また南阿佐ヶ谷「ひつじ座」に、月蝕歌劇団『阿呆船』公演と「詩劇ライブ」を見に行った。
超絶楽しかった。

Narrenschiff (1549)
「詩劇ライブ」は女優陣が高取さん作詞、J・A・シーザーさん作曲の歌を歌うものである。
ポップスとは違う音楽で、歌手として普通にうまいなーと思う人もいれば(藤乃玲華さんが声が太くていいなあと思った)、俳優としての演技力を歌に生かしている感じの人もいる。
歌手がレコードで歌う歌と、俳優さんが舞台で歌う歌は、違う。
前者はメロディーに歌詞が乗っているもので、後者はセリフにメロディーがついたものだ。
「詩劇ライブ」は、芝居の歌だけを寄せ集めた企画で、俳優が舞台で歌う歌をコンサート形式でまとめて聴くという面白さがあった。

その中で、本業が歌手でありながら、『阿呆船』でも女優として大活躍していた三上ナミさんが3曲歌うコーナーがあり、さすがの貫禄だった。
三上さんが「詩劇ライブ」に登場するのを観るのは3回目だが、今回はライブハウス公演を見に行ったり、ネット配信を見たりして、歌手・三上さんの活動を知った上で見たので、こちら側に受け入れ体制ができていて、歌声が心に染みこんで良かった。
「透明なワルツ」では倉敷あみさんが、「妖怪エレジー」ではありんこさんがバックで踊っていて、これも月蝕詩劇ライブならではの豪華な感じ。
特に倉敷あみさんは後半でカノンの部分をちょっと生声で歌うところがあって、まさかと思ったので大変感動した。
これもライブならではだ。

芝居の本編では、今回は物語がいろいろ考えるヒントになった。
千秋楽を終えたので盛大にネタバレで書くけど、ぼくなんかの要約が正しいか分からない。

『阿呆船』とは寺山が空想した、阿呆を捕まえて船に乗せて出港させる、暗黒時代の治安システムであるらしい。
寺山修司の脚本は60年代や70年代の弾圧と抵抗を踏まえて描いていたとおぼしいが、2015年に上演されると、エロ漫画やディスコを規制し、報道も規制し、戦争に向かって突き進もうとする今の時代の批判にそのままなっている。

連続公演の前半であった、高取氏の筆に依る『ネオ・ファウスト地獄変』は、60年安保と70年安保が両方出てきて、権力による弾圧と市民による抵抗をよりダイレクトに扱っているようでありながら、実際にはそれを影であやつる神と悪魔を登場させ、右も左も関係ない普遍的な不条理感が語られているように感じた。
一方『阿呆船』はファンタジックな内容でありながら、だからこそかえって体制によって人間性が否定されるようすをダイレクトに描いているように感じて面白かった。

どちらを見ても、人間は不条理に弾圧され、抵抗する存在であるということを描いているようだけど、それを演劇に抽象化して描いていることで、月蝕の芝居を楽しんで見ているうちは、人間の精神は解放されているし、芝居を楽しんでみることで、表面的な正義の裏の暴力や、悪ぶったチンピラの根っこにある純真さを見抜く力が身について、どんなに現実の権力に不条理に弾圧されても、それを笑いのめして生き抜く力をもらえる気がする。

要するに、笑いいっぱい、お色気いっぱいの月蝕の演劇を楽しんで見ているうちは、戦争は起きないし、月蝕の演劇を楽しんで観ることが、悪い時代に抵抗する力を与えてくれるのではないか。
話が妙に大きくなったが、そんなことを考えた。

『ネオ・ファウスト』では倉敷あみさんとまたか涼さんのズッコケ悪魔コンビが爆笑の連続で、ぼくは計算して笑いを取る人を大変尊敬するタイプなので感心した。
『阿呆船』では倉敷あみさんと若松真夢さんの、顔が似ている?コンビが「どちらが起きていてもう片方が寝ている男」という趣向でこれも計算された体技が大変面白かった。
一方『ネオ・ファウスト』ではファウスト博士に当たる若松真夢さんと、彼が恋に落ちる百津美玲さん、そして『阿呆船』ではヘンタイ少年高田ゆかさんと、彼が飼っているカタツムリの百津美玲さんが、どちらも悲しい恋を描いていてもらい泣きした。
男優陣も新大久保鷹さんが『ネオ・ファウスト』では冷酷な神を演じていたのに『阿呆船』では情けない狂犬になっていたり、マンガ家の田村信先生(マンガは超ナンセンス・ギャグなのに舞台に立つとシブい性格俳優!)が『ネオ・ファウスト』では枯れたおっさん、『阿呆船』では色気が抜け切れないおばさんを演じたり、『ネオ・ファウスト』で全学連のリーダーを演じていた人が『阿呆船』では体制の走狗になっていたり、2演目の対比が楽しかった。

月蝕2回連続公演は、アナログレコードのA面B面のように、セットで1つの作品になっている。
今回ひつじ座という大変客席の居住性が悪い空間で、観る方もなかなか苦労して見たが、それに気づけて良かった。