自民党の憲法改正草案が発表されたのは、今年の2月25日のことであった。
まだ大地震から1年経っていない冬の寒い日で、原発問題についても苛烈な議論が続いていた。
尖閣諸島、竹島での領土問題も起こる間際であった。
それにしても民主党政権は国家的な問題を数多く経験した。
ご苦労様。
そんな大問題のさなかに、いい悪いは別にして、「天皇の元首化」、「国防軍の設置」という国論を二分する議論をブチ上げる自民党は、ちょっとKYというか、もうちょっと地震や原発のこと、目先で困ってる人のことを考えた方がいいんじゃないの、と思っていた。
いまもこの気持ちは変わらない。
しかし、衆議院解散、総選挙になって、この問題が俄かに我々の暮らしに直結する問題として浮上してきた。
憲法改正草案を選挙の前に堂々と発表した自民党は、正直エライと思う。
国民はこれを個人個人読み込んで、賛成な人は自民党に、前のままでいい人は別の党に投票すればいいのだ。
ぼくも今回、自分なりに研究した結果を発表しようと思う。
と、思っていたのだが、さすがにホットな問題であって、数多くのブログが発表されているのである。
あと、昔の記事だが、これも関係がある。
2007.01.22 「法治国家」ではダメ(津久井進の弁護士ノート)
いずれも詳細で専門的な記事であって、ここでぼくなんかが適当に書くよりもそちらに当たって欲しいが、まあ自分でもせっかく考えたので書いてみる。
よく「ちゃんと働かないで、税金も納めていないのに、福祉に頼っちゃダメだよ」という「道徳的」な文脈で、「義務を果たさずに権利ばかり主張しちゃダメだよ」と言う人がいる。
「私は働いても働いても給料はちょっぴりで、その上税金や年金をごっそり取られているのに、そのお金を福祉からもらってパチンコとか行っている人がいるらしい。ズルイ!」
という考え方だ。
気持ちは分かるが、間違っている。
権利は義務の対価として国から与えていただくものではない。
天与のものだ。
(宗教的な意味ではなく、生まれ持って備えているという意味)
たとえば缶コーヒーであれば、1本買うために120円をお店に払わないといけない。
これは当然だ。
というのは、客には缶コーヒーを飲む権利があるのと同様、店にはお金をもらう権利があるからだ。
これは法の下に平等な複数の人間の権利が拮抗している状況であって、客は金を払う義務を果たし、店は品物を渡す義務を果たすことで、はじめてお互いの権利を享受できる。
つまり、大勢の人間の権利を公正公平に守るために、はじめて法律が必要になり、法律が義務を規定する。
しかし基本的人権には「お店」がない。
生まれたばかりの赤ん坊には義務がない。
権利のカタマリであって「お前はすべての用事に優先して俺の面倒を見ろ」とぎゃあぎゃあ泣く。
病気や加齢によって寝たきりになった人にも権利しかない。
ぼくも病気がちで、いずれそうなると思うので、その節はみなさんよろしくお願いします。
寝たきりの人は、果たした義務の量に応じて、ぴったり対価としての権利を受け取るわけではない。
「アンタは稼ぎが悪かったから、高級な治療とかやってあげないよ」とか、「あんたの納めた税金の分はもう使い切ったから、ここで死んでね」とか、そんな冷たいこと言わないで欲しい。
困る。
じゃあなぜ「勤労」「納税」「教育」の三大義務が定められているのだろうか。
これは、権利が保証される社会を安定稼動させるために、必要経費を稼ぎ出しなさい、と言うものであろう。
日本は不労所得を認めている。
若いうちにがんばって稼ぐか、あるいは親からボンと遺産を相続して、ありあまるお金があって、利息だけでも十分生きていける人は、働かなくても別にしょっ引かれないし、そういう人はいっぱいいる。
うらやましい。
つまり勤労は義務ではない。
ということで、権利は天与のものであって、義務の対価ではないことは明らかだ。
そう、思っていたのだが、いまの自民党の人はそうは思っていないようだ。
つまりこういうことだ。
義務を人間が果たすと、それを国が評価してくれて、権利をくれる。
人間はそれをありがたくいただく。
別に天がくれようが、国がくれようが、権利がもらえればいいんじゃないのと思う。
でも国がちゃんとぼくの義務を査定して、応分の権利をくれるかどうかは、国次第である。
「課長、今度の金曜と月曜、有給取っていいですか。。ウチのヤツが旅行に連れてけってうるさいんで」
「ン? ダメだダメだ。お前はふだんからサボってばかりじゃないか。みんな忙しいのに有給なんて出せるか!」
「ええー。でも先週も残業したし、休出だってしたじゃないですかー。休まないと体こわしちゃいますよー」
こんな折衝をした人はいないだろうか。
有給がもらえるかどうかは課長のハラ一つ。
こういう、「人の権利を制限する権利」を国に与えようというわけである。
でも、別に国って言う名前の化け物がいるわけじゃなくて、ここでいう国とは、その時そのときの政権与党ということだ。
つまり、人が人の上に立つわけである。
いったん憲法が制定されたら、その憲法は自民党だけが使うとは限らない。
自民党は「どんな憲法でも良く使うから大丈夫です」と言うかも知れないが、たとえば某国共産党の強烈な指導を受けた極左政権がこの憲法を使うかもしれないのである。
「お前は某国に行って強制労働しろ。これは国民の義務であって公益および公的秩序を守るために行うものであって、反抗したら銃殺刑だ」
もし人権を与えるかどうかは国しだいという憲法が制定されたら、こんなことだって可能になる。
そういう国はいくらでもある。
もう一つは法治主義に関わる部分である。
さっきさんざん論じた、「義務を果たさずに権利ばかり主張しちゃダメだよ」と一緒で、法律を守って真面目に暮らさないとダメだよ、という意味で、「日本は法治国家だよ」と言う人がいる。
この言い方も間違いである。
法治国家というのは、法律によって国が統治されているという意味である。
国は国民の権利を守らないといけない。
そのために、憲法が国を縛っている。
これが立憲主義、法治主義である。
このことは、大日本帝国憲法でも意識されていた。
伊藤博文の「憲法義解」には、下のような文章が見える。
(伊藤博文著『憲法義解』の現代語訳(HISASHI))
日本国憲法は、この関係(憲法を守るのは国であるということ)が明確に書かれている。
これに対して、自民党試案では、この主体が変わっている。
このように、自民党憲法改正試案では、国が憲法を使って国民を縛る。
主語と述語が転倒しているのである。
自民党憲法改正試案が正式に新日本国憲法になった国では、国家が国民の権利を自由に制限する。
あなたのその行動(まあ、デモとか出版とか)が公益および公的秩序をそこなうと、そのときの政府が思えば(自民党かどうか分からない)その行動は制限されうる。
その制限はどこまで大きいのか、どういう場合に国は国民を制限しうるのか、そこを憲法に記述しないといけないのだが、それが書いていないのである。
フリーハンドだ。
つまり、日本国憲法の精神であり、大日本帝国憲法の精神でさえあった立憲主義、法治主義を、ここで廃止しようというのである。
そして基本的人権も天与のものではなく、国が義務の見返りとして下賜くださるものであって、その国民が国から見て十分に義務を果たさず、その国民が公益および公的秩序をそこなうと国が判断すれば制限される。
まとめていえば、国民が国に権力を譲り渡すことにする、主権在民をやめる、というのが自民党試案の本義である。
それでも別にいい、という人がいるかもしれない。
別に権利とかなくてもいい、国は偉い人が治めているのだから、任せておけば大丈夫だ。
下手に国民に権利とか与えると、福祉とかお金が掛かるし、反体制的なやつらがデモをしたりするから面倒だ。
そういう考えの人は、自民党に投票すればいい。
そうではなく、今まで通り国民に天与の権利があって、権利を持つ国民同士対立があった場合は話し合いや裁判で解決すればいいと思っている人は、それ以外の党に投票すればいい。
選挙前にこのことが明らかになって、自民党は正々堂々としているとは思う。
安定多数になってからこっそりやるのではないので、その点は素直に評価したい。
ただ、ぼくの気持ちとしては、2012年の今の時期は、震災復興や原発問題に日本人は注力すべきだと思う。
震災後は日本人は「絆」という言葉のもと、立場の違いを超えて、力を合わせて復興に取り組もうとしたはずだ。
その気持ちをもう忘れてしまっていいのだろうか。
いま国論を割るべきだろうか。
もっと復興や原発の話を聞きたい。
他の話は正直後回しでいい。
それが素直な気持ちである。
地震に乗じて、変なことをしようとしている、火事場泥棒のように思われるのは、自民党にとっても本意ではないはずだ。



【拡散希望】自民党憲法草案の条文解説 9oo.jp/gjtEM 全条文を載せ、事実を主体として、極力中立的に書いています。条文上表現規制しやすくし営業規制しにくくしていること、徴兵制を合憲とも違憲とも言っていないこと、国民の憲法尊重義務を新設したことは客観的事実。
— s(司法関係者)さん (@satlaws) 12月 5, 2012【ブログ更新】「権利行使には義務が伴う」というフレーズに対するよくある誤解 - 脱社畜ブログ dennou-kurage.hatenablog.com/entry/2012/12/…
— 電脳くらげさん (@dennou_kurage) 12月 8, 2012あと、昔の記事だが、これも関係がある。
2007.01.22 「法治国家」ではダメ(津久井進の弁護士ノート)
いずれも詳細で専門的な記事であって、ここでぼくなんかが適当に書くよりもそちらに当たって欲しいが、まあ自分でもせっかく考えたので書いてみる。
よく「ちゃんと働かないで、税金も納めていないのに、福祉に頼っちゃダメだよ」という「道徳的」な文脈で、「義務を果たさずに権利ばかり主張しちゃダメだよ」と言う人がいる。
「私は働いても働いても給料はちょっぴりで、その上税金や年金をごっそり取られているのに、そのお金を福祉からもらってパチンコとか行っている人がいるらしい。ズルイ!」
という考え方だ。
気持ちは分かるが、間違っている。
権利は義務の対価として国から与えていただくものではない。
天与のものだ。
(宗教的な意味ではなく、生まれ持って備えているという意味)
たとえば缶コーヒーであれば、1本買うために120円をお店に払わないといけない。
これは当然だ。
というのは、客には缶コーヒーを飲む権利があるのと同様、店にはお金をもらう権利があるからだ。
これは法の下に平等な複数の人間の権利が拮抗している状況であって、客は金を払う義務を果たし、店は品物を渡す義務を果たすことで、はじめてお互いの権利を享受できる。
つまり、大勢の人間の権利を公正公平に守るために、はじめて法律が必要になり、法律が義務を規定する。
しかし基本的人権には「お店」がない。
生まれたばかりの赤ん坊には義務がない。
権利のカタマリであって「お前はすべての用事に優先して俺の面倒を見ろ」とぎゃあぎゃあ泣く。
病気や加齢によって寝たきりになった人にも権利しかない。
ぼくも病気がちで、いずれそうなると思うので、その節はみなさんよろしくお願いします。
寝たきりの人は、果たした義務の量に応じて、ぴったり対価としての権利を受け取るわけではない。
「アンタは稼ぎが悪かったから、高級な治療とかやってあげないよ」とか、「あんたの納めた税金の分はもう使い切ったから、ここで死んでね」とか、そんな冷たいこと言わないで欲しい。
困る。
じゃあなぜ「勤労」「納税」「教育」の三大義務が定められているのだろうか。
これは、権利が保証される社会を安定稼動させるために、必要経費を稼ぎ出しなさい、と言うものであろう。
日本は不労所得を認めている。
若いうちにがんばって稼ぐか、あるいは親からボンと遺産を相続して、ありあまるお金があって、利息だけでも十分生きていける人は、働かなくても別にしょっ引かれないし、そういう人はいっぱいいる。
うらやましい。
つまり勤労は義務ではない。
ということで、権利は天与のものであって、義務の対価ではないことは明らかだ。
そう、思っていたのだが、いまの自民党の人はそうは思っていないようだ。
@taiyonokokoro50国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!
— 片山さつきさん (@katayama_s) 12月 7, 2012つまりこういうことだ。
義務を人間が果たすと、それを国が評価してくれて、権利をくれる。
人間はそれをありがたくいただく。
別に天がくれようが、国がくれようが、権利がもらえればいいんじゃないのと思う。
でも国がちゃんとぼくの義務を査定して、応分の権利をくれるかどうかは、国次第である。
「課長、今度の金曜と月曜、有給取っていいですか。。ウチのヤツが旅行に連れてけってうるさいんで」
「ン? ダメだダメだ。お前はふだんからサボってばかりじゃないか。みんな忙しいのに有給なんて出せるか!」
「ええー。でも先週も残業したし、休出だってしたじゃないですかー。休まないと体こわしちゃいますよー」
こんな折衝をした人はいないだろうか。
有給がもらえるかどうかは課長のハラ一つ。
こういう、「人の権利を制限する権利」を国に与えようというわけである。
でも、別に国って言う名前の化け物がいるわけじゃなくて、ここでいう国とは、その時そのときの政権与党ということだ。
つまり、人が人の上に立つわけである。
いったん憲法が制定されたら、その憲法は自民党だけが使うとは限らない。
自民党は「どんな憲法でも良く使うから大丈夫です」と言うかも知れないが、たとえば某国共産党の強烈な指導を受けた極左政権がこの憲法を使うかもしれないのである。
「お前は某国に行って強制労働しろ。これは国民の義務であって公益および公的秩序を守るために行うものであって、反抗したら銃殺刑だ」
もし人権を与えるかどうかは国しだいという憲法が制定されたら、こんなことだって可能になる。
そういう国はいくらでもある。
もう一つは法治主義に関わる部分である。
時々、憲法改正草案に対して、「立憲主義」を理解していないという意味不明の批判を頂きます。この言葉は、Wikipediaにも載っていますが、学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。昔からある学説なのでしょうか。
— 礒崎陽輔さん (@isozaki_yousuke) 5月 28, 2012さっきさんざん論じた、「義務を果たさずに権利ばかり主張しちゃダメだよ」と一緒で、法律を守って真面目に暮らさないとダメだよ、という意味で、「日本は法治国家だよ」と言う人がいる。
この言い方も間違いである。
法治国家というのは、法律によって国が統治されているという意味である。
国は国民の権利を守らないといけない。
そのために、憲法が国を縛っている。
これが立憲主義、法治主義である。
このことは、大日本帝国憲法でも意識されていた。
伊藤博文の「憲法義解」には、下のような文章が見える。
(伊藤博文著『憲法義解』の現代語訳(HISASHI))
附記:欧州で最近、政治理論を論ずる者の説に言うには、「国家の大権は大別して二つで有る。立法権・行政権であり、司法権は実に行政権の支派である。三権各々その機関の輔翼によってこれを行う事は、ひとえに皆元首に淵源する。蓋し、国家の大権は、これを国家の体現で有る元首に集めれば、これによってその生機を持つことが出来なくなる。憲法は即ち国家の各部機関に向けて適当な定分を与え、その経絡機能を持たせるものであって、君主は憲法の条規によって、その天職を行う者で有る。故に彼のローマで行われた、無限権勢の説はもとより、立憲の主義ではない。そして西暦18世紀の末に行われた三権を分立して君主は特に行政権を執行するとの説の如きは、国家の正当なる解釈を誤るもので有る」と。この説は我が憲法の主義と相発揮するに足る物があるので、ここに附記して、参考に当てる。
日本国憲法は、この関係(憲法を守るのは国であるということ)が明確に書かれている。
第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
これに対して、自民党試案では、この主体が変わっている。
第99条 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
このように、自民党憲法改正試案では、国が憲法を使って国民を縛る。
主語と述語が転倒しているのである。
自民党憲法改正試案が正式に新日本国憲法になった国では、国家が国民の権利を自由に制限する。
あなたのその行動(まあ、デモとか出版とか)が公益および公的秩序をそこなうと、そのときの政府が思えば(自民党かどうか分からない)その行動は制限されうる。
その制限はどこまで大きいのか、どういう場合に国は国民を制限しうるのか、そこを憲法に記述しないといけないのだが、それが書いていないのである。
フリーハンドだ。
つまり、日本国憲法の精神であり、大日本帝国憲法の精神でさえあった立憲主義、法治主義を、ここで廃止しようというのである。
そして基本的人権も天与のものではなく、国が義務の見返りとして下賜くださるものであって、その国民が国から見て十分に義務を果たさず、その国民が公益および公的秩序をそこなうと国が判断すれば制限される。
まとめていえば、国民が国に権力を譲り渡すことにする、主権在民をやめる、というのが自民党試案の本義である。
それでも別にいい、という人がいるかもしれない。
別に権利とかなくてもいい、国は偉い人が治めているのだから、任せておけば大丈夫だ。
下手に国民に権利とか与えると、福祉とかお金が掛かるし、反体制的なやつらがデモをしたりするから面倒だ。
そういう考えの人は、自民党に投票すればいい。
そうではなく、今まで通り国民に天与の権利があって、権利を持つ国民同士対立があった場合は話し合いや裁判で解決すればいいと思っている人は、それ以外の党に投票すればいい。
選挙前にこのことが明らかになって、自民党は正々堂々としているとは思う。
安定多数になってからこっそりやるのではないので、その点は素直に評価したい。
ただ、ぼくの気持ちとしては、2012年の今の時期は、震災復興や原発問題に日本人は注力すべきだと思う。
震災後は日本人は「絆」という言葉のもと、立場の違いを超えて、力を合わせて復興に取り組もうとしたはずだ。
その気持ちをもう忘れてしまっていいのだろうか。
いま国論を割るべきだろうか。
もっと復興や原発の話を聞きたい。
他の話は正直後回しでいい。
それが素直な気持ちである。
地震に乗じて、変なことをしようとしている、火事場泥棒のように思われるのは、自民党にとっても本意ではないはずだ。


イジハピ!