このブログはFacebookに更新通知を流しているが、写真を一枚でも載せていればその画像がFacebookにも載ることに気づいた。
せっかくだから、Instagramなどに載せた写真を適当にこっちにも転載しようと思う。
写真と内容は関係ありません。

今日は政治の話(せじばな)である。
日曜に選挙を控えて、ニュースでも政治の話をやっているし、否が応でも政治のことを考える。
今回はなぜ選挙になったのかよく分からないのだが、たまに選挙などあって、政治について考えるのも悪いことではないと思う。
どうせだからコントラヴァーシャルな、意見が分かれそうなことについて考察しよう。

今回自民党は「生活保護を見直す」というのを目玉政策としてあげている。
石原伸晃氏がテレビのニュースショーでこの問題を取り上げ、8000億円は削減できる、と言っている。

ぼくはこの話を聞いて違和感を感じた。
不正な税金の使用を正すのは政治家の役目であることは間違いがない。
しかし、これがなぜ選挙のためのアピールポイントになるのか。

ぼくは貧乏な人が、余計なお金をもらっていようが、いまいが、あんまり気にならない。
所詮ひとごとだからである。
貧乏な人がもらうお金なんてしれている。
あまり自分には関係がない。

もしこのお金がそのままドーンと自分にもらえる、つまり税金をダイレクトにまけてくれるのであれば大賛成だ。
でも現実にはそうはならない。
日本経済は昔から慢性的に財政赤字で、むしろ我々の税負担は増えている。
「あなたの暮らしをよくしますよ」ということを政党がアピールするなら分かるが「あなた以外の人の暮らしをもっとキツくしますよ」という政策はあまり心に響かない。
どっちかというと、自分以外の人も幸せになればいいんじゃないのと思っている。

この問題がクローズアップされたのは今年の春にお笑い芸人の人が、自らは一晩100万円も飲みに使うような生活をしながら、実母に生活保護を受けさせていたことが明るみに出たときだ。
不正受給は悪いことには変わりがなく、やめてもらいたい。

この問題でぼくが非常に憤ったのは、芸人の人が「自分なんかは不安定な仕事で、いつ悪くなるかわからないから」生活保護を受けていた、と語ったことだ。
これは明らかに誤りであって、生活保護は貯金したり明日に備えたりするためにもらうものではない。
生活に困ったらその時点で申請すればいいのである。
ということで、この事件では芸人の人は弁解の余地なく悪いと思った。

生活保護自体がいいかどうかと、不正受給の問題はまったく別だ。
ズルは良くない。

ズルで思い出すのは小泉純一郎元首相の厚生年金不正加入問題だ。
小泉さんは横浜の不動産会社の営業マンをしていたのだが、この会社の籍を、政治家秘書になっても抜かなかった。
国会議員に当選したあとも、抜かなかったのである。
結構な額の給料をもらっていて、そのうえ厚生年金に加入していた。

このとき小泉さんは「次の選挙で勝つのがあんたの仕事だと言われた」「人生いろいろ、会社もいろいろ」と言った。



そんなわけあるかと思う。
どう控え目に見ても不動産会社の利益供与、政治献金である。
不動産会社が政治献金をするのは百歩譲って認めるとしても、厚生年金の加算部分には税金も含まれる。
社会保障制度で個人的に援助されちゃいけないよ、小泉さん!

でもズルい人は往々にして、いる。
貧乏な人にも、金持ちな人にも、芸人にも、政治家にもいる。
それは見張るべきだと思う。

でも、それと「生活保護が一般的にいいか悪いか」はまったくの別問題だ。

芸人の人の問題がクローズアップしたとき、一部の政治家が「生活保護は恥ずかしいという認識を持て」と発言した。
これは理解できない。
人間は貧乏になることがどうしようもなくある。
ぼくもフリーランスでプログラマーをやっていたとき、中請けの会社にだまされて半月給料が止まったときは地獄を見た。
このときは福祉に訴えることは考えなかったが、どんなに貧乏であっても、健康で文化的な最低限の生活を送る権利が認められている。
たまたま仕事にあぶれても、しっかり英気を養って捲土重来を期せばいいのである。
それが生活保護だ。
なぜ「恥ずかしく思う」ことまで義務づけられるのか。

単純に、今のまま制度を厳格化すれば、家のない人が増えて、自殺者が増える。
いったん落ちた人は再チャレンジする可能性が極小化するので、どんどん貧乏な人は増えていく。
スラムが出来て、治安が悪くなる。

電車の中で寝ている日本人は平和ボケだ、と言われる。
たしかにそうだろう。
でもぼくは、平和ボケな日本に生まれて幸せである。
もし貧乏な人が町にあふれ出せば、いつも手荷物をかっぱらわれることを気にして、貧しい国のようにびくびくして生きないといけない。
そんなのうっとうしくてしょうがない。

町に貧しい人が増えると、たとえ現時点でたまたま貧しくない人も、生活のクォリティはむしろ悪くなるのである。
自分ひとりが幸せになるのは難しいのだ。
だったら、多少ズルをしている人がいたとしても、おとなしくのんびりしていてもらったほうがよほどいい。
それは、社会を明るく安全に保つために、支払うべきコストである。

そうぼくはそう思っているのだが、厳格化が選挙のアピールポイントになると自民党が思っている以上、ぼくのような考えは少数派なのかもしれない。

いろいろ考えていて思い出したことがある。

Wikipediaの項目「フリーライダー」に、面白い記述があった。
上述の公共経済学におけるフリーライダー論(正の外部性を有しつつ排除性を有しない財をその対象とする)とは異なるが、実験経済学での日米比較実験によると、日本人はアメリカ人と比べ、自分が損をしてもフリーライドする人の足を引っ張る傾向にある[2]。たとえば、友人と2人でアルバイトを始めるにあたり、店を選ぶ決定権が自分にある場合、自分も友人も10万円もらえる店Aと、自分は9万9千円もらえるが友人は8万円しかもらえない店Bを選ぶとき、約1割の日本人がBを選択する。 この傾向は小学生低学年には見られなかったことから、ある程度年齢を経るにつれ、徐々に得られるものだと思われる。

また日米の大学院生を対象とした同様の実験では[3]、日本の学生はアメリカの学生に比べて、自分の利益をかなり下げてでも、参加をしない相手に損をさせようとする傾向が高いという実験結果となった。そこから得られた示唆として、公共経済に対するフリーライダーのあり方にも、日本では独特の背景があるとしており、「日本の社会ではみんなで仲良く協力してコトにあたっているのではなく、協力しないと後が怖い、というところでしょうか」と結論している。

つまり日本人は、自分が得をすることは必ずしも最優先ではなく、他人が得をしないことの方がより重要ということである。

よく「他人に教えたくない! マル秘ダイエット」などという題名の本があるが、ぼくはこれを見ると不思議に思う。
みんなで仲良くやせて、美しく健康になれば世の中天国ではあるまいか。
しかし、この本の題名をそのまま信じれば「自分はやせたいけど、他の人にはやせて欲しくない」ということになる。
この気持ちがちょっと理解できない。
理解できないなりに、そういう人が多いんだろう。

このフリーライダーを異例に排除する日本の社会性に、生活保護厳格化論はうったえているのかもしれない。

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