた。
![]() スマートなデザインでコード管理が簡単ケーブル用タグ/ケーブルアイディーCABLE-ID/ケーブルア... |
まだ届いていないのだが、非常に使いやすそうだ。
使ってみたらまた報告する。



