2011年の後半、当時の会社で仕事をしていたら、反原発デモの声がビルの高層階にあるオフィスまで聞こえてきた。
ぼくは心情的に反原発だ。
2011年はもっとその気持ちが盛り上がっていたから、デモの声を聞いて、おお、頼もしいなあ、自分も参加したいなあと思った。

MankanyaGirls
その頃は平日の昼間からデモに参加するという行動レパートリーがなかった。
今年(2015年)の夏は、おっとり刀で国会前の反戦デモに参加した。
我々のデモは残念ながら実を結ばなかったが、楽しかったし、今後もドシドシ参加していこうと思っている。

話を2011年の秋に戻すが、路上からオフィスに聞こえてくるデモのシュプレヒコールを聞いていて、ちょっと違和感を持った。
「子供を殺すな! 子供を守れ!」と言っていたのである。

気持ちは分かる。
原発を運営していて、誰よりも困るのは、将来の当事者である、今の子供たちである。
「トイレのないマンション」と言われる、核廃棄物の最終処分場の決まっていない状況で原発を運営し続けていたら、どんどん問題が大きくなるだろう。
原発に依存して、地方から原発以外の産業がなくなれば、どんどん後戻りができなくなる。
そういう未来人のことを、現代人は考えてやらないといけないのではないか。
そういう意味だろう。

しかし、この「子供を守れ」、「次代を担う子供たちが、安心して生きていける社会を作ろうではありませんか」という言葉の使い方は、あやうい、と思う。

というのは、正反対の主張をする人にも、同じ言い方を援用する人がいるのである。
事故前の中部電力のCMで、まさにそういう言い方のがあった。
歌手が出てくるやつで「子を持つ親として、未来のことを考えると…クリーンエネルギー(である原発)は大切だと思います」という意味のことを言っていたのである。

こっちの主張もいちおう筋は通っている。
当初の予想よりも急速に進行する地球温暖化を防ぐために、化石燃料発電から脱却して、脱炭素社会を目指さなければならない。
そのためには原発を推進しなければいけない、とでも言うのであろう。

ということで、「子供たちの未来のために」という言い方は、反原発、親原発、どっちの言い分の人も援用している言い方で、あやうい。
そう思う。

子供たちは自分で意見を出さない。
だから、大人たちが「子供たちのことを考えろ!」と言うとき、意識的にせよ、無意識にせよ、じつは大人が自分の意見を仮託していると思うのだ。

いわゆるサイレントマジョリティー論法である。
昭和の安保闘争の頃に、今の安倍首相のおじいさんである当時の首相、岸信介氏が「街では野球をやってるじゃないか、声なき声を聞け」と言って問題になった。
岸氏の言葉を解読するとこうなる。
デモになんか行っている人はごく一部だ。
(だから俺たちは政権を取っている)
ノイジーマイノリティー(数としては少ないが、ワーワー言っている人)だ。
世間の人は野球を見に行って、普通に人生を楽しんでいる。
そういうサイレントマジョリティー(圧倒的多数派の、しかし声を挙げない人)の声を聞くべきだ。
そういうことだろう。

でも、岸氏の言葉は本当に真実を映しているだろうか。
安保闘争の頃に声を挙げなかった多くの人は、本当に当時の自民党政権に賛同して、安心しきって、何の心配もなく野球を見に行っていたのだろうか。
内心は「デモで世の中ひっくり返るなら、自分もデモに行きたいが、でも世間体もあるし、自分は仕事もあるし、家庭を守らないといけない」と思いながら、心に雲を抱きつつ、日常に心を埋没させて、野球で憂さを晴らしていた人も、いたんじゃないだろうか。

いや、わからない。
声を上げていない人の心を、勝手に斟酌するのは良くないから、ぼくはやめようと思う。
岸さんもやめるべきだった。
声をあげてない人を、勝手に自分の味方につけて、議論を進めるのは良くない。

それと一緒で「子供のために私はこの意見を言うのだが」と言って、自分の意見を述べるのは、危険なものがあると思う。

ロシアで2013年に成立した反同性愛法の正式名称は、「健康及び発達に害を及ぼし得る情報から未成年者を保護する法律」と言う。
プーチン大統領は「ソチオリンピックではあらゆる差別は排除される。同性愛者も安心してリラックスしていい」と述べたうえで、「ただし、子供たちには近づかないでほしい」と言って大問題になった。
ここでは「子供を守れ」という言葉が反ゲイのために援用されている。

選択的夫婦別姓制度についても「お父さんとお母さんの苗字が違うと、子供がかわいそう」という町の声がテレビで多く取り上げられる。
諸外国では、別姓でも子供はすくすく育っているのだ。

これは想像だが、テロリストが支配する地域でも「われわれの子供の未来の為に、アメリカの一国支配を食い止めなければならない!」と演説する大人はいるのではないか。

シリアから歩いて移動する難民を追うカメラも、パリのテロ犠牲者の追悼集会を報じるカメラも、みな、子供たちを、追う。
子供は、かわいい。
でも、かわいければこそ、そのかわいらしさを自説を補強するために援用してはいけないのではないか。
そうしたくなる気持ちは分かる。
でも、正反対の意見でも補強できてしまう、その危険性を考えてみる必要がある。

子供たち自身に意見を言わせるパターンも、あぶない。

さいきん小学校の人間ピラミッド10段というのが問題になっている。
事故が続出し、骨折する子供が続出しても、なかなか教師はやめない。
早くやめた方がいいよ。
まあ来年にもなくなると思うが、存置派の教師には「子供たちはやりたいと言っているんだ」と言う人が多いようだ。

そりゃ、教室で先生が「ピラミッド10段やりたい人ー!」と言えば、血気にはやった少年たちは「ハイハイハーイ」と叫ぶだろう。
子供たちは、空気を読む。
親や教師の顔色を伺う。
そして「苦しいこと、辛いことに耐えることは『いいこと』だ(そういう姿勢を取ると褒められる)」というマゾヒズム社会の考え方にがっちりはまっている。
自分たちのピラミッドが崩れて、自分や友達が骨折したり、一生消えない後遺症を負うかもしれないということは、目を向けられなくなっているのだ。
頭がいい子や、臆病な子が、たとえ「自分は・・・」危険だと内心で思っても、友達や先生の手前、そんなことは恐ろしくて言い出せなくなっているのだ。

原発事故前は「原子力推進ポスターコンクール」というのがあった。
「原子力、やさしい未来のエネルギー」というような標語を、子供がポスターにして先生に提出し、全国の子供たちに競わせるという行事があったのである。
それは子供の意見だろうか。