昨日、10月1日、日曜日は、調布市せんがわ劇場で、劇団ピタパタ「冥途」を見た。

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内田百閒の同題の小説の演劇化である。
内田百閒と言えば、ぼくの青春の作家であって、高校生の頃愛読した。
旺文社文庫から、初出当時の単行本と同じ構成の文庫本が出ていて、少しずつ買って集めていたが、ほどなく旺文社文庫じたいなくなってしまった。
旧字、旧かなの読みやすさを知ったのも百閒からである。
高校の頃は小説家になりたくて、百閒の小説を二百字帳に書き写していた。
短いものばかりなので、すぐ写せる。
「凸凹道」というのが一番好きだ。

百閒といえば、ぼくには落語的なユーモア・エッセイのイメージがあるが、初期の作品は幻想怪奇的な作品も多いそうである。
そちらはあまり読んでいない。
そういえば師匠の漱石も、「猫」「坊っちゃん」「三四郎」「こころ」「それから」「門」しか知らなかったが、初期の「夢十夜」などずいぶん幻想的な作品もあると最近知った。

百閒の幻想怪奇作品といえば「サラサーテの盤」という掌編が鈴木清順の映画「ツィゴイネルワイゼン」になった。
サラサーテが自らヴァイオリンを弾いた「ツィゴイネルワイゼン」の録音にコショコショ声が入っている、ということを題材にした恐怖短編である。
こちらは読んでいる(映画も見た)。
小説も映画もすごく面白いからおすすめ。
ところで、サラサーテ演奏のツィゴイネルワイゼンの中でコショコショ言っている声は、録音係の人が「このへんで蝋管を替えます」と言っているらしい???

ぼくはホラーものが好きで、いろいろ見ているが、おとなになってからは、怪物や怨霊よりも、気が狂った人間が一番怖いのではないか、と思うようになった。
でも、もっと最近になって思うのは、なんでもないことを非常に恐ろしく考える、自分の心が実は一番怖いのではないか、と思うようになった。

前置きが長くなったが、ぼくは「冥途」という小説も読んでいない。
読んでいないなりに、あらすじを聞いているが、今回の映画も、鈴木清順の映画同様に、同じ短編集の他の作品から持ってきたり、百閒自身のエピソードを足したりして膨らませているようだ。

調布市せんがわ劇場は、京王線の仙川駅からほど近い劇場だ。
ぼくは電車で行くのにちょっと迷った。
武蔵小杉の方から行ったのだが、まず、南武線の稲田堤から京王稲田堤まで、稲田堤の町を10分ほど掛けて横切る。
知識として知ってはいたのだが、結局迷ってしまい、地元の方に道を聞いた。
正しい道の方に行くと、JRから京王に乗り換える人が、ぞろぞろと町を横切って行くのがなんとも奇観であった。

次に京王線というのがものすごく複雑である。
調布で本線と相模原線に分かれるだけでなく、特急、準特急、急行、区間急行、快速、各駅停車に分かれる。
仙川駅には区間急行、快速、各駅停車が停まる。
どの電車が何急行なのかもパッと見分からない。
劇場に到着するまでに心理的迷宮に入りそうになった。

それでも開演時間ギリギリについた。
年配の男性(市の職員?)の方が、前から2番目にすっぽり空いた席に案内してくれた。
121席ということで結構大きい劇所だ。

舞台の中央と左右に畳敷きの突起があって、そこが小料理屋になったり、病室になったり、作家の書斎になったりする。

内容は、生と死をテーマにしたエピソードが積み重なるものだが、あまり難しいセリフはなく、明晰な口調で語られる。
恐ろしかったのは、時間軸が意図的にバラバラにされていることだ。
たとえばある場面で、主人公に対して友人が「君には不吉な噂がある。君が家に訪ねて来てから、xxの家では子供が亡くなったそうだよ」という意味のことを言う場面がある。
次の場面で、噂にのぼったxx家を、主人公が尋ねると、子供がいるらしい描写があったりする。
つまりその子供は、これから死ぬわけである。
これが恐ろしい。

何度も、同じ現実を、複数の視点から描かれる。
生と死だけではなくて、百閒を生涯悩ませた貧乏の問題も、ユーモラスではなく恐ろしいものとして描かれている。

とても静かな舞台で、控えめな効果音や音楽も合わせて、こちらも息を止めるように緊張して見るようになった。
舞台の静けさが、それが静かな恐怖の世界に心地よくいざなってくれる舞台だった。