さいきんブログのネタがない。
ブログを始める前は、書評中心になると思っていた。
一応本を沢山読む方なので、好きな本の紹介をすれば、すぐ埋まると思っていたのだ。
でも、やってみると存外に書きにくい。
それほど面白い本に当たらないのである。

Gutenberg Bible, Lenox Copy, New York Public Library, 2009. Pic 01
面白い本は褒めればいいし、面白くなかった本は貶せばいい。
最初はそう思っていた。
でもこれがなかなか難しい。
ぼくなんかがパッと読んでつまらない本であっても、簡単に貶してしまっていいものか。
一応わずかながら本なんか出しているので、一冊の本が、どれぐらい血の滲むような努力をしてようやく出来るものか、良く分かっている。

あと、ある読者が本をどれほど気に入るかは、本自体の絶対的な良し悪し以上に、相性、つまり本と読者の相対的な関係で決まる。
自分が気に入った場合は、自分と同じような好みやニーズがある人に読んでほしいと思うから、バンバン薦めたいと思う。
そういう人は全国に相当数いると思うから、ぜひ読んでもらいたい。
でも、不幸にして気に入らなかったからと言って、簡単に貶してしまって、その本がジャストにハマる人、そういう本を待っていた人が、読むのをやめたらもったいない。
こんなブログの影響をそこまで大きく見積もる必要はないけれども、余計なことを考えてしまって、キーボードが重くなる。

アマゾンのレビューを読んでいると、読者によってすごくバラバラだ。
同じ一冊の本に対して、「この本は簡単すぎて役に立たない」という読者もいれば、「この本は難しすぎて歯が立たない」と書いている人もいる。
何のことはない、書評ではなくて、本という鏡に投影された自分の姿をレビューに写し取っているに過ぎない。
自己紹介である。
それでもアマゾンのレビューは一冊の本について多数の人がいろいろなことを言っているので、まとめて読むと傾向が分かるという利点がある。
それに対して、ブログのような場所で、一刀両断にある本の評価を決めつけていいものだろうか。

ある本を読んで、良さ、面白さが分からなかったとしても、数十年経って良さ、面白さが分かる場合もある。
中学生の時に、ぼくがYMOにハマっていると、同級生の女子がそれを批判していた。
YMOは電子音で、無機質で人間らしくないし、分かりにくいし、楽しくないというのである。
では彼女が何が好きだったかというと、山下達郎であるという。
山下達郎はある意味YMOと同傾向の、言ってしまえばソウルをエレクトロニクスでソフィスティケートした音楽であって、山下達郎を毎日聴いていて飽きてきたら、モータウンを聴いたりスライを聴いたりして、結局YMOも好きになる可能性は高い。
ぼくは逆パターンで、最初山下達郎が甘くて気に入らなかったのだが、YMO=>大貫妙子=>山下達郎というルートで好きになった。
今良さが分からなくても、軽々にそれを良くないと断じてしまうことで、人生が狭くなり、遠回りしてしまうと思うのである。
まあ中学生がある音楽のジャンルを嫌うのは良くあることだし、自分にはこれが合わないという気持ちの動きを感じることも大切なことかもしれない。
でももし当時インターネットがあって、意気がって彼女がYMO批判なんかしていたら、後々厄介なことになっていたと思うのである。
だから褒めるのよりもけなすのは何倍も難しいし、ブログで公表する必要もない。
ということで、今日すごくつまらない本を読んだのだが、わざわざ悪評を書くのはやめることにした。