前回は短編小説の楽しみをSFを中心に書いたが、長編小説も当然楽しい。
長編小説は長編小説で、短編とは別の楽しさがある。
長いところがいいのである。

あまり長い小説ではないが、「不思議の国のアリス」の最後、アリスが冒険から戻ってきてから、同じ冒険の幻想をお姉さんがささっと追体験するところがある。
あそこがぼくは本当に大好きだ。
倉多江美の「宇宙を作るオトコ」のラストにも、異次元冒険譚がいったん休止して現実の世の中を主人公がさまようところがある。
ああいう味が、長編小説の味のような気がする。
でもこんな文章あまり通じないような気もする。

筒井康隆氏の書評集「みだれ撃ち涜書ノート」にトーマス・マンの「魔の山」が面白いと書いてある。


筒井氏の「みだれ撃ち涜書ノート」と小林信彦氏の「小説世界のロビンソン」は、本当に罪な本で、出てくる本を全部読みたくなる。
しかしながら「魔の山」は本当に難しくて長い本で、青春時代とは違って雑用に追われる社会人になったぼくは、退屈な描写が数ページ続くとすぐ気が散ってしまって、読むのを挫折してしまう。

長い本は一気に読まないとダメだ。
特に年を取ってからはそうである。
前の方に何を書いていたか忘れるのだ。
しかしながら長い本は、一日では読み通せない。
だから数日間に渡って時間を確保しないと行けないのである。

あるとき、東銀座に仕事で一週間行くことになった。
このときぼくは、三田まで歩けばあとは直通で家に帰れるので、あえて東銀座から三田まで毎朝毎晩歩くことにした。
4キロの道のりである。
で、あまりそういうことを人はしないと思うし、お勧めもしないが、商店街を歩きながら「魔の山」を読むことにしたのだ。
当然電車の中も読み続ける。

これがハマって、結局5日間ほどで読んでしまった。
面白い。
とりあえず変わった小説である。
病気の青年が入院して、周りの大人たちの議論に巻き込まれるという話だ。
途中主人公の青年が延々とスキーをする場面があって、本当にこの人病気なのかなあと思った。
そもそもこの病院が本当に体にいいのか謎である。
しかし登場人物たちとその議論(当時の哲学や宗教のホットな話題も入っているらしい)は本当に面白くて、ぐいぐいと引き込まれた。

そして、読み終わったら、これは本当の気持ちなのだが、ぼくはこんな難しい長い本を読み通して理解したのだという誇らしい(いやらしい)気持ちが湧いてきた。
どうしようもなく、これが古典の長編を読むモチベーションのひとつである。

さて、小林信彦氏の「小説世界のロビンソン」では白井喬二の「富士に立つ影」がとにかく面白かった。



文庫本全10巻の大著であって、量的には「魔の山」の5倍である。
だが、内容としては「魔の山」よりもグンと分かりやすい。
時代小説、というか、時代劇小説である。
「丹下左膳」を文学的にしたようなものである。
内容を簡単に言ってしまうと建築家が3代に渡って死闘を繰り広げるというものであるが、いい人も悪い人もとにかく人物造形が面白い。
中でも主人公がバカウケである。
全然史実を踏まえていないので10冊読んでも全然歴史の知識が身に付かないのが難と言われているが、逆に歴史小説を読んで歴史上の人物をいい人悪い人に分けて覚えてしまうよりもいいような気もする。

あとスタンダールの「パルムの僧院」もおすすめだ。



これも血湧き肉踊る小説であるが、終わりの方が本当にすばらしい。
途中で花火が上がるところなど本当にすばらしい。

ということで、長い小説は面白い。
本稿では3つの小説を紹介したが、これらの小説に共通して言えるのは、小説のひとつの大きなテーマが、その小説の長さにあるということだ。
読んでくだされば分かってもらえると思う。
これらの小説は、長い必要があるのだ。

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