このカテゴリーではニュースなどを見ていて、思ったことを適当に書く。
こういうブログなどでは、世相を斬る人と、斬らない人と、分かれる。
世の中について文句を言ってもどうせ世の中は変わらないから、あまり効率が良くないという意見もある。
ぼくも、しょっちゅう政治の話とかしている人は、あまり感心しない。

たとえば「政治家はお金や権力のことばかり考えていて、良くない。もっと私心を捨てて世の中のために尽くすべきだ」と思うのは自由だけど、それをネットに書いてもあまり意味がないと思う。
そういうネットの意見を政治家が見て、「あっそうか、昨日までの儂はなんと汚れていたんだろう。このインターネットの意見に従って明日から心を改めよう」と思うことはまずない。
政治家がそんなに素直だったら、苦労はしないわけである。
どうせだったら「そんな悪い政治家から権力を奪うにはどうすればいいか」「悪い政治家の影響を受けずに人生を生き抜くにはどうするか」という、そこまで考えないと意味がないわけである。

とはいえ、社会的なことをある程度書くのも、たまにはいいと思う。
考えごとや文章の練習になるし、自分の人生を省みて、ちゃんと生きるための指針にもなるかもしれない。



さて、なるべく簡単な問題について書くが、最近若いお父さんやお母さんが子供にユニークな名前を付けるのが流行っている。
緋黄堕死と書いてひきだしちゃんとか、そういうやつである。
(この名前は仮名です)
言うところのDQNネームであるが、それは差別的な言い方であって、最近はもっとマイルドなキラキラネームという言い方もするようだ。
これに対する批判がものすごい。
親に対する批判であればまあ分かる。
親が自分の意志でやったことを批評しているわけだ。批評は自由である。
でも、結果的に、そういう名前を付けられた子供への批判になっている。
子供は、親を選べない。名前も選べない。
「いや、お上に訴え出て変えてもらえばいい」と言うかもしれないが、大変だし、まず親と闘わなくてはいけない。
どんなお父ちゃんでも、親は親。俺お父ちゃんがくれた名前好きだよ、と言う子供だっているだろう。
(子供はものすごく親を傷つけないように気を使うものである)
自分に選べないことを、揶揄し、嘲笑するのは、差別である。

「キラキラネームの子供が就職に落ちた」というニュースが取り上げられることがある。
で、「ニュースまとめサイト」のようなところでおびただしい数の名無しさんが意見を言う。
「だから言わんこっちゃない」的な意見である。
こんなの、わざわざ取り上げるから注意を引き、ますます企業の担当者が余計なことを考える面もあるだろう。

「キラキラネームの子供は鬱病になる」と言い出す学者もいる。
ぼくはこんなことを公言する学者の見識を疑う。
そんな研究で分かることがあるとすれば、「日本の社会は(外国がどうか知らないけど)いかに狭量で同調圧力が強く、差別的で、個人の意志を踏みにじるか」と言うことぐらいであろう。
そんな学者の研究発表が新聞に載ることで、かえって子供への要らぬ軋轢が高まり、ますます鬱になる危険もあろう。

レンタルのニッケンという会社があって、社員は全員めいめい自分で決めた「ビジネスネーム」を名乗っていいことになっているそうだ。(総務の森
社会人としての、自分の名前は自分でつける。
いくらでもユニークな名前を付けてよい。
「ウチの会社は自分で名前を付けるんですよ~」と名刺を出す時に言う。
話が盛り上がる。
レンタルのニッケンといえば大企業であるが、ユニークな会社だと思う。

最近はインターネットから出てきたライターが多く、ハンドルネームで著書を出している方も多い。

欧米の名前は、ジョンとかマリアとか、基本的に聖書由来であって、あまり意味がないし、自由に改名できる。
どこか忘れたが(調べても分からないのだが)男児が嫉妬を避けるために「愚かなもの」のような侮蔑語をあえてつける文化もあるそうだ。
日本も昔の武士は成人したら改名するのが習わしだった。

と、いうことで、あまり名前について深刻になる必要はないと思う。

ぼくの名は千尋である。
自分の名前を大変気に入っているが、ぼくの生まれた年にしてはハイカラな名前であって、少々苦労した。
でも、その苦労はぼくにとって勲章だと思っている。
物おじしない、図々しい性格を、ぼくは自分で美点だと思っているが、この名前が人格形成に役立っていると思っている。
だから、多少変わった名前で、どうしようもなくいろいろ落ち込んでいる若いみなさんは、クヨクヨせずに頑張って欲しいと思う。
平凡な他人とは違う未来が開けるかもしれない。

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