今日は、ぼくがささやかな兼業ライター道を歩むにおいて、また、人生一般において最も影響を受けた本について書く。
「アシモフの科学エッセイ」だ。

あまりにも偉大すぎる先達であって、エベレストが目標です、美空ひばりさんが目標ですというのと一緒で気恥ずかしいが、本当だからしょうがない。

アシモフ(アジモフと読むのが正しいらしい)は最も成功したアメリカの作家の一人で、宇宙の未来史やロボットを扱ったSF小説と共に、多くの科学エッセイを残している。
もっとも、非常に多岐に渡る分野で数多くの作品を残している人で、小説ではSFの他に本格推理小説もあるし、ノンフィクションの分野では歴史や聖書など、数多くの本がある。

アシモフの科学エッセイも、親父が数多く持っていて、引っ張り出して読んでいた。
ということで何十年間も愛読しているのだが、少しも古びた感じがしない。
これは科学を題材にしていること、論理的な面白さを追求していることが大きい。
思想や風俗を描いていれば、こんなにフレッシュな魅力を維持できないはずだ。

アシモフの本は、作者がひょっこり登場するのが特徴だ。
SF小説の短編集であっても、小説と小説の間に「この小説を書いていたときの私は・・・」、「この小説は最初違う題名をつけていて・・・」と出てくる。

科学エッセイであっても、本を書いている自分の姿、立ち位置が常に明確になっている。
当然ながらこの手法は、小説よりもノンフィクションにより有効に働いているようだ。

アシモフが5進法や7進法と言った、絶対に使わない計算を教える数学の教科書の下らなさを述べるところで、2つの例題が出てきて「私は1問目をやるから、読者は2問目をやってくれ」と書いているところがあって、新鮮な衝撃があった。
ウッディ・アレンの最高傑作映画「アニー・ホール」で、アレンが急に「第四の壁」を取り払って、観客に(カメラに)向かって話しかけるところがあるが、同じぐらい衝撃を受けたものだ。

本来、本は透明感が尊ばれるので、あまりにも作者が前に出てくる本は邪道かもしれない。
しかし、アシモフの本を読んでいると、この作者の姿が出てくるところが本の明晰さにつながっていると感じる。
というのは、科学というのは、現実世界に起こっていることだ。
どんなに遠い宇宙の話であっても、極微の素粒子の世界であっても、未来や過去の話であっても、現実に生きている私たち、私とアシモフを含む人間たちの世界につながっている。
だからこそ、語り手のアシモフが出てくることで、面白さ、壮大さが感じられるのである。

また、章から章へと興味をつなげるヒキもすばらしい。
科学のエッセイ集だから当然内容はそれなりに難しいが、本の世界にぐいぐい引きずり込まれて最後まで読んでしまう。
これは、小説の技法がエッセイにも生かされていると見ることも出来るが、単純な法則を使って、より広い世界、より細かい世界を究明していく科学そのものの面白さが本に生かされているのだとぼくは見る。
アシモフがおそらく若い日に、科学の魅力に引きずり込まれていった感動が、そのまま本を書く原動力になっているのだ。

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