ぼくなんか知らないことばっかりだから、せいぜい本を読んで勉強しようと思うが、これが、続かない。

本は基本的にぼくが知らないことを書いている。だから、難しい。それは当然だ。一読して理解できることばかりならいいが、理解できないこともあって、だんだん頭にハテナマークがたまってくる。
当然どんな本も、字の読み方や数の数え方から説き起こしていることはない。かりにそんな本ばかりなら、逆にうっとうしくてしょうがないだろう。つまり、ある程度の教養が読者に要求されている。教養を得るために本を読むのだが、ある程度の教養がないと、その本を読むのもままならないというわけだ。
ぼくは若いころ色気づいて、繁華街に服を買いに行こうと思ったけど、その繁華街に着ていくオシャレな服がないのに気づいて、家の中でうつうつとしていたことがある。歳を取ったらずうずうしくなって、別にTシャツにステテコで街に繰り出しても問題ない、帰り道でオシャレになっていればいいのである、と思えるようになった。本も一緒で、難しくても無知のまま気にせずに飛ばし読みすればよい。ぜんぜん読まないよりマシである。
著者によっては後で説明する用語、概念を先に出したりして、ペンディングになることがある。これが苦痛だ。著者のみなさんにはなるべくこういうことをなくしてもらいたい。でもそういう本は現実に多い。知らないことがあってもしゅくしゅくと飛ばし読みしていると、そのうちペンディングが解けてスッキリすることもあるし、わからないことがあるなりに面白いトピックが出てくることもあるが、そう思えるようになるにはある程度の根性というかずうずうしさが必要になる。このずうずうしさが読書力の重要な部分をなすのではないか。
最初は分からないことがあると、いちいち辞書を引いたり、Webを検索したりして、付箋を貼っていたが、これも大変で、だんだん根気がなくなってくる。そのうち、本当はよく分かっていないことも「まあいいや…」という感じで上滑りして読んでいく。もちろん何度も言うように、飛ばし読みでも読まないよりはマシなのだが、あまりにも頭のなかが「?」で埋まってくると、だんだん眠くなってきて、自分はこの本を読むレベルに達していないのではないかとか、こんな本を読んでも役に立たないのではないかという、怠けるための言い訳を脳が考え出し始める。こうなるともうダメで、本を枕に寝ることになる。
それで、あまり読書力がない、根性がない自分でも、ITの力を借りて読む方法を考えた。
これは、以前このブログで英語のメールを読み下すために考えた方法の応用である。用は、本の文章をエディターにコピー&ペーストして、改行を入れながら読んでいく。
まずエディターにコピー出来ないといけないから、コンピューター・リーダブルなテキストである必要がある。電子書籍でもコピペを禁じている場合もある。意外なのが自炊PDFで、最近のOCRの性能はいいからコピペできる場合が多い。もちろん間違いだらけだが、後述するように間違いがあるとむしろいい場合もある。
コピーしたら、これを読んでいく。
カーソルを滑らせて読んでいくだけでも、紙の本の上を目で追うよりも、作業したという実感がある。
で、適当なところに改行を入れる。散文を現代詩みたいな見た目にするのである。ぼくが上に書いたバカみたいな文を例にやってみる。
だけではなくて、この改行を挿入する作業をしているうちにある程度読んでいるのである。
この作業をするためには、とりあえず日本語の構造を知ることが必要である。ということは、改行を入れるために少なくとも通読はしたことになる。
で、慣れない言葉は辞書を引いたり、Webを検索したりする。
これもパソコンからだとグッとラクチンだ。
高校生の頃、古文の品詞分解というのをやらされた。
このときは、勉強がしたくない生徒の屁理屈のパターンで「なぜこんな文章を切り刻むようなことをするのか」、「そもそも紫式部や清少納言はこんなことをしたのか」などと言っていた。
でも、違うのである。平安びとならぬ現代の高校生は、このような作業を通じて読んでいるのである。原文をさらさら読んで、そのまま内容が頭に入れば苦労はない。読めれば楽しくなるのである。学校の先生は、こういうことを生徒に教えてもらいたい。ぼくが習った当時の先生は、日教組のくせに軍隊式で、「勉強、それは苦痛に耐えること」、「俺の役目はお前らを苦しめること」、「お前らは苦しめば苦しむほど人格が成長する」という固定観念にあまりにも支配されていたと思われる。その結果築かれたのがブラック企業であり、このブラック社会ではなかろうか。俺を教えた先生なんてまだご存命かどうか知らないが、お元気ならこれからでも人生観を変えられたら良いでしょう。
閑話休題、あと、意味がとりにくい文に注釈を入れる。
上では墨付きパーレン(【】)を使って、自分で書いた部分を分かりやすくしてみた。
最初はそんなことにこだわっていたが、別にこのテキストを人に横流しして読ませるわけじゃないので(そんなことしたら著作権の侵害だ!)別にこだわらなくても良くなった。とにかくサクサク読み続けることが大切なので、余計な手間は省いた方が良い。どんどん添削・推敲して人の本を自分の文章にしていく。
そのうち、文章の間違いや、字の間違い、はなはだしい場合は考え違いが入っていることもある。これも、場合に応じて直接直したり、注釈を入れたりしても良い。最初は疑問点は「???」、新たな発見は「!!!」、注釈は「###」みたいなマークに凝ったりしていたが、そのうちこれも面倒になってあまり凝らなくなった。まあそのへんは好きずき。
話が前後するが、一日で読み通せない文章の場合、読み始めと読み終わりにマークを入れる。これもおすすめだ。
みたいな感じ。これをぼくはEmacsエディターのコマンドと組み合わせて1日何行読んだか、これで何%制覇したか、このペースで読み進めると何日に読み終わるか、今日は平均のペースに比べて調子が良かったかなどを統計化して楽しんでいる。ぼくはダラダラした性格なので、これぐらい「自分ちゃん」のご機嫌を取らないと勉強ひとつ出来ないのである。いわゆるゲーミフィケイション(遊び化)の応用だ。
なお、ぼくはEmacsのorgモード(いわゆるアウトライン・プロセッサー)を使って本をアウトライン化(箇条書き化)している。こうするといちど読んだ本が資産になる仕掛けだが、現状ではあまりそのことにこだわっていろいろ面倒くさいルールにしばられる(そしてだんだん億劫になって挫折する)のはまずいので、通読優先にしている。
もう1つやっていることを書くと、複数日に渡るテキストの場合は、昨日読んだ(作業をした)部分を読み返す。一日経つとある程度忘れているので、その日の内容が頭に入りにくい。
これも単純に読み返していたのではすぐ飽きてしまうので、昨日読んでいた部分を推敲する。
で、工夫としては、次の日の推敲が退屈にならないように、あらかじめ前の日にある程度間違いを仕込んでおく。ランダムに、面白い間違いを考えるのも大変なので、ぼくは英字語を全角で、カタカナ語を半角で書いたりしている。こうすると読み返すときに超・気になるので、全角英字を半角に、半角カナを全角にする。この時点で、前日読んだ文をある程度読み返しているのである。
週に1回ぐらいはザーッと全体を読み返す。一度目を通しているので、そこまで眠くならない。また原著者の間違いに気づいたり、自分の考え違いの推敲、注釈に気づいたりするので、ここで直す。ここまでやると本も多少は頭に入っているだろう。
なんか恥ずかしいことをブログで晒したような気がするが、参考にできることはしてください。
当然どんな本も、字の読み方や数の数え方から説き起こしていることはない。かりにそんな本ばかりなら、逆にうっとうしくてしょうがないだろう。つまり、ある程度の教養が読者に要求されている。教養を得るために本を読むのだが、ある程度の教養がないと、その本を読むのもままならないというわけだ。
ぼくは若いころ色気づいて、繁華街に服を買いに行こうと思ったけど、その繁華街に着ていくオシャレな服がないのに気づいて、家の中でうつうつとしていたことがある。歳を取ったらずうずうしくなって、別にTシャツにステテコで街に繰り出しても問題ない、帰り道でオシャレになっていればいいのである、と思えるようになった。本も一緒で、難しくても無知のまま気にせずに飛ばし読みすればよい。ぜんぜん読まないよりマシである。
著者によっては後で説明する用語、概念を先に出したりして、ペンディングになることがある。これが苦痛だ。著者のみなさんにはなるべくこういうことをなくしてもらいたい。でもそういう本は現実に多い。知らないことがあってもしゅくしゅくと飛ばし読みしていると、そのうちペンディングが解けてスッキリすることもあるし、わからないことがあるなりに面白いトピックが出てくることもあるが、そう思えるようになるにはある程度の根性というかずうずうしさが必要になる。このずうずうしさが読書力の重要な部分をなすのではないか。
最初は分からないことがあると、いちいち辞書を引いたり、Webを検索したりして、付箋を貼っていたが、これも大変で、だんだん根気がなくなってくる。そのうち、本当はよく分かっていないことも「まあいいや…」という感じで上滑りして読んでいく。もちろん何度も言うように、飛ばし読みでも読まないよりはマシなのだが、あまりにも頭のなかが「?」で埋まってくると、だんだん眠くなってきて、自分はこの本を読むレベルに達していないのではないかとか、こんな本を読んでも役に立たないのではないかという、怠けるための言い訳を脳が考え出し始める。こうなるともうダメで、本を枕に寝ることになる。
それで、あまり読書力がない、根性がない自分でも、ITの力を借りて読む方法を考えた。
これは、以前このブログで英語のメールを読み下すために考えた方法の応用である。用は、本の文章をエディターにコピー&ペーストして、改行を入れながら読んでいく。
まずエディターにコピー出来ないといけないから、コンピューター・リーダブルなテキストである必要がある。電子書籍でもコピペを禁じている場合もある。意外なのが自炊PDFで、最近のOCRの性能はいいからコピペできる場合が多い。もちろん間違いだらけだが、後述するように間違いがあるとむしろいい場合もある。
コピーしたら、これを読んでいく。
カーソルを滑らせて読んでいくだけでも、紙の本の上を目で追うよりも、作業したという実感がある。
で、適当なところに改行を入れる。散文を現代詩みたいな見た目にするのである。ぼくが上に書いたバカみたいな文を例にやってみる。
ぼくは若いころ色気づいて、繁華街に服を買いに行こうと思ったけど、その繁華街に着ていくオシャレな服がないのに気づいて、家の中でうつうつとしていたことがある。歳を取ったらずうずうしくなって、別にTシャツにステテコで街に繰り出しても問題ない、帰り道でオシャレになっていればいいのである、と思えるようになった。本も一緒で、難しくても無知のまま気にせずに飛ばし読みすればよい。ぜんぜん読まないよりマシである。これを、こうする。
ぼくは若いころ色気づいて、ぐっと読みやすくなる。
繁華街に服を買いに行こうと思ったけど、
その繁華街に着ていくオシャレな服がないのに気づいて、
家の中でうつうつとしていたことがある。
歳を取ったらずうずうしくなって、
別にTシャツにステテコで街に繰り出しても問題ない、
帰り道でオシャレになっていればいいのである、
と思えるようになった。
本も一緒で、
難しくても無知のまま気にせずに飛ばし読みすればよい。
ぜんぜん読まないよりマシである。
だけではなくて、この改行を挿入する作業をしているうちにある程度読んでいるのである。
この作業をするためには、とりあえず日本語の構造を知ることが必要である。ということは、改行を入れるために少なくとも通読はしたことになる。
で、慣れない言葉は辞書を引いたり、Webを検索したりする。
これもパソコンからだとグッとラクチンだ。
高校生の頃、古文の品詞分解というのをやらされた。
このときは、勉強がしたくない生徒の屁理屈のパターンで「なぜこんな文章を切り刻むようなことをするのか」、「そもそも紫式部や清少納言はこんなことをしたのか」などと言っていた。
でも、違うのである。平安びとならぬ現代の高校生は、このような作業を通じて読んでいるのである。原文をさらさら読んで、そのまま内容が頭に入れば苦労はない。読めれば楽しくなるのである。学校の先生は、こういうことを生徒に教えてもらいたい。ぼくが習った当時の先生は、日教組のくせに軍隊式で、「勉強、それは苦痛に耐えること」、「俺の役目はお前らを苦しめること」、「お前らは苦しめば苦しむほど人格が成長する」という固定観念にあまりにも支配されていたと思われる。その結果築かれたのがブラック企業であり、このブラック社会ではなかろうか。俺を教えた先生なんてまだご存命かどうか知らないが、お元気ならこれからでも人生観を変えられたら良いでしょう。
閑話休題、あと、意味がとりにくい文に注釈を入れる。
ぼくは若いころ色気づいて、みたいな感じ。
繁華街に服を買いに行こうと思ったけど、
その繁華街に着ていくオシャレな服がないのに気づいて、
家の中でうつうつ【鬱々】としていたことがある。
歳を取ったらずうずうしく【図々しく】なって、
別にTシャツにステテコで街に繰り出しても問題ない、
【洋品店から家までの】帰り道でオシャレになっていればいいのである、
と思えるようになった。
本も一緒で、
難しくても無知のまま気にせずに飛ばし読みすればよい。
ぜんぜん読まないよりマシである。
上では墨付きパーレン(【】)を使って、自分で書いた部分を分かりやすくしてみた。
最初はそんなことにこだわっていたが、別にこのテキストを人に横流しして読ませるわけじゃないので(そんなことしたら著作権の侵害だ!)別にこだわらなくても良くなった。とにかくサクサク読み続けることが大切なので、余計な手間は省いた方が良い。どんどん添削・推敲して人の本を自分の文章にしていく。
そのうち、文章の間違いや、字の間違い、はなはだしい場合は考え違いが入っていることもある。これも、場合に応じて直接直したり、注釈を入れたりしても良い。最初は疑問点は「???」、新たな発見は「!!!」、注釈は「###」みたいなマークに凝ったりしていたが、そのうちこれも面倒になってあまり凝らなくなった。まあそのへんは好きずき。
話が前後するが、一日で読み通せない文章の場合、読み始めと読み終わりにマークを入れる。これもおすすめだ。
★start 2016-07-13T13:31
ぼくは若いころ色気づいて、
繁華街に服を買いに行こうと思ったけど、
その繁華街に着ていくオシャレな服がないのに気づいて、
家の中でうつうつ【鬱々】としていたことがある。
歳を取ったらずうずうしく【図々しく】なって、
別にTシャツにステテコで街に繰り出しても問題ない、
【洋品店から家までの】帰り道でオシャレになっていればいいのである、
と思えるようになった。
本も一緒で、
難しくても無知のまま気にせずに飛ばし読みすればよい。
ぜんぜん読まないよりマシである。★end 2016-07-13T15:05
みたいな感じ。これをぼくはEmacsエディターのコマンドと組み合わせて1日何行読んだか、これで何%制覇したか、このペースで読み進めると何日に読み終わるか、今日は平均のペースに比べて調子が良かったかなどを統計化して楽しんでいる。ぼくはダラダラした性格なので、これぐらい「自分ちゃん」のご機嫌を取らないと勉強ひとつ出来ないのである。いわゆるゲーミフィケイション(遊び化)の応用だ。
なお、ぼくはEmacsのorgモード(いわゆるアウトライン・プロセッサー)を使って本をアウトライン化(箇条書き化)している。こうするといちど読んだ本が資産になる仕掛けだが、現状ではあまりそのことにこだわっていろいろ面倒くさいルールにしばられる(そしてだんだん億劫になって挫折する)のはまずいので、通読優先にしている。
もう1つやっていることを書くと、複数日に渡るテキストの場合は、昨日読んだ(作業をした)部分を読み返す。一日経つとある程度忘れているので、その日の内容が頭に入りにくい。
これも単純に読み返していたのではすぐ飽きてしまうので、昨日読んでいた部分を推敲する。
で、工夫としては、次の日の推敲が退屈にならないように、あらかじめ前の日にある程度間違いを仕込んでおく。ランダムに、面白い間違いを考えるのも大変なので、ぼくは英字語を全角で、カタカナ語を半角で書いたりしている。こうすると読み返すときに超・気になるので、全角英字を半角に、半角カナを全角にする。この時点で、前日読んだ文をある程度読み返しているのである。
週に1回ぐらいはザーッと全体を読み返す。一度目を通しているので、そこまで眠くならない。また原著者の間違いに気づいたり、自分の考え違いの推敲、注釈に気づいたりするので、ここで直す。ここまでやると本も多少は頭に入っているだろう。
なんか恥ずかしいことをブログで晒したような気がするが、参考にできることはしてください。