※このコーナーは自分が最近読んだ本のおすすめや、人生で読んだ本のベストを書こうと思います。

本好きに取って共通の悩みは、面白い本にいかに出会うか、そして、いかに面白くない本を読まずに済ませるかであろう。
本は読む時間も取るし、置いておく空間も深刻な問題だ。
本当に面白い本を逃したくはないが、つまらない本に引っかからないようにしたい。
しかもその好みが人によって違う。

幸運にも出会えたある本が面白かったら、同じ作者の本を集中的に読む。
これは基本だが、昔の本はすぐに絶版になり、また、もっと早く町の書店からなくなってしまうのが問題である。
そういう意味では1冊からロングテールの在庫を持っていて、場合によっては中古を買えるアマゾンは本当に便利だ。
「アマゾンやブックオフで中古本を買うのは文化の自殺行為である」などと述べている作家がいるが、それを言うなら昔の本を売ってない出版社の方が問題である。
古本を読んでほしくなければいつまでも絶版にせずに出し続ければよいのだ。
電子書籍であれば在庫や返品の問題もなくなる。
読者としては金を出しても昔の本が読みたいのである。
この問題はさっさと解決してもらいたい。

さて、ある作者の本を全部読み終わったらどうするか。
ぼくはその作者がエッセイで勧めている本を読むことにしている。
面白い本を書く人は、当然本好きであって、自分の好きな本を世に広めたいと思っている。
そういうエッセイに取り上げられている本は当然面白い。
友達に紹介された人が面白くて友達になるみたいなものである。
しかしちょっと考えると、商売敵の商品を紹介しているという局面もある。
しかし、大作家ともなればもっと大所高所に立って、自分が書いているような本が売れるような社会になってもらいたい、そういう出版文化が栄えてほしいという気持ちで新人の本を好意的に紹介するようだ。

さて、作家が本を紹介する本として最も自分が便利に使った、というか、人生で最も影響を受けたのが下の2冊である。





両方絶版である。
ということでアマゾンで(でなくてもいいが)中古書をお求めください。
しかも筒井の方はレビューが一件もついていない。
小林信彦の方も一件しかついていない。
ええー。
俺の「文字コード「超」研究 改訂第2版」もレビューがつかないのが不思議なんだけど、その5万倍不思議である。
まあアマゾンの神が降臨する前の本だからしょうがないか。

筒井の方は、奇想天外誌に書かれた書評であり、リアルタイムに筒井が読んだ本が取り上げられている。(読書ではなくて涜書、冒涜のトクであるので注意。)
SF専門誌の書評コーナーであって、とうぜん当時最新作のSFも評されているし、筒井が当時書いていた小説の参考にする学術書も出てくる。また、当時最新のラテンアメリカ文学やアメリカのニュー ライターズの作品を若いSFファンのために啓蒙的に紹介している部分もあれば、当時の新刊の普通小説を筒井の視点から取り上げているものもある。絶賛もあれば酷評もあるが、酷評であっても読んでみたくなる、愛ある書評である。

小林信彦の方は(あまりこの人のことを「小林は」と呼び捨てにした文章を見たことがない)もっとまとまった文学論であって、これまで小説という文学はどのように進化を遂げてきたか、その進化の過程における代表的な小説は何かを書いているが、これがまた面白い。アマゾンの書評にも書いているが、「フラット キャラクター(平面的な人間像)」という概念が面白い。普通小説に出てくる人物は複雑で立体的(ラウンド キャラクター)であるほど良いとされているが、小林によるとそうではない。強力なフラット キャラクターを登場させることで、どれだけ強力な小説が描けるかを、数多くの作品を取り上げて示している。

ぼくはこの両者の小説を本当に愛読している。
特に青春時代から20代に掛けては、寝食を忘れて読んだ。
だから、この両者が紹介した本も、この両者が紹介した本であるからこそ、絶対読んでやろうと思って読んだものだ。
筒井がトーマス・マンの「魔の山」を紹介していなければ、小林が白井喬二の「富士に立つ影」を紹介していなければ、ぼくはこんな昔の長い本を読み通すことはなかったと思う。「魔の山」なんて本当に出だしはつまらなくて、筒井が勧めているんだから絶対に面白いはずだ!と自分を叱咤して読んだ。

いま思えば、大げさな言い方だが、「魔の山」や「富士に立つ影」を読んでいない自分なんて想像できない。そういう意味で、今日取り上げた書評本2冊は、一生の恩人である。
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