※このカテゴリーでは好きなレコードを好きな順に書いていきます。
ここ数年マイルスばっかり聴いている。
と言うとジャズが好きなんですねと言われる。
違う!
ジャズはまだ良さが分からない。
マイルスも、昔のものはよく分からない。
具体的に言うと「ソーサラー」と「ネフェルティティ」以降の作品が大好きだ。
でも、本当言うとベースがマイケル・ヘンダーソンというめちゃめちゃ分かりやすい人になってからが本当に好きだ。
ここ数年マイルスばっかり聴いている。
と言うとジャズが好きなんですねと言われる。
違う!
ジャズはまだ良さが分からない。
マイルスも、昔のものはよく分からない。
具体的に言うと「ソーサラー」と「ネフェルティティ」以降の作品が大好きだ。
でも、本当言うとベースがマイケル・ヘンダーソンというめちゃめちゃ分かりやすい人になってからが本当に好きだ。
マイルス化される前のぼく同様、ジャズなんか難しいからと忌避している人は、別にジャズを理解する必要はないから、電化マイルスを聴いて欲しい。
70年代に青春を過ごした人は大体ロックが好きだと思う。ビートルズ、ツェッペリン、あとキング・クリムゾンやビーチ・ボーイズのようなサイケでヘヴィーな音楽が好きな人。
そういう人は大抵、いま聞く音楽がなくなっていると思う。そういう人にぼくは後期のマイルス、電化マイルス(エレクトリック・マイルス)を勧めたい。
とはいえ、名作の誉れ高い「ビッチェズ・ブリュー」などをいきなり聴いてもわけが分からないと思う。
ぼくにしても、こういう音楽が本当に分かるようになったのは最近のことだ。
本も音楽も絵も、好きになる前に、音楽が「分かる」段階がある。
最初わからなかったものが、何回か聞いているうちに分かるようになるのは、どうしようもないことだ。
マイルスの作品中もっともテンションが高くて、しかも分かりやすいアルバムが今日紹介する「ウィ・ウォント・マイルス」だ。
このアルバムはマイルスが長い沈黙を破って、スタジオ盤「Man With the Horn」を出した後に出したライヴである。
ドラマーのアル・フォスターとパーカッションのミノ・シネルを除いてバック・ミュージシャンが当時20代のド新人なのもスゴい。
そしてそのド新人が、ベースのマーカス・ミラーを筆頭にのちのちメキメキ頭角を現して大立者になっていくのもまたスゴい。
ライヴと言ってもテオ・マセロによってめちゃめちゃ編集加工されている。
デジタル編集でなくテープにバリバリはさみを入れていて、めちゃめちゃ荒削りで、あっここで変わった、と分かる時があって、これを嫌う半可通者が多い。
これもぼくは違うと思う。
テオに「おい、テオ、おまえ俺の音楽を適当に切ってつなげてカッコ良くしとけ・・・」と言ったのは、他でもないマイルスであって、編集のアラも含めてマイルスの意志なのである。
ちなみにマイルス没後、銭ゲバらしい遺族によって未公開未編集版も続々ボックスになって出ている。それはそれで聴けばどうしようもなく楽しい。
しかしテオ(映画「復活の日」の音楽をやったりした人だ)はそういうマイルスの遺志に関係ないボックスセットを批判しているそうだ。
とりあえずテオによる編集版はマイルスのカッコいい演奏だけをつなぎ合わせていて(「ウィ・ウォント・・・」の2曲目なんか若干スピードアップされているという)聴きやすい。
ここから入門すればいいと思う。
とりあえず1曲目の「ジャン・ピエール」がすばらしい。
こんな単純な音楽をぼくは聴いたことがない。
「かえるの歌」ぐらい単純なのである。
イヤそれは言い過ぎだろう。
「大きな栗の木の下で」ぐらい単純なのである。
しかしこの曲が、ノリノリでカッコイイ!
この曲を聴いただけで、パーッと爽快感が心にみなぎる。
よく悲しいときは元気の出る音楽を聴くとか、悲しいときこそ悲しい音楽に浸るとかいうけど、マイルスの音楽の効果はちょっと違う。
マイルスの音楽は気持ちを切り裂く。どんな気持ちのときに聞いても関係ない。明るいとか暗いとかではなく、強いのである。
本気で、親身になって力強い音楽を与えようとしている、肉声が伝わってくる。
渡辺貞夫さんが「メシ食ってても、風呂入っててもジャズだ」と言ったとき、ぼくはまだ子供で、意味がよく分からなかった。
しかし今なら分かる。
ぼくはマイルスがメシ食ってるところとか、風呂入ってるところとか見たい。
別に変な意味じゃないよ。
マイルスがプー・・・と吹くと、そこは一瞬にしてマイルス空間になる。
たとえて言うなら、マグロが好きな人がいて、いろんな食べ物を食べてるうちに、どうしようもなくマグロにたどり着いて、最終的にどこそこの魚屋のやつがウマイ、という噂を聞きつけて、その魚屋まで行って、店先で矢も楯もたまらずにマグロの固まりに醤油掛けてむさぼり食っているような感じだ。
とか、こんなたとえ話をしたところで、まったく共感は得られないであろう。
これはもう、聴いてくださいとしか言いようがない。
聴け!
いや、ぜひ聴いてみてください。
70年代に青春を過ごした人は大体ロックが好きだと思う。ビートルズ、ツェッペリン、あとキング・クリムゾンやビーチ・ボーイズのようなサイケでヘヴィーな音楽が好きな人。
そういう人は大抵、いま聞く音楽がなくなっていると思う。そういう人にぼくは後期のマイルス、電化マイルス(エレクトリック・マイルス)を勧めたい。
とはいえ、名作の誉れ高い「ビッチェズ・ブリュー」などをいきなり聴いてもわけが分からないと思う。
ぼくにしても、こういう音楽が本当に分かるようになったのは最近のことだ。
本も音楽も絵も、好きになる前に、音楽が「分かる」段階がある。
最初わからなかったものが、何回か聞いているうちに分かるようになるのは、どうしようもないことだ。
マイルスの作品中もっともテンションが高くて、しかも分かりやすいアルバムが今日紹介する「ウィ・ウォント・マイルス」だ。
このアルバムはマイルスが長い沈黙を破って、スタジオ盤「Man With the Horn」を出した後に出したライヴである。
ドラマーのアル・フォスターとパーカッションのミノ・シネルを除いてバック・ミュージシャンが当時20代のド新人なのもスゴい。
そしてそのド新人が、ベースのマーカス・ミラーを筆頭にのちのちメキメキ頭角を現して大立者になっていくのもまたスゴい。
ライヴと言ってもテオ・マセロによってめちゃめちゃ編集加工されている。
デジタル編集でなくテープにバリバリはさみを入れていて、めちゃめちゃ荒削りで、あっここで変わった、と分かる時があって、これを嫌う半可通者が多い。
これもぼくは違うと思う。
テオに「おい、テオ、おまえ俺の音楽を適当に切ってつなげてカッコ良くしとけ・・・」と言ったのは、他でもないマイルスであって、編集のアラも含めてマイルスの意志なのである。
ちなみにマイルス没後、銭ゲバらしい遺族によって未公開未編集版も続々ボックスになって出ている。それはそれで聴けばどうしようもなく楽しい。
しかしテオ(映画「復活の日」の音楽をやったりした人だ)はそういうマイルスの遺志に関係ないボックスセットを批判しているそうだ。
とりあえずテオによる編集版はマイルスのカッコいい演奏だけをつなぎ合わせていて(「ウィ・ウォント・・・」の2曲目なんか若干スピードアップされているという)聴きやすい。
ここから入門すればいいと思う。
とりあえず1曲目の「ジャン・ピエール」がすばらしい。
こんな単純な音楽をぼくは聴いたことがない。
「かえるの歌」ぐらい単純なのである。
イヤそれは言い過ぎだろう。
「大きな栗の木の下で」ぐらい単純なのである。
しかしこの曲が、ノリノリでカッコイイ!
この曲を聴いただけで、パーッと爽快感が心にみなぎる。
よく悲しいときは元気の出る音楽を聴くとか、悲しいときこそ悲しい音楽に浸るとかいうけど、マイルスの音楽の効果はちょっと違う。
マイルスの音楽は気持ちを切り裂く。どんな気持ちのときに聞いても関係ない。明るいとか暗いとかではなく、強いのである。
本気で、親身になって力強い音楽を与えようとしている、肉声が伝わってくる。
渡辺貞夫さんが「メシ食ってても、風呂入っててもジャズだ」と言ったとき、ぼくはまだ子供で、意味がよく分からなかった。
しかし今なら分かる。
ぼくはマイルスがメシ食ってるところとか、風呂入ってるところとか見たい。
別に変な意味じゃないよ。
マイルスがプー・・・と吹くと、そこは一瞬にしてマイルス空間になる。
たとえて言うなら、マグロが好きな人がいて、いろんな食べ物を食べてるうちに、どうしようもなくマグロにたどり着いて、最終的にどこそこの魚屋のやつがウマイ、という噂を聞きつけて、その魚屋まで行って、店先で矢も楯もたまらずにマグロの固まりに醤油掛けてむさぼり食っているような感じだ。
とか、こんなたとえ話をしたところで、まったく共感は得られないであろう。
これはもう、聴いてくださいとしか言いようがない。
聴け!
いや、ぜひ聴いてみてください。