ブログを書いていると、ゴミを拾うと気持ちがいいとか、田舎の親にインターネットで物を送ってやろうとか、お客様は神様だと思おうとか、イイっぽいことを書いている。
1個1個の記事はちゃんと自分の頭で考えて、自分の意見を誠心誠意書いているところではあるのだが、タイトルだけざっと見ると、すごくイイっぽい人、あるいは、イイっぽいことを必死で言おうとしている人のように自分ながら思う。
いままで書いたイイっぽい記事に関して言えば、道徳を守り、他人を尊重して生きるほうがストレスがなく、効率がいいということを書こうとしているようだ。
いちいち不必要に突っ張って、ワルぶって生きると、ものすごく疲れる。
不必要に疲れるのである。
これはやめたほうが良い。
では、ぼくは基本的に道徳的な人間か、イイ人間足らんとして日々努力しているかというと全然そうではなくて、いわゆるイイっぽい言説、“道徳的な”言説にはいちいち疑問を抱く方である。
こういう“道徳的な”言説について、ぼくが懐疑的に思うのは、そういう言説が、まったく考えなしに、他人を発作的に説教するために言われることが多いからである。
ぼくは寝つきが悪いので、睡眠導入剤を飲んでいる。
もう10年ぐらいになるのではないだろうか。
量は増えもしないし、減りもしない。
毎月血液検査をしているが、これで体がどうかなったこともない。
合わない薬を飲むと、肝臓の異常値となって現れることが多い。
それがないので、大丈夫だろうと医師と相談している。
逆に血糖値を下げる薬や、コレステロールを下げる薬は合わないやつはすぐに肝臓に異常値が出るので、何回も微調整している。
もちろん睡眠導入剤を常に飲んでいないといけない、2週間に1回医者に診てもらわないといけないというのは、面倒くさいし好ましいことではないので、定期的に何回も飲まないで入眠することに挑戦している。
具体的には翌日何も予定がない、休日の前に飲まないで寝てみる。
見事に眠れないのである。
別に1日や2日徹夜してもいいので(仕事ですることはしばしばである)、ああ寝れなかったわーと思って翌日からは薬を飲んで寝る。
これほど慎重に検討を重ね、最適解としての苦渋の選択で薬を飲んで寝ているのだが、この話を他人、それも年配の人にすると、脊髄反射としか思えないスピードで「良くないよ! やめなよ!」と言われるのである。
良くないことは分かっている。
では、薬を飲まないで、寝ないで都会のコンクリート ジャングルの中を会社に行き、仕事をして会議に出ることのリスクを、批判する人はちゃんと責任を取ってくれるのだろうか。
薬を飲むリスクがどれぐらいあるのか、飲まないリスクはどれぐらいあるのか、何年も検討を重ねている当事者に向かって「スイミンヤクは良くない」という、利いた風な、通俗的な批判をする人の気持ちが、ぼくはあまり分からないのである。
面倒だから、薬を飲んで寝ることを人に言わないことにしている。
最近テレビで「昔は家でお産をするのが当たり前だったから、医者にかかって麻酔や帝王切開に頼る人は“不自然”」と言う人がいて激論になっていた。
反対する人の意見は「もし“自然”に生まれる人の数が相当いたとしても、万が一不具合があった場合に、病院では対応できても、家では対応できない」というものだった。
ぼくはお産のことなんか専門家ではないので分からないが、上の2つの意見を聞いて、ぼくはやはり病院派かなあと思った。
そもそも“自然な”お産という言い方が誤解の原因だと思った。
薬であろうが元を正せば物質であり、近代医療であろうが手術であろうが人間の真剣な営為には違いない。
どちらが“自然”でどちらが“本当”のものか、判断を下す必要があるだろうか。
いや、判断を下せる人ぐらいいるかもしれないが、ある人が薬を飲んでいる、病院に掛かっていると聞いただけで「自然ではない」とかポンポン言う人に、それほど自然に対する深い洞察があるとは思えないのである。
冷房を使うと悪い、というのもあやしい。
熱射病で死ぬリスクの方が高いわけである。
道徳と科学の混同は好ましくない。



いちいち不必要に突っ張って、ワルぶって生きると、ものすごく疲れる。
不必要に疲れるのである。
これはやめたほうが良い。
では、ぼくは基本的に道徳的な人間か、イイ人間足らんとして日々努力しているかというと全然そうではなくて、いわゆるイイっぽい言説、“道徳的な”言説にはいちいち疑問を抱く方である。
こういう“道徳的な”言説について、ぼくが懐疑的に思うのは、そういう言説が、まったく考えなしに、他人を発作的に説教するために言われることが多いからである。
ぼくは寝つきが悪いので、睡眠導入剤を飲んでいる。
もう10年ぐらいになるのではないだろうか。
量は増えもしないし、減りもしない。
毎月血液検査をしているが、これで体がどうかなったこともない。
合わない薬を飲むと、肝臓の異常値となって現れることが多い。
それがないので、大丈夫だろうと医師と相談している。
逆に血糖値を下げる薬や、コレステロールを下げる薬は合わないやつはすぐに肝臓に異常値が出るので、何回も微調整している。
もちろん睡眠導入剤を常に飲んでいないといけない、2週間に1回医者に診てもらわないといけないというのは、面倒くさいし好ましいことではないので、定期的に何回も飲まないで入眠することに挑戦している。
具体的には翌日何も予定がない、休日の前に飲まないで寝てみる。
見事に眠れないのである。
別に1日や2日徹夜してもいいので(仕事ですることはしばしばである)、ああ寝れなかったわーと思って翌日からは薬を飲んで寝る。
これほど慎重に検討を重ね、最適解としての苦渋の選択で薬を飲んで寝ているのだが、この話を他人、それも年配の人にすると、脊髄反射としか思えないスピードで「良くないよ! やめなよ!」と言われるのである。
良くないことは分かっている。
では、薬を飲まないで、寝ないで都会のコンクリート ジャングルの中を会社に行き、仕事をして会議に出ることのリスクを、批判する人はちゃんと責任を取ってくれるのだろうか。
薬を飲むリスクがどれぐらいあるのか、飲まないリスクはどれぐらいあるのか、何年も検討を重ねている当事者に向かって「スイミンヤクは良くない」という、利いた風な、通俗的な批判をする人の気持ちが、ぼくはあまり分からないのである。
面倒だから、薬を飲んで寝ることを人に言わないことにしている。
最近テレビで「昔は家でお産をするのが当たり前だったから、医者にかかって麻酔や帝王切開に頼る人は“不自然”」と言う人がいて激論になっていた。
反対する人の意見は「もし“自然”に生まれる人の数が相当いたとしても、万が一不具合があった場合に、病院では対応できても、家では対応できない」というものだった。
ぼくはお産のことなんか専門家ではないので分からないが、上の2つの意見を聞いて、ぼくはやはり病院派かなあと思った。
そもそも“自然な”お産という言い方が誤解の原因だと思った。
薬であろうが元を正せば物質であり、近代医療であろうが手術であろうが人間の真剣な営為には違いない。
どちらが“自然”でどちらが“本当”のものか、判断を下す必要があるだろうか。
いや、判断を下せる人ぐらいいるかもしれないが、ある人が薬を飲んでいる、病院に掛かっていると聞いただけで「自然ではない」とかポンポン言う人に、それほど自然に対する深い洞察があるとは思えないのである。
冷房を使うと悪い、というのもあやしい。
熱射病で死ぬリスクの方が高いわけである。
道徳と科学の混同は好ましくない。



