痛ましい事件が起こった。

"Hello Cat"
 これまで、世界の各地で無差別殺人が起きるたびに「銃のない日本はいい国だ」、「日本に人種対立がなくて良かった」、「宗教テロの標的になっていなくて良かった」と、いまどきの「日本スゴイ」テレビやまとめサイトの愛好者のように、意味もなく日本に生まれ育ったことに誇りを抱いたりしてきたのだが、もうそんなことをあまり思えなくなった。
 犯人、というか加害者は、障害者の安楽死を主張していて、彼らの自殺を幇助する意味で殺人を行うという意味のことを主張していたそうである。はっきり言って彼もまた重い心の病気であろうから、一方的に罪をそしるわけにはいかないが、とりあえずその考えは承服しがたい。
 インターネットに、釣り(いやなことを書いて他人を怒らせ、炎上させること)の発言として「犯人の言うことはもっともだ。役に立たないやつは殺せ」と書いている人がいるそうである。あるいは、顔出し名前出しで、大真面目な論調で「確かに安楽死が必要な人はいて、この犯行がその嚆矢となれば良い」と言っている人もいるようだ。こっちの健常者の発言も、ちょっと分からない。

 「役に立たない人は殺せ」と大真面目に思っているような人が目の前にいたら、「ぼくは、自分を、スティーヴン・ホーキング博士よりも、スティーヴィー・ワンダーよりも役に立たない人間だと思っていますが、あなたはどうですか」と聞いてみようと思っている。
 人間の価値を「役に立つ」という浅薄なクライテリアでしか測れない人は不幸である。ノーベル賞物理学賞の小柴先生は、ニュートリノの発見が何の役に立つのか、と記者に問われて「まったく、何の役にも立ちません」と平然と答えたそうだ。ウサイン・ボルトはじめ数多くのアスリートが100m走で0.001秒でも縮めようとしのぎを削っているが、その努力は何の役に立っているのか。ギリシャの数学者オイクレデスは、生徒の少年に「あなたの数学は何の役に立つのですか」と問われ、従者に「あの少年に小銭を渡して放校にしなさい、あの子は学問よりも実利が好きなようだから」と命じたそうである。
 そもそも「役に立つ」とは何か。しょうしょう金を稼いで、資本主義社会の繁栄に貢献することか。宗教Xの司祭は、その宗教が信じられている国では特権階級であるが、信じられていない国にとっては普通の人か、うっかりすると仇敵である。川に泳ぐ魚や、空を飛ぶ鳥は、自分が何か役に立つかなど、みじんも考えていないに違いない。にもかかわらず、日々の暮らしに汲々としている我々よりも生を楽しんでいる。

 ぼくもちょっとした障害者だ。重い外斜視である。障害者手帳ももらえない、軽微な障害だが、両眼視ができない。3D映画が飛び出してこないのである。飛んでくるボールも捕まえられない。子供の頃は大声で「ひんがら目」と(そういう方言があるらしい)囃し立てられた。大人になってからはさすがに言われることはなくなったが、相手の目を見て話しているのに「どこ見てるの」と聞かれる。
 よく、「相手の目を見て話せる人かどうかで人格をはかる」という物の言い方がある。無神経な言い方だ。見たくても見られない人がここにいるわけである。
 しかし、ぼくは自分の人生をせいぜい楽しんでいる。子供時代にいじめられ、ボールもキャッチできない子供であったから、いつも家にいて、本を読んだり、漢字練習帳に自作の本を作ったりしていた。大人になってコンピューターの本をちょっとばかり出すようになれたのは、この個性的な目のおかげかもしれない。

 さいきんぼくは「アウトサイダー・アート」とか「エイブル・アート」という言葉を知った。狭義には知的障害者の人が治療の一環として描いた絵のことであるが、異様な迫力がある。山下清などもその嚆矢と言えるのであろうか。先日、テレビでアート・セラピーの現場を映していたが、一心にボールペンで画用紙を塗り続ける人の姿を見て、心を打たれた。ぼくには描けない絵の世界を持っていると思ったのである。
 ホーキング博士の天才的な発見の数々、宇宙の深奥まで見通す能力は、体の自由がままならないことが関係があると思う。彼の講演集は大変ユーモラスだ。「先日ベッドから落ちてしまいました。助けを呼んだのですが、折悪しく妻がやって来なかったので、しょうがないからブラック・ホールのことを考えました」という意味のことを言っていて、心の底から感動した。
 スティーヴィー・ワンダーが複雑でモダンなボイシングを考えるのは、彼が目が見えないことと関係がある、と書いている音楽評論もあった。黒鍵をさぐりながら弾くから黒鍵を含んだコード進行になるそうである。本当かどうかしらないが、そんなこともあるかもしれない。

 障害がある人が生きやすい社会は、我々全員にとって行きやすい社会だ。ぼくはバリヤー・フリーの建物が増えて、ずいぶん歩きやすくなったと感じる。銀座や日本橋のような、明治時代から大理石のビルが建っている町は、見た目は美しいが、ちょっとしたところに数センチの段差があったりする。我々の社会は、障害者の人とともに確実に進歩しているのである。

 ぼくは小学生の頃、近所のアメリカ人の奥さんに英語を習っていたが、中学生になって「サマー・キャンプをするから来ませんか」と言われた。小児麻痺の子が参加して、その子を助けるボランティアもあったようだ。ぼくは大分県別府市の生まれだが、温泉町だからかそういう福祉施設が充実している。
 その小児麻痺の子が面白かった。こういう言い方が許されるか分からないが、たくまざるユーモアがある。ぼくたちが普通に暮らしている、ちょっとしたことの違いが面白い。こういう風に書くと、笑いものにしていて不謹慎なようだが、じっさい、一緒に暮らして英語を習っている間、ぼくたちは彼らの言動で大いに笑わされた。彼らが常にいろいろな大人に接していて、オープン・マインドなところも、話していて楽しかった理由の一つであった。
 こんなことがあった。世話人の人に「xxくんと、xxくん(両方小児麻痺の子)と一緒にお風呂に入ってください」と言った。介護をしろということか、それならこちらもやぶさかでないと思っていたが、そうではなく、彼らは一人でなんでもできた。まあ、万一何かがあったときに助けたり、助けを呼んだりできるという意味だったのかもしれないが、そんなこともなかった。
 ぼくは、ホテルのようにシャンプーなどが設置されているのかと思っていたが、その宿泊施設(今でいうドミトリー的なもの?)には何もなかった。「シャンプー持ってない?」と彼らに聞くと「石鹸で洗えばいいじゃない」、「ぼくら、いつもそうしてるよ」と言われた。
 そんなもんかな、と思って石鹸で洗ってみた。洗える。
 「ほんとだ、洗えるね」というと「そうだよ、洗えるよ」と言ってみんなで笑った。こんな文章を書いても伝わらないですか。でも楽しかったのである。
 それにしてもびっくりしたのは、彼らが筋骨隆々としていることである。
 「すごい筋肉だね、ブルース・リーみたいだね」というと、いつも鎖に吊るされたり?いろいろな訓練をしているので、動けないけど普通の人より筋肉ムキムキになっている、ということだった。へえーと思った。
 うまく言えないが、彼らとの生活を通じて「人間とは、いいものだな」と思った。こういう経験を、少年時代にできて本当に良かったと思っている。

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