昨日22日はザムザ阿佐谷で月蝕歌劇団「寺山修司〜過激なる疾走〜」を見た。
感動した。

Schurz and Sumner as Mephistopheles and Faust
高取英さんによる原作、脚本で、寺山修司の生涯を演劇化したものだ。
三島由紀夫、中井英夫、美輪明宏など、昭和文学、演劇史上の重要人物が次々に登場する。
そして「田園に死す」や「邪宗門」といった寺山の演劇がコラージュ的に演じられ、寺山の人生と交錯する。
また、もう一本の軸として、「盲人書簡・上海編」の一部が演じられ、明智探偵と小林少年が登場する。
明智と小林の関係と、寺山と中井英夫の関係が交錯するのも興味深い。

寺山は岬花音菜さん、高田ゆかさん、白川沙夜さんのトリプルキャストで、回想シーンは複数の寺山が交錯する。
全員、演技がすばらしくて感情移入できた。
晩年の寺山を演じた白川さんが特にすばらしく、「アメリカよ」の詩を朗唱するところも、じっと舞台を見てだまっているところも良かった。

見る側の興味としては、寺山がどんな変わった人なのか、どんなアクの強い人なのかと思っていた。
しかし、舞台上の寺山は、ただただ感情豊かで、才能にあふれているが、人間性としては純朴な人として描かれていた。
これは、寺山のスタッフであった高取さんの感想だったのであろうか。

演劇の中で寺山は母を殺すが、現実の母は、当然の話だが殺せずに生きている。
寺山は若者に家出をすすめたが、寺山自身は家出することもなかった。
甘美な幻想と、散文的な現実の間を放浪する魂の悲しみを感じる。
最も幻想的な存在であるメフィストフェレスの正体が衝撃的。

ぼくはニワカだから寺山の演劇を何本見ても、何公演見ても、いまいちわからないところがある。
でも今回、月蝕のこの舞台を見て、寺山修司の生涯とその作品のエッセンスをまとめてみて、自分の中の寺山感が整理され、理解が深まったと感じた。
今月は本当に観劇漬けだったが、締めくくりにこの作品を見られてラッキーだった。

それにしても60年代から70年代は、数多くの巨大な才能が綺羅星のように輩出した時代だったんだなあ。
ほんの数十年前のことなのに、なんで今はこんな人たちがいないのだろう。
もっとも、寺山も、三島も、早死にだ。
今は健康第一で、ちょっとしたスキャンダルも命取りになる世の中だから、巨大な芸術家は出てきにくいのかもしれない。